ラウンド1:『神』はいるの? いるとすれば、どのような存在?
(ファンファーレのような音楽が終わり、スタジオは再び落ち着いた雰囲気に。あすかが中央で、対談者たちに向き直る)
あすか:「さあ、いよいよ討論開始です!ラウンド1のテーマは…ズバリ、『神』!皆さんが語られた『真理』の根源とも言える存在ですよね。オープニングでも少し触れましたが、この『神』について、もっと深く掘り下げていきたいと思います。」
あすか:「特に、モーセ様、そしてムハンマド様の名代でいらっしゃるアブー・バクル様、ルター様は『唯一の神』を語られましたが、その神様は、果たして同じお方なのでしょうか?まずはモーセ様、あなた様が荒野で出会い、民を導くよう命じられた神、ヤハウェとは、どのようなお方なのですか?」
モーセ:「我らが神、ヤハウェは、天と地、そしてその間にある全てのものを創造された、唯一にして真実の神である。エジプトの地でファラオが崇めていた数多の偽りの神々とは違う。ヤハウェこそが、ナイルを血に変え、蝗を放ち、そして紅海を二つに分けて我が民を救い出した、全能の主なのだ。」
モーセ:「神は、ただ力あるお方というだけではない。アブラハム、イサク、ヤコブといった我らの父祖たちと契約を結ばれ、その子孫である我々イスラエルの民を、ご自身の宝の民として選ばれた。そして、シナイの山では、燃え盛る炎の中から、私にご自身の声を聞かせ、民が生きるべき道、すなわち『律法』をお示しになったのだ。ヤハウェは、義なるお方であり、契約に忠実な者を愛し、背く者には怒りを発せられる。気まぐれな異教の神々とは違い、その御心は確かであり、我々はその御前にへりくだり、ただ従うべきなのだ。」
あすか:「天地創造の主であり、民と契約を結び、律法を与えた…非常に具体的で、力強い神様ですね。ありがとうございます。では次に、アブー・バクル様。ムハンマド様が伝えられた唯一神アッラーは、モーセ様が語られたヤハウェと同じ神なのでしょうか?そして、どのようなお方だと?」
ムハンマド(アブー・バクル):「はい。我々が信じるアッラーこそが、モーセ様(彼に平安あれ)が仕えられた神、そしてアブラハム様(彼に平安あれ)が信じた唯一の神に他なりません。アッラーは、始まりもなく終わりもない、永遠にして全知全能の創造主です。『慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において言え、「かれはアッラー、唯一なる御方。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない。かれに比べ得る、何ものもない。」』(クルアーン第112章)これこそが、アッラーの唯一性を示す最も重要な言葉です。」
ムハンマド(アブー・バクル):「アッラーは、人間には到底想像も及ばぬほど偉大で超越的なお方ですが、同時に、最も慈悲深く、最も慈愛あまねき御方でもあります。かれは、悔い改める者を赦し、信仰する者を導かれます。しかし、かれの唯一性を疑い、石や木で作った偶像などをかれと並べて崇拝する者に対しては、厳しく報いられます。預言者ムハンマド様(彼の上に祝福と平安あれ)は、人々をこの偶像崇拝の迷いから解放し、真の唯一神アッラーへの信仰に立ち返らせるために遣わされたのです。」
あすか:「なるほど…モーセ様の神様と同じだけれど、最後の預言者であるムハンマド様を通して、その教えが完成された、ということですね。そして、偶像崇拝は絶対ダメ、と…。ありがとうございます。」
あすか:「さて、ここでルター様にお聞きしたいのですが…。お二人のお話を聞くと、神は『唯一』である、という点で共通していますよね。ルター様の信じる神も『唯一神』のはずですが、先ほどオープニングでは『イエス・キリストは神の子であり、神でもある』とも仰っていました。モーセ様やアブー・バクル様からすると、『神様が二人いるの?』って思っちゃいそうですが…そのあたり、どういうことなんでしょうか?」
ルター:「(待ってましたとばかりに、身を乗り出して)良いところに気づかれた!それこそが、我らキリスト者の信仰の核心であり、また、人間の矮小な理性では到底測り知ることのできぬ、神の深遠なる神秘なのだ!我らが信じる神もまた、モーセ殿が語られた天地創造の父なる神、唯一の主であることに疑いはない!しかし!神は、ご自身を我々に示すにあたり、三つの『位格』において現されたのだ。すなわち、万物の創造主である『父』、我らの罪のために人となり、十字架にかかって死なれ、そして復活された『子』なるイエス・キリスト、そして、我々信じる者の内に宿り、我々を導き、聖化してくださる『聖霊』である!」
ルター:「(モーセとアブー・バクルの方を見ながら)これは、神が三つあるという意味ではない!断じて違う!父も子も聖霊も、それぞれが完全な神でありながら、本質においては『一つ』の神なのだ!それは、人間の言葉で説明し尽くせるものではない。太陽が、その本体と、光と、熱において一つであるようなものだと言っても、十分ではないだろう。だが、聖書が、特に神の子キリストご自身が、そのように証ししておられるのだ!『私を見た者は、父を見たのだ』と!キリストを知らずして、真に父なる神を知ることはできんのだよ!」
モーセ:「(厳しい表情でルターを見据え)…ルター殿、あなたの言うことは、我々には到底受け入れられん。神は唯一。それ以上でもそれ以下でもない。『私を見た者は、父を見た』だと?人の子が、どうして神そのものだと言えるのだ!それこそ、エジプトのファラオが自らを神だと称したような、傲慢の極みではないか!神は、決して人間の形をとられるようなお方ではない!」
ムハンマド(アブー・バクル):「(静かに、しかし断固として)モーセ様(彼に平安あれ)の仰る通りです。アッラーが子をもうけるなどということは、断じてありえません。それは、アッラーの完全性と唯一性を冒涜する考えです。イエス様(彼に平安あれ)は、我々も偉大な預言者の一人として深く敬意を払っておりますが、決して神そのものでも、神の子でもありません。アッラーがお創りになった、一人の人間であり、神の使徒です。クルアーンには、そのことが明確に記されております。」
ルター:「(憤然として)なんと!あなた方は聖書を、キリストご自身の言葉を信じないというのか!キリストこそが、律法によっては満たされなかった神の義を完全に成就し、我々を罪の奴隷から解放してくださったのだ!父なる神の愛は、この御子キリストにおいてこそ、最大限に示されているのだ!それを否定することは、神の救いの御業そのものを否定することに等しい!」
あすか:「おっとっと!これは早くも激しい応酬です!同じ『唯一神』を信じると言っても、『神が人の形をとるか』『神に子がいるか』という点で、全く相容れないんですね…。まさに神学論争!」
あすか:「…さて、この白熱した『唯一神』論争を、静かに聞いておられた方がいらっしゃいます。(釈迦の方を向き)釈迦様。モーセ様、アブー・バクル様、ルター様は、それぞれに『絶対的な神』の存在を語られました。釈迦様は、このような『神』について、どのようにお考えなのでしょうか?そもそも、釈迦様の教えの中に、『神』は必要なのでしょうか?」
釈迦:「(穏やかな表情を崩さず、静かに語り始める)皆さまが熱心に語られる『神』。それが、どのような存在を指すのか、私には完全には理解できませぬ。私が覚りを開いて見出したことは、この世界も、そこに生きる我々自身も、全ては絶え間なく変化し(無常)、固定的な実体を持たず(無我)、様々な原因と条件が寄り集まって成り立っている(縁起)という法です。」
釈迦:「人々が『神』と呼ぶものが、この宇宙を創ったのか、あるいは人の運命を司るのか。そうした問いについて、私が説くことはありません。なぜなら、そのような問いへの答えを知ることが、我々が直面している『苦しみ』、すなわち生老病死、愛別離苦、怨憎会苦といった現実の苦悩から解放されることに、直接繋がるわけではないからです。」
釈迦:「毒矢に射られた人がいるとしましょう。その人が、『この矢を射たのは誰か?』『矢は何でできているのか?』『毒の種類は何か?』などと問い続けている間に、毒は全身に回り、命を落としてしまうでしょう。まず為すべきは、その毒矢を抜き去り、傷を癒すことではありませんか?」
釈迦:「私が説くのは、その苦しみの原因が、我々自身の心の中にある無知(無明)と渇愛(煩悩)にあるということ。そして、その原因を滅すれば、苦しみもまた滅する(涅槃)ということ。そのための実践的な道(八正道)です。世界の始まりや、絶対的な創造主の存在について思索することは、解脱という目的においては、脇道に逸れることなのです。」
あすか:「(少し考え込みながら)なるほど…。神様がいるかいないか、どんな方かなんて考えてる暇があったら、まず自分の心の毒矢を抜け、と…?なんというか、すごく…プラグマティック(実用的)というか、クールというか…。でも、それじゃあ、この世界を作ったのは誰なんですか?偶然できたってこと…?」
釈迦:「始まりについて語ることは、更なる問いを生むだけです。始まりがあれば、その前には何があったのか?終わりなく問いは続き、解脱には至りません。重要なのは、『今、ここにある苦しみ』と、そこから抜け出す道を知ることです。」
モーセ:「(釈迦の言葉に納得がいかない様子で)…釈迦殿、あなたの言うことも一理あるのかもしれん。だが、我々を創られた神を知らずして、どうして真の平安が得られようか!律法を与えられた神の御心を知らずして、どうして正しく生きることができようか!それは、船長を知らずに航海するようなものではないか?必ずや、道に迷い、破滅するだろう!」
ルター:「そうだ!神を知らずして、どうして罪からの救いがあるというのだ!我々の苦しみの根源は、神から離反した『罪』にあるのだ!その罪を赦し、我らを再び神との正しい関係に回復させてくださるのが、キリストの福音なのだ!神の存在を抜きにして、人間の苦しみを語ることなど、根本的な解決にはなりえん!」
ムハンマド(アブー・バクル):「(静かに頷き)アッラーを知ることこそが、全ての知識の基礎であり、真の平安への唯一の道です。アッラーへの信仰なくして、いかなる実践も、最終的な救済には繋がりません。預言者ムハンマド様(彼の上に祝福と平安あれ)も、まず人々にアッラーの唯一性を説くことから始められました。」
釈迦:「(反論する三者を見渡し、静かに)皆さまが『神』と呼ぶ存在に頼ることが、かえって心の執着となり、苦しみを生むこともあるのではないでしょうか。自らの外に絶対的なものを求め続ける限り、真の自立、すなわち涅槃には至れません。頼るべきは、自らの内なる智慧の光と、修練によって培われた力なのです。」
あすか:「うわぁ…!これは…!唯一神を信じる皆さんからすると、釈迦様の教えは『神様不在』に見えてしまうし、釈迦様からすると、唯一神への信仰は『執着』に見えてしまう…?全く違う方向を向いているようでいて、でも皆さん『苦しみからの解放』や『平安』を求めている点は同じ…?うーん、深い!深すぎます!」
あすか:「神はいるのか、いないのか。いるとすれば唯一なのか、三位一体なのか、あるいはもっと違う形なのか…。ラウンド1から、とてつもなく大きな問いがぶつかり合いました!この議論、まだまだ続きそうですが、一旦ここで区切らせていただきます!」
(あすか、議論の熱が冷めやらぬスタジオで、次のラウンドへの期待感を込めて締めくくる。やや混乱したような、しかし知的好奇心を刺激されたような表情を浮かべている。)