170度の範囲
先崎の前に男が立ちふさがった。顔に深いしわが刻まれたおじさんは値踏みするような目で先崎の足先から頭のてっぺんまでじっくりと観察し、首元の匂いを嗅いだ。
「化け物じゃねぇみてぇだな」
男は灰色の作業服に身を包み、旧日本軍の洋菓子パンみたいな戦闘帽を被っている。
その雰囲気は工場で働いている年配の工員によく似ていた。
「邪魔するつもりはありません。帰ってもいいですか」
「あんちゃん、あのな。普通の人間はあれを見たら『あれは何ですか!?』とか『写真撮っていいですか!』とかいう訳だ。なんで言わない?」
前にも見たことがあったからだ。とは言えない。お客様の工場でのことだ。俺は少年兵の襲撃に居合わせた。だがいつまでも襲われずにそこにいた。なぜならば、その襲撃者が他の襲撃者に襲われていたからだ。
この世界には食物連鎖のピラミッドがあるが、人間とは別のピラミッドが存在する。あの工場にいたのは、そういう世界の生き物だ。
「何か知っているな? 話してくれれば帰さないこともない」
「必要なのは、落ち着ける場所です。俺が興奮すると、あれも興奮します。俺は今、必死に平静を装っています。この意味が分かりますか?」
おじさんの頬をツーっと汗が垂れた。しかしその汗は床には垂れず、空中でとまり小さな水滴となって浮遊している。
そいつの後ろに立っている俺には、怒っていることがありありと分かった。背中の鱗が波打って、車が小石を巻き上げた時のような嫌な音を立てているのだ。それは、体内の膨大な筋肉が躍動するため。
そいつの目は前側についている。つまり、こいつにとっての世界は目で見える170度あまりの世界しかない。背中側はこいつにとってないも同然なので、擬態する必要がない。だからその姿がはっきりと見えた。
だがおじさんからはそれが見えない。
しかし無駄に年をくっていないのは確かで、おじさんは黙った。
俺”達”はゆっくりとその横を抜ける。
「世界が黙っちゃいねーぞ!! それを日本を守るのに使え!」
床のリノウムが波打った。そしてメキメキと耳を塞ぎたくなるような音を立てて粉々に砕け散った。
俺達人間は立っていることもできず、粉々になった床の上に投げ出されてひどい痛みと向き合った。倒れている時ずっと心配そうな二つの目が俺の周りを動き回り、少しおかしなことになっていた。
10分後、俺達はただ歩いて空港を出たが、その後ろ姿がおじさんには見えたようだった。
「なんだそれは!! 化け物!! 怪獣だ!! 対策班を呼べ!」
今日のことで分かった。こいつが擬態するのは襲撃者から隠れるためじゃない。
獲物を近くまでおびき寄せるためだ。