痛みのない裂傷
全ての機械の火を落とし、工員を病院に担ぎ込んだ後で問題が発生した。
警察が来るのは最低でも明日になるというのだ。二人が大けがを負い、機械が暴走した現場で、それはあまりにもお粗末な対応だった。
通訳のアイザックが言うには、ここは武装集団の支配地域で、警察はおろか軍隊も介入したがらないレッドゾーンとのこと。
なるほど。渡航取りやめ勧告の理由が分かった。
「今夜どこに泊まろう……」
「それでは俺の家に。子供も喜びます」
「いえ、さすがにそれは」
自分は元々機械の方が人間よりも仲良くできる性格だ。
「ホテルを取るよ。ありがとう。今からでも取れますかね?」
「そりゃもちろん。三ツ星ホテルだって空いてます」
アイザックのいう事は事実だった。
武装集団が民間海外企業の車列を襲ってからというもの、外国人労働者が軒並み町を離れ、ホテルは閑古鳥が鳴いていた。
やる気のなさそうな受付は、色落ちしたブラウン管のテレビを眺め、鼻をほじったまま接客を行うという態度で、料金は一晩素泊まりで7000円だった。
部屋はかび臭く、カーペットには変な染みがあったし、洗面所には縮れ毛が落ちていた。まあ、驚くこともない。ここは日本ではないのだ。
それより驚いたのは、シャワーを浴びている時のこと。
当たり前のようにお湯の出が悪く、10秒に一回のペースで水の吹き出るシャワーヘッドに諦めの精神で体を泡立てていると、ちょうど臍の下あたりに引っかかりを覚えた。
よく見るとそれは傷だった。
横一列線を引いたように真っ直ぐな切り口で、既に血が固まり表面にはざらざらとした感触があった。身に覚えのない傷だ。
機械に落ちた時に切ったのか。
あの時は必死に止めようとしていたためか、痛みは無かった。
不思議なことに、スーツで水槽に落ちたはずだが、入浴後にワイシャツを広げてもどこにも傷が無かった。
まるで肉だけが切られたみたいに。
アイザックはいいやつだった。外国人は時間にルーズかと思っていたが、翌朝7時30分には迎えに来てくれた。
「おはようございます。日本人さん」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「はい。これから工場に行きたいですか?」
「はい。日本人は仕事が好きなので」
俺は工場に行って現場検証に立ち会おうと考えた。さすがに警察も来るだろう。
現場に残されたプレス機を眺め、分かったことはいくつかある。安全装置が取り外され、型が変形するほど強い力をかけられていた。外装を止めているはずのM10のボルトすべてが飛び、飛散していた。
おそらく、力の最もかかる下死点付近で無理やり使ったのだ。それで150tで加圧できるフレームが歪んだ。
いったい何をプレスしようとした?
その答えは、塗装が焼き切れて変色したレーザ加工機の中に今もある気がした。
アイザックは用事があると言って急いで出て行ったので、工場には俺意外誰もいなかった。
昨日とは打って変わって、忘れさられた湖畔のようにしんと静まり返った薄暗い工場に、工作機械がずらりと立ち並んでいる。まるで巨人の墓石だ。
そのなかをぽつんと立って見渡すと年季の入った安全靴が切子を踏んで嫌な音を立てた。
ゴクリと生唾を飲んだ。
なんだか変だ。聞いていた話ではこの工場にある機械は他社製品も合わせて12台のはずだ。それが今、13台ある。
それに、昨日見たあれはいったい何だったのだろうか。
お客様の中には一切製品を見せないという人が多い。それは加工するのが最先端の機器であるだとか、国防に関するものを扱っているから等の理由があったが、ああいう物は見たことが無かった。
無機質というより、有機物。鋼鉄というよりも何か動物、そう、あれは卵。
俺は知りたいという欲望に駆り立てられ、加工機によじ登った。
薄暗い加工機内部はまるで棺桶のようだった。鉄と油の溶けた臭い。そして生臭さ。違うのはこれがヒノキではなく高炭素鋼で出来た棺だという事。そして中に入った物は切り刻まれる。
ただ今日はその中にアレが無かった。
さすがにまずいと思ったのか、昨日俺が帰った後に隠してしまったのだろうか。
プールの底に残された水たまりに触れると、ガラスのように尖った輝きが茶色い泥水の中で舞い上がった。まるで空港で売っている御土産のスノードームみたいだ。
「綺麗だな」
その時である。
ズリリリズリリリと重い荷物を運ぶような音が外から聞こえた。
工員が来たのだろう。こんなところに入っているのを見られたら怒られてしまう。
もし、機械から這い出て、目の前にご立腹な工員が立っていたらどんなに良かっただろか。
目に映ったのは小さな人影。それも子供だ。