六話
「そうは言っても怖い?」
月姫の声で我に返った。
彼女は更に続ける。
「いざと言う時は私が守ってあげるから大丈夫だよ」
「守るって……」
その時。
ダダダダダッと、建物の奥で何かが駆け回る音がして、二人ともにびくっとした。
人間の足音ではない。
かと言って、鼠のような小動物でもない。
もっと大きな何かだ。
しかも、だんだんその音が近付いてくる。
「フギャアアアアア!」
けたたましい鳴き声と共に、何かがこの部屋に入って来たのが分かった。
やっぱり物の怪?
黒い塊が一直線にこちらに迫って来る。
月姫も僕もその場に座り込み、互いにしがみつくようにして抱き合った。
逃げる隙はなかった――
ただ、それは僕たちの目の前を通り抜けて部屋の端まで駆けて行った。
そしてまた方向を変えて奇声を上げながら狂ったように走り回る。
すると、月姫が突然立ち上がり歩き出した。
「月姫?」
僕の呼びかけに答えず、走り回る黒い塊の方へ向かって行く。
「だっ、だめだよ! 危ないよ!」
月姫も声取られたらどうしよう――
手に触れた棒切れのようなものを掴んで立ち上がり、月姫の後を追う。
月姫は黙ったまま荒れ狂う黒い怪物にそっと近付いていく。
そして両手を広げ、かばっと袖と袖の間に怪物を包み込むように捕まえて座り込んだ。
「フゥゥゥ!」
そいつは尚も叫びながら暴れている。
月姫を助けないと!
僕は棒切れを振りかぶり、目をこらして標的を定める。
思ったより大きくはない。
しかし――急に怪物は暴れるのをやめて静かになった。
「にゃあ」
打って変わって甘えたような鳴き声。
猫……?
「これが首に巻き付いていたみたい」
月姫は息をはあはあと弾ませながら、何か布のような物を僕に渡して見せた。
暗くてよく見えないが、手拭いのようだった。
「ね、物の怪なんていないって言ったでしょ」
月姫が明るい声でけらけらと笑う。
僕はへなへなとその場に座り込んだ。
「姫様!」
「若君!」
同時に叫びながら、尹盛と月姫の家人の藤助が入って来た。
わああと泣きながら月姫は藤助に飛びつく。
「二人がいらっしゃらなくて心配したのですよ。怪我はしていないですか?」
尹盛が僕の手を引いて立たせてくれた。
「だ、大丈夫。心配かけてごめんなさい」
「誘ったのはうちの姫様ですね。尹盛さん、若君まで巻き込んで申し訳ない」
藤助は月姫を抱き上げながら頭を下げる。
「いえ、僕が行こうかと誘いました」
正直に訴えると、尹盛が隣りで笑った。
「へえ、若君が? お珍しい」
「違うの、私が元々兄上達とここに来るつもりだったの。顕成はおいてかれた私について来てくれただけ」
涙混じりの掠れた声で月姫が付け加えると、尹盛と藤助は顔を見合わせて吹き出した。
「正高坊ちゃん達なら、山の途中で引き返して別の所へ遊びに行ったそうですよ。それも飽きたそうで先程戻られましたが」
「怖気づいた子がいたとか? 姫様と若君の方がなかなか勇敢ですな」
どおりで道中もここでも会わないはずだ。
外に出て視界が明るくなってから、藤助におぶられている月姫を見てぎょっとした。
着物の袖が所々破れていて、血が滲んでいる。
暴れ回る猫を羽交締めにして、首に引っかかった手拭いを外す際にやられたのだろう。
僕の前では気丈に振舞っていたけれど、藤助が現れたとたんに泣き出した事といい、本当は怖かったに違いない。
なのに僕を守ると言ってこんな怪我までして……。
それに比べて僕は……ただ震えて月姫の後をついて行くだけだった。
僕は――何て情けないんだ。
「尹盛。どうしたらもっと強くなれると思う?」
「若君が強くなりたいのですか?」
「うん。守られるのは嫌だ。強くなりたい」
「伊勢には武芸に強い平家の一族が住みついていますが、朝早くから鍛錬している姿をたまに見かけますね。でも、強さと言ってもいろいろありますよ」
「いろいろ……とは?」
「力だけではないという事です。人には向き不向きがありますから。若君は学才があるのですから、そちらの強さを磨く事で大切な誰かを守れるのではないですか?」
「でも……」
「どうしても鍛えたいのであれば、私がいくらでもお相手しましょう。こう見えても、京では武官を務めた事があるのですよ」
尹盛はそう言って僕の頭を撫でた。