ラウンド2:人はなぜ苦しむのか? どうすれば救われるのか?
(ラウンド1の激論の余韻が残るスタジオ。あすかが仕切り直し、落ち着いたトーンで語りかける)
あすか:「いやはや、ラウンド1、凄かったですね…。神様の定義からして、こんなにも違うとは思いませんでした。さて、ラウンド2では、もう少し私たち人間の現実に目を向けてみたいと思います。テーマは、『人はなぜ苦しむのか?そして、どうすれば救われるのか?』です。」
あすか:「どんなに時代が変わっても、どんなに文明が進んでも、私たち人間は、病気や老い、死といった根源的な苦しみからは逃れられません。それに、失恋したり、仕事で失敗したり、人間関係で悩んだり…日常にも苦しみは溢れていますよね。この、誰もが経験する『苦しみ』の原因、そしてそこからの『救い』について、皆さんはどうお考えなのでしょうか?」
あすか:「このテーマといえば、やはりこの方にお聞きしないわけにはいきませんよね?釈迦様は、そもそもこの『苦しみ』の謎を解くために、全てを捨てて出家されたと伺いました。ズバリ、人はなぜ苦しむのでしょう?」
釈迦:「(静かに頷き)あすかさん、あなたの言う通り、生・老・病・死、これらは人間である限り避けられない根源的な苦しみ(苦苦・壊苦)です。しかし、苦しみはそれだけではありません。愛しい人と別れる苦しみ(愛別離苦)、憎い相手と会わねばならぬ苦しみ(怨憎会苦)、求めても得られない苦しみ(求不得苦)、そして、この変化し続ける身体と心(五蘊)そのものに執着することから生じる苦しみ(五蘊盛苦)…。これら全てが『苦』なのです。」
釈迦:「では、なぜ苦しむのか?その根本原因は、先ほども少し触れましたが、真理に対する『無知(無明)』と、それによって生まれる『渇愛』にあります。渇愛とは、快楽や生存、あるいは存在しないことへの激しい欲求や執着のこと。我々は、永遠でないものを永遠だと願い、実体のないもの(我)に固執し、変化を拒む。この渇きにも似た欲求が満たされない時、あるいは満たされても失うことを恐れる時、我々は苦しむのです。例えるなら、塩水を飲めば飲むほど喉が渇くように、渇愛は更なる渇愛と苦しみを生み続けます。」
あすか:「無知と渇愛…執着、ですか。言われてみれば、欲しいものが手に入らない時も、手に入れたものが無くなるのが怖い時も、確かに苦しいです…。じゃあ、その苦しみから『救われる』には、どうすれば?」
釈迦:「その渇愛を滅し尽くすこと。それこそが、苦しみの滅尽、すなわち『涅槃』への道です。そして、そのための具体的な実践方法が『八正道』。正しい見解を持ち(正見)、正しい決意をし(正思惟)、正しい言葉を語り(正語)、正しい行いをし(正業)、正しい生活を送り(正命)、正しい努力をし(正精進)、正しい精神集中をし(正念)、正しい瞑想をする(正定)。この八つの道を、バランスよく実践し、自らの心を見つめ、智慧を磨くことで、無明は破られ、渇愛は断ち切られ、人は輪廻の苦しみから完全に解放されるのです。これは、誰か他の力に頼るのではなく、自らの力で歩むべき道です。」
あすか:「八正道…なんだか、すごくストイックというか、自分自身と向き合う厳しい道のように聞こえますね…。ありがとうございます。…さて、この釈迦様のお話を聞いて、モーセ様はいかがですか?人の苦しみの原因は『渇愛』、救いは『自力での実践』だと。モーセ様の教えでは、苦しみと救いはどう説明されるのでしょう?」
モーセ:「(釈迦の言葉を吟味するように少し間を置いてから)…釈迦殿の言う『渇愛』が人の心を惑わすことがあるのは、確かかもしれん。だが、我々の苦しみの根源は、もっと深いところにある。それは、我々人間が、我らを創られた唯一なる神ヤハウェの御心に背き、『罪』を犯すことにあるのだ。」
モーセ:「神は我々に、祝福された生を生きるための『律法』を与えてくださった。しかし、人間は弱く、誘惑に負け、あるいは己の欲望のために、その律法を破ってしまう。エジプトでの我が民の苦役も、荒野での40年の放浪も、全ては神への不従順と不信仰が招いたことなのだ。苦しみは、神が我々を正しい道に立ち返らせるための鞭であり、試練でもあるのだ。」
モーセ:「では、どうすれば救われるか?それは、自らの罪を認め、心から悔い改め、そして再び神の『律法』に立ち返ることだ。律法を学び、それを日々の生活の中で忠実に守り行うこと。犠牲を捧げ、神の怒りを宥め、赦しを乞うこと。そして何より、神との『契約』を思い起こし、ヤハウェこそが唯一の主であり、救い主であることを固く信じ、従うことだ。我々自身の力だけでは、罪の汚れから完全に清められることは難しい。しかし、神は憐れみ深いお方でもある。心から立ち返る者には、必ずや救いの手を差し伸べ、祝福を与えてくださるのだ。自力ではない、神の力と憐れみによる救いだ。」
あすか:「原因は『罪』、救いは『悔い改めと律法遵守』、そして『神の憐れみ』ですか…。釈迦様の『自力』とは対照的に、神様との関係が中心なんですね。ありがとうございます。」
あすか:「ここで、ルター様の出番です!(ルターに視線を送る)モーセ様は『律法を守れ』と仰り、釈迦様は『自力で修行しろ』と。ルター様はオープニングで、そのどちらも否定するかのような『信仰のみ』を強調されていましたよね?人間の苦しみ、そして救いについて、詳しくお聞かせください!」
ルター:「(待ってましたとばかりに、身を乗り出し)その通りだ!モーセ殿の言う『律法』も、釈迦殿の言う『修行』も、それ自体が悪いものではない。むしろ、神が人間に何を求めておられるかを示し、我々がいかに罪深い存在であるかを自覚させるためには必要不可欠なものだ!」
ルター:「だが!それら『人間の行い』によって、人が神の前に義とされ、救われるなどということは、断じてありえないのだ!なぜなら、我々人間は皆、始祖アダム以来の『原罪』によって、その本性の根っこから腐っており、神の御前には、汚れたボロ切れのようなものだからだ!」
ルター:「考えてもみよ!どんなに律法を守ろうと努力しても、心の内で人を憎んだり、貪ったりすれば、それはすでに罪なのだ!どんなに厳しい修行をしても、悟りを開いたと驕り高ぶれば、それもまた罪なのだ!我々自身の力では、神が要求される完全な義には、到底到達できん!苦しみの根源は、このどうしようもない『罪』と、それに対する神の当然の『怒り』にあるのだ!」
ルター:「では、どうすれば救われるのか!?(拳を握り)それは、我々人間の側には、一切の功績も資格もない!救いは、ただただ、神の一方的な『恩寵(恵み)』によるのだ!神は、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、我々全ての罪をその身に負って十字架で罰を受けさせ、そして死から甦らせることによって、我々の罪を赦し、義とする道を開いてくださった!我々が為すべきことは、ただ一つ!このキリストの贖いを、感謝をもって『信仰』によって受け取ることだ!『信じる者は義とされる』!この聖書の言葉こそが、絶望の淵にある我々にとって、唯一の希望であり、救いの確証なのだ!」
あすか:「原因は『原罪』、救いは『信仰による神の恵み』!自分の力は全く関係ない、と…。これはまた、モーセ様や釈迦様とは180度違う考え方ですね!でも、『信じるだけでOK』って聞くと、ちょっと虫が良すぎるような気も…?何か悪いことしても、『信じてます』って言えば許されちゃうんですか?」
ルター:「いや、それは誤解だ!真の信仰は、必ずや『善き行い』を伴うものだ。リンゴの木が良い実を結ぶように、信仰によって新しくされた者は、自然と神を愛し、隣人を愛し、善き業に励むようになるのだ。ただし、その行いによって救われるのではない。救われたからこそ、感謝の故に善き行いをするのだ。順番が逆なのだよ!」
あすか:「なるほど!順番が違う、と。深いですね…。ありがとうございます。それでは最後に、アブー・バクル様。イスラムの教えでは、苦しみの原因と救いは、どのように考えられているのでしょうか?」
ムハンマド(アブー・バクル):「(落ち着いた声で)イスラムにおいて、人生における苦難や試練は、我々の信仰を試し、鍛えるために、全知全能のアッラーがお許しになるものです。時には、それは我々が犯した罪に対する懲罰であることもあります。しかし、いかなる苦しみも、アッラーの御計画と御許しなしには起こりません。」
ムハンマド(アブー・バクル):「信仰者は、困難に直面した時には、絶望するのではなく、アッラーへの信頼をもって耐え忍び、『全てはアッラーの思し召し』と受け止めます。そして、順境にある時には、驕ることなくアッラーに感謝する。これが、信仰者の基本的な姿勢です。」
ムハンマド(アブー・バクル):「苦しみからの真の『救い(ナジャート)』とは、現世における心の平安と、来世におけるアッラーからの報奨、すなわち楽園に入ることです。そのために重要なのは、第一に、アッラーとその預言者ムハンマド様(彼の上に祝福と平安あれ)、そしてクルアーンを疑いなく信じる『信仰』です。しかし、信仰は心の中だけにあるものではありません。(ルターの方を一瞥し)それは、日々の『実践』、すなわち五行(礼拝、喜捨、断食、巡礼など)や、アッラーが定められた法に従った正しい生き方を通して、具体的に現されなければなりません。信仰と実践は、鳥の両翼のようなものであり、どちらか一方だけでは、救済へと飛び立つことはできないのです。アッラーは、信仰し、善行に励む者に、必ずや豊かな報奨をお与えくださいます。」
あすか:「原因は『試練』や『罪』、救いは『信仰と実践』、そしてゴールは『来世の楽園』…と。ルター様の『信仰のみ』とも、モーセ様の『律法遵守』とも、釈迦様の『自力解脱』とも、また違いますね…。信仰と実践、両方が必要なんですね。ありがとうございます。」
あすか:「いやぁ…皆さんのお話を聞いていると、頭がぐるぐるしてきました!苦しみの原因一つとっても、『執着』だ、『罪』だ、『原罪』だ、『試練』だとバラバラで、救われ方も、『自分で頑張れ』、『神様を信じろ』、『律法を守れ』、『信仰と実践だ』と…もう、どれを選べばいいのやら!」
あすか:「でも、共通しているのは、皆さん『現状の苦しみは、乗り越えられるものだ』、そして『その先には、何らかの救いや平安がある』と示されている点でしょうか?方法は全く違いますけど、ある意味、どれも『希望』のメッセージなのかもしれませんね。」
(あすか、少し間を置いて、スタジオの空気を感じ取る)
あすか:「さて、苦しみからの救済について、それぞれの道を伺いました。ですが、その『道』を照らすとされる『聖なる書物』や、信仰の対象を『形』にすることについては、また大きな違いがありそうです…。ラウンド3では、そのあたりに、さらに深く切り込んでいきたいと思います!」
(ラウンド2の終了を告げる、厳かながらも次への期待感を煽るような音楽が流れる)