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十話

 外で尹盛を待っていると光祐がやってきた。

「あれ、まだ帰ってなかったの?」

 そう声をかけながら、先程の月姫とのやりとりが頭をかすめ、視線を少し外す。

「一度帰ったよ。これを先生の奥方に渡して来るようにと母上に持たされてさ」

 光佐は手にした包みを持ち上げて見せた。

 でこぼこした形の布の隙間から緑色の葉が少し顔を出している。

「野菜?」

「そ。今日採れたのをたくさんもらったんだって。じゃ、ちょっと行って来る」


 光祐の家は国司館のすぐ近くの宿舎にあるらしい。

 彼だけじゃなく教室に来ている子は皆近所に住んでいるそうだ。

 尹盛も普段は光祐と同じ宿舎の一つに家族と共に暮らしていると言っていた。

 遠くから通っているのは僕だけだ。

 斎宮の辺りからここまでは馬で一刻位だが、それが徒歩だと朝出て夕方にやっと着く位かかると思う。

 尹盛が送り迎えをしてくれているので何とか通う事ができているのだった。


「顕成まだいたのか。いつもこれ位まで待ってるの?」

 光祐は僕のところに戻ってきて訊いてきた。

「日によるけど、今日は少し遅いかな」

「そうか。診察が長引いてるのかもね。遅くなったら尹盛さんの家に泊まるとかはないの?」

「うん。これまで一度もないよ」

「そうか、尹盛さんも毎週斎宮まで行ったり来たりと大変だな」

「そうだね。光祐の父上は月に一日位なのにね。尹盛は頻繁に薬の仕入れでもあるのかな」

と共感したつもりなのに、光祐は呆れたような顔をして僕を見る。

「そんなわけないだろう? お前はやっぱりお坊ちゃまだよな」

「え?」

「自分で尹盛さんに聞いてみな」

 尹盛は僕の肩をポンっと叩いて去って行った。


「尹盛は毎週斎宮寮に用事があるわけではないの?」

 尹盛が迎えに来てすぐに、光祐に言われた通り訊ねてみた。

「え?」

「まさか僕の送り迎えのために通ってくれているの?」

「そうですね、実は斎宮寮にそんなに用はありません。でも元々高齢の両親の様子を見るため、しょっちゅう実家に顔を出していたのですよ」

「でも……僕をここに連れて来て、またその夜斎宮まで送るのだから週に二往復もしている事になる。最低でも週に一往復分無駄な労力が発生しているよね?」

「私の事を心配してくださるのですか。お優しいですね、若君は」

「ち、違う。気付かせてくれたのは光祐だよ。尹盛がそんな苦労しているのに、僕は気が付かず当たり前のように受けていた――忠恕(ちゅうじょ)の精神を欠いている。論語なんて習う資格がない」

 自分のいたらなさに半ばがっかりしていると、尹盛はぷっと吹き出した。

「若君は生真面目ですね。忠恕(ちゅうじょ)――自身だけでなく人の立場や気持ちを思いやる事ですね。気になさるのならもう教室はやめられますか?」

「そ……それは……」

「お嫌でしょう。母上や姉上も反対するでしょうし。私もしかりです」

「でも……」

 尹盛の苦労を知ってしまった以上、これまで通りというわけにもいかない気がする。

 とは言え、教室に通えなくなるのも嫌だった。


 どうすればいいのか分からず黙っていると、尹盛は僕の頭をそっと撫でた。

「私の家から通いますか?」

「え? 尹盛の家?」

「両親が寂しがりますから、一週置きにというのはどうでしょう?」

「いいの? 尹盛の奥方や子もいるのに」

「妻も子もちょうど若君に会いたがっていますので構いませんよ。但し実家より狭いので我慢してくださいね」


 その翌週。

 講義の後、僕は尹盛と一緒に国司館を出て北側に向かった。

 同じような建物が並ぶ宿舎街へと入ると、前方から二歳位の小さな子がだだだっと走り寄って来た。

「父上!」

 尹盛は笑ってその子を抱き上げる。

「ただいま、太郎」

 太郎……という事は男の子だ。

 太郎は尹盛の肩ごしに僕を見つけてじいっと瞳を合わせる。

「あっ、ええと、こんにちは」

と声をかけると、太郎はにっこりと笑った。 

「わかぎみだね!」

「太郎、こんにちは、は?」

 尹盛が優しい声で諭す。

「こんにちは、わかぎみ」

 拙い話し方が何とも可愛い。

「顕成でいいよ」

「じゃあ、あきなり!」

「こら、せめて顕成様か顕成君とお呼びしなさい。若君すみません」

 僕は全く気にしていなかったので首を横に振った。

「太郎って言うんだね。よろしくね!」

 太郎の手をそっと取り、握手をする。

 小さくて柔らかい。


――あおいのあにうえ!


 ふいに、頭の中で、僕を呼ぶ幼い高い声が響いた。

 白くて小さな手。

 僕を見上げる澄んだ瞳。

 あれは確か……


 万寿宮(ますのみや)……?


「若君?」

 尹盛が心配そうな目で僕を見つめていた。

「あ、何でもない……」

 僕は我に返る。


 久しぶりの記憶の断片――だとしても、何なのかは分からない。

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