渡航日
電話の子機が不吉な和音を奏でた。規定通り2コール以内で電話に出ると、声の主は課長だった。課長はいつもより声が上ずっていて、興奮しているようだ。
「先崎君。ちょっと話せるかな?」
「はい」
俺はフロアを下りて課長のデスクに向かって歩いた。足取りは重い。ここ最近仕事の納期が間に合わず、課長には目を付けられている自覚があった。仕事が終わらないのは自分の経験不足からくる時間の浪費が原因だった。仕様上必要のない部分の見直し、考慮する必要のない顧客からの要求。それらがしわ寄せとなって納期を遅らせる。
「課長、お疲れ様です。お電話の件できました」
「あ。来たね」
課長は睨みつけるように見ていたパソコンのモニターから顔を上げた。顔に貼りついた作り笑いが俺の不安を助長する。
「海外出張。行ってくれないか」
「は」
「海外。仕事のミスがあってね。君の担当じゃないけれど、調査に行ってきてほしい。これからの勉強にもなると思う」
「自分パスポート持っていないんですが」
「えー!じゃあ半休とって役所行って」
俺は苦笑いで「間に合いますかね」と言った。
「大丈夫」
課長は嬉しそうな笑顔で答えた。もう俺が海外に行くことは彼の中で決定しているらしい。
「何かあっても保険が出るから」
死んだらお金はもらっても使えないんだが。手渡された書類には、仮に病気になった場合会社がどのような責任を取るのか、死んだ場合、責任はどこまで取るのかがビッチりと記されていた。
余りのショックに足裏の間隔が無くなる。
立ち方を忘れる。
息が苦しい。嫌な汗をかいて来た。
海外の現場。そこは観光地とは程遠いさびれた場所に違いなかった。渡された書類には、渡航危険レベル3の国が記されていた。渡航危険レベルとは外務省が発表している日本人向けのいわば標識だ。レベル1は十分に注意して渡航してくださいというレベルで、レベル3では渡航中止勧告となる。
「大丈夫。会社は民間ガイドと通訳も付ける。何も心配いらない」
課長の左手薬指で結婚指輪が光った。俺には独り者のお前が行くのが妥当だと言われているような気がした。そりゃ、母子を残して死ぬわけにはいかないだろう。
だからって、だからって何で俺が。
課長は既にその土地の事情を調べ上げていたようで、隣国経由の国際便で移動に3日の予定が組まれていた。内1日は車での移動となった。
俺は散々空でトランプリンさせられた後で未舗装の道路をsuvに揺られて運ばれた。
社用車というよりも、乗り合いのタクシーのような見た目だった。10時間近いフライトで腰が砕けそうに痛いのに、やたらクッション性の悪いソファーが不満を煽った。
空港で合流した通訳の男はアイザックと名乗った。
「聖書に出てくるイサクだね」と俺が言うと、彼は微笑んで機嫌よさそうに横に座った。
日本ではあまり見なくなったタイプで、大変なヘビースモーカーらしく前歯が一本しかない男だった。その残った歯もヤニで黄色くなっていた。
そんな彼と時間を共にしなければいけないのは、俺が英語も満足にできないと自負しているからだ。そもそも日本の英語教育で学ぶ英語はほとんど役に立たない。一番大事な日常会話を教える気が無いらしく、俺は映画とゲームで英語を習う他なかった。
「日本人は珍しいね。お金持ちこんなとこ来ないよ」
アイザックは変なイントネーションの日本語を使う。それが妙な愛嬌があって人気があるんだろうなと思った。
「俺は貧乏なんで仕事してるんです」
車窓では人っ子一人歩いていなかった。まるで家の中に隠れていないと悪いことが起きるみたいに。動いている物と言えば毛が半分ほど抜けた野良犬が家を縫うようにして歩いているだけだ。
とんでもない所に来てしまったなぁ。と頭を抱えた。
suvがゆっくりと速度を落として目的地に着いたことを知らせた。
そこはさびれた工場だった。トタンを張り付けて作った壁には無数の錆が浮いて、茶色く変色している。半分以上の窓は既に割れていてまるで廃墟のようだった。
良く会社の製品が買えたと思う。自慢ではないが日本製の製品は高価で、納入されていたのは一台数億円する高価な物だった。
普通、工場からは鉄と油のにおいがするはずだったが、その工場は違った。
なにかスーパーの鮮魚売り場のような、強烈な生臭さが漂っている。
足元には見たことの無いほど巨大な鱗が点々と落ちていた。
『は、入るな!!中に化け物がいる!』
逃げてきた工員らしき人が唾を飛ばして怒鳴ってきたが、何を言っているのか俺には分からなかった。英語でもない。現地語で怒っているのが分かっただけだ。
鉄のドアに手をかける。
『本当なんだって!!!化け物が四人も食っちまった!!!今すぐ逃げた方が身のためだ!!』
?
あんまり慌てた様子だったのでドアを少しだけ開けて見た。機械の奏でる爆音と異臭。それだけだ。
『あいつは……親玉は正面からだと見えないんだ!二人以上で入らないといきなりっ……見えないだけで、やつはいるんだっ!!!』
真正面から入った先崎には、それが見えなかった。もし、工場側面の通気孔から入っていれば、あるいは、工場の下水を通す配管から入れば、そのおぞましく、巨大なノコギリの刃を何重にも重ね、磨り潰したような口を見れたかもしれない。
だが、先崎は、まっすぐに正面から入ってしまった。
それは獲物を誘き寄せるために擬態する。