五話
それから数か月後の夏の日。
いつものように国司館の講義の部屋へ向かうと右京という女房に引き留められた。
「今日の講義は、伊勢守様のお仕事の都合でお休みになりましたよ」
あ、そうなんだ――
少しがっかりしていると、右京は少ししゃがんだ。
「顕成さまは遠くからいらしてるんですよねえ。尹盛さんのお仕事が終わるまで、遊んでお待ちくださいな。月姫さまならお部屋にいらっしゃるとおもいますよ」
僕はコクリと頷いて言われた通りに月姫の部屋に向かった。
「つきひめ、いる?」
声をかけても返事はない。
御簾が下げられていて部屋の中の様子が分からない。
寝ているのかな?
僕は諦めて、やはり講義の部屋へ向かう事にした。
書物でも読んで時間を潰そう――
透渡殿に出た所で、中庭を何かが走って行くのを目の端で捉えた。
一瞬の事だったけれど、薄い桃色の着物……だったような気がする。
僕は中庭に下りて、後を追ってみた。
少し奥に入ったところに、薄桃色の水干姿を召した子の後ろ姿があった。
しゃがみ込んで建物の下に頭を入れていて、顔は見えない。
「もしかして――月姫?」
声をかけると、ビクッとして振り返って僕を見た。
やはり、月姫だった。
また男の子の格好をしているところを見ると、外出しようとしていたようだ。
「なんだ顕成かあ」
少しほっとしたような顔で僕を見る。
「何してるの?」
「え。あー、えっと、何でもないよ」
砂埃を頬に付けながら笑ってみせた。
僕は自分の袖で月姫の顔をさっと拭いてから、先程月姫が頭を突っ込んでいた所を指差す。
「あそこ――沓がいっぱいあるけど、どうして?」
男の子の沓が不自然に投げ入れられていた。
「へ? し、知らない」
素知らぬふりをしようとする月姫の目を僕はじーっと見た。
「わ、私じゃないよ?」
「月姫」
「うん?」
「また置いてかれたの? だから沓を隠したの?」
確信をついたのか、月姫の顔は真っ赤になった。
「正高さん達、どこかへ行ったの?」
「山寺。肝試しだって」
「ふうん――じゃあ、僕たちも行ってみる?」
「えっ?」
「月姫も行くつもりだったんでしょ? 裏山の寺なら歩いて行けると思うよ。沓は返しておいでよ」
月姫は、ぱあーっと顔を明るく輝かせて頷いた。
近くではあるけれど思ったより険しい山で、その頂上近くにある寺に辿り着くまで結構かかった。
しかも、古くてぼろぼろの建物。恐らく廃寺のようだ。
二人で並んで中に入って中を確認する。
「兄上たち、もう帰っちゃったのかな」
人の気配はなかった――灯りのない室内は真っ暗で、昼間なのに何も見えない。
何だか――不気味だな。
そう言えば、正高さん達は肝試しに行くって――?
「つ……つ……月姫……」
「何?」
「だ……誰もいないし帰ろうよ」
体が震えるのを抑えながら訴える。
「えー? 嫌よ。来たばかりじゃない。探検しようよ」
そう言いながら、どんどん中に入って行く。
僕は取り残されたくなくて、月姫の袖をつかんで付いていくしかなかった。
だんだんと目が暗闇に慣れてきて、多少は周りが見えるようになってきたけれど、それでも怖い。
「お、お化けとか鬼とか出たらどうするの?」
「あー、お化け? ねえ、顕成。いい事教えてあげる」
「何?」
「お化けとか物の怪とか鬼とか。そーいうの、本当はいないんだよ」
「え?」
「私、何度も確かめた事あるけど、出くわしたことないもの」
突然、脳裏にふっと声が飛び込んできた。
――葵君には物の怪が取り憑いている。
――鬼に声を奪われたのだろう。
――こんな物の怪付きの子とは暮らせないわ。
誰?
頭から冷や汗が出て落ちてくる。