第16章-2
ソファに座ると刑事は顎を突き出してきた。額には汗が滲んでる。
「さっきのはどういうことだ?」
「さっきのってのは?」
「ほれ、北条に訊いてたろ? 約束の時間がどうのこうのって」
「ああ、気になってたんでね。前にも言ったよな? 六時に約束したから俺はあそこに行ったんだ。でも、あの男が来たのは六時をすこし回った後だった」
「それで?」
「いや、それだけのことだよ。どうしてそうなったか気になっただけだ。もちろん、あんたたちも調べてはいるんだろ?」
「ふむ。北条の言った通りだ。一緒に行くはずの男が時間を間違えたらしい。そんなことする奴じゃねえんだけどな」
カンナは奥へ向かった。千春は脚を組んでいる。
「で、なにかわかったのか?」
「ん、まあ、それもあるんだが、その前に謝っときゃならねえことがあってな」
若造は顔をしかめてる。それを見ながら彼は鼻に指をあてた。
「それ、上のもんに言ってあるのか?」
「はっ! 俺の真似なんかしなくていいんだよ。ただな、話をする前にこれだけは詫びといた方がいいと思ってな」
「ふうん、今日は警察から詫びを入れられる特異日だな。なんだよ、どういう話だ?」
一度相棒を見て、刑事はテーブルに手をついた。カンナはコーヒーを運びながら口をすぼめてる。
「あのな、あの爺さんにはマエがあったんだ。傷害致死だよ」
「傷害致死?」
「そうだ。いや、もう五十年ほど前の話だがな」
「はあ、そういうことか。あんときも気になってたんだ。あんたたちはなにか隠してるんだろうなってね。ま、人のいい爺さんってことにして、俺を追い込もうとしたんだろ?」
「結果的にはそうなるな。いや、これは単純なヤマだと思ってたんだ。トラブルのあった二人、片っぽは殺されてる。じゃあ、犯人は決まりだってな。それに、言い訳にもならねえが、あの爺さんの評判がよかったってのはその通りなんだよ。この辺の者はそういうマエがあるって誰も知らなかったんだ」
「でも、単純な事件じゃなかった。柏木伊久男には殺人の前歴があり、この辺に来てからも脅迫を重ねてた。俺から聴いて、あんたは反省したんだ。こう思ったんだろ? 『ああ、俺はなんて馬鹿な奴なんだろう。あんな善良な先生を疑ったりしちまって。こりゃ、まずは土下座しとかないとな。それとも靴でも舐めなきゃならねえかな』ってな」
刑事は暗澹たる表情を浮かべてる。しかし、深く頭を下げた。
「そんなふうには思っちゃいないが、まあ、詫びさせてくれよ。そうじゃないと話が進められない。ほんと悪かった。この通りだ」
「山本さん、そこまでしなくていいんじゃないですか? だって、この男は――」
彼は指先を向けた。頬は歪みまくってる。
「若造、黙ってろ。お前は台詞があるときだけしゃべればいいんだよ。それに、こうやって大先輩が頭下げてんだ。お前もやれよ」
「はあ? なんで俺が、」
「谷村、お前もやるんだ」
「でも、山本さん」
「いいから。ほれ、」
無理に頭を下げさせると刑事は拝むようにした。彼は鼻で笑ってる。
「これでいい。ちょっとはすっきりしたよ。ところで、この綺麗なお姉さんはどなただ?」
千春は胸を反らした。まるで「はい、私は綺麗なお姉さんです」とでもいうようにだ。
「ん? カンナの従姉だよ。千春っていうんだ」
「それだけか?」
「それだけってのは?」
「いや、まあ、なんでもないがな」
目はカンナに向けられた。見られた方は視線を散らばしてる。彼はまた指を向けた。
「山もっちゃん、この二人なら大丈夫だ。早くわかったことを教えてくれ」
「ん、ああ、わかった」
刑事は紙を並べていった。ノートをコピーしたもののようで罫線が薄く見える。それを無視して乱暴に文字が書かれてあった。こんな感じだ――
HF80Y 0107 80
IM30S 0112 30
TM30W 0117 20
HM20Y 0117 20
OM10Y 0120 10
KM05M 0120 05
SM10T 0125 10
YF03H 0126 03
TM30W 0131 10
「なんだこりゃ」
覗きこみながら彼は呟いた。カンナと千春も同じようにしてる。
「似た感じのが七枚ある。あとはこいつだ」
太い指が指した紙にはこう記されていた。
HF80Y 0110U4500AD
IM30S 0222K8010AD 1824
OM10Y 0401H3970GD 6775
KM05M 0709M7109VD 1523
HM20Y 0916J2193ND 2731
SM10T 1013L3986EF 1217
TM30W 1028R4753KE 3645
YF03H 1215C9563TE 6874
YF03K 0216D7590GE 4558
HM03Y 0326F6752UE 8085
NF05H 0412S0875DE 5966
「こりゃ、いったいなんなんだ?」
「あの爺さんの持ち物だよ。古びた手帳に書いてあったんだ。でも、最近のものみたいだな。インクでわかるんだとよ。もちろん、これを見たことは口外するなよ。コピー取るんだって大変だったんだからな」
山本刑事は額を擦ってる。眉は深刻に垂れていた。
「警察はこれをどう見てるんだ?」
「今んところどうとも見てないな。上の者はお前さんを釈放してから物盗りの犯行って線で動くよう指示を変えたんだ。――そういや、この前訊いてきたろ? あの爺さんの金回りはどうだったって。まあ、そこそこいい感じだったんだよ。年金だけとは思えない程度にな。飲み屋で奢られたって話もよく出てる」
「ああ、そういうオッサンがここにも来たよ。そいつは柏木伊久男がイカレた婆さんの葬式まであげてやったって言ってた。ま、脅した金で送られたんじゃ浮かばれなかっただろうけどな」
「そりゃ平子の婆さんのことだな。ほれ、この近くの陸橋から落ちて死んだ婆さんだよ。あれは去年の四月のことだったな。――そうか、あの男が葬式をね。ま、それくらいの金回りだったってことだろう。で、これがなんかわかるか? その、なんだ、占いでわかったりはしないのかよ」
「いや、俺に見えるのは人の経験だけだ。物からじゃわからないんだよ」
そう言ってる間に袖が引っ張られた。千春は瞼を瞬かせてる。
「ん? どうした?」
「どうしたって、あなた、占いで警察に協力したりしてるの? 超能力探偵みたいに?」
超能力探偵? なんだそれ――そう考えてると、鼻を鳴らす音が聞こえた。
「若造、いま笑ったな」
「いいから、ちゃんと見てくれよ。なんかわからねえか?」
額に指を添え、彼は目を細めた。『HF80Y 0107 80』、『IM30S 0112 30』――ん? 『OM10Y 0120 10』か。なるほど。こりゃ、脅し取った金の帳簿なんだろうな。顔をあげると若造は忌々しそうな表情をしてる。嗜虐心を刺激する顔つきだ。
「おっ、」
「なんかわかったか?」
「これ、俺の誕生日だ。『0120』ってのが二つ並んでる」
山本刑事はつんのめるようになった。唇は歪んでる。
「あっ、私のもあったわ。ほら、『0422』って」
「ほんと? 私のもあるかな?」
テーブルを覗きこんだカンナは「ふんっ」という声に顔をあげた。彼も眉をひそめてる。
「お前、さっきから『ふん、ふん』って言ってるけど、鼻炎にでもなったのか?」
「違うよ。馬鹿馬鹿しいと思ってんだ」
「でも、この四桁が日付らしいってのはわかったろ?」
「はっ、そんなのはわかってたことだ。四桁なんてのはだいたいが日付だろ? 馬鹿にだってわかるさ」
「ほう。さすがは若造刑事だな。目の付け所が違う。じゃあ、その天才刑事若造様にお尋ねするが、この『HF80Y』だの『IM30S』ってのはなんだ?」
山本刑事は首を曲げた。相棒の顔は赤くなっている。
「俺はヒントをあたえてたんだぜ。お前だって聴いてるはずだ。ほれ、自分は馬鹿じゃないってなら、教えてくれよ。この記号はいったいなんなんだ?」
「そりゃ、たぶんイニシャルだろ」
「なるほど。だけど、アルファベットが三つもあるぜ。それに数字も入ってる。これのどこがイニシャルなんだ?」
「それは、」
「それは? ほれ、言えよ。わからねえのか? ――はっ! 声まで小さくなりやがったな。いいか? テメエでもわからねえことで人を小馬鹿にするな。これも人間の基本だぞ。基本事項その二だ」
立ち上がって若造は睨みつけてきた。裾を引っ張られてるのにも気づけないようだ。
「さっきから、『若造、若造』ってうるさいんだよ。俺には谷村って名前がある」
「ああ、そうだったな。――ん? ってことは、この『TM30W』ってのはお前のことか? 『T』が谷村で、『W』が若造だろ? 谷村若造。ほらな、こりゃ、お前の名前だ」
「違うって言ってるだろ! 俺は谷村若造なんかじゃない! ちゃんとした名前があるんだ!」
「へえ、そうなのか? じゃあ、なんていうんだ? ああ、『W』ってことは谷村わっぱ飯本舗とかか? なんだ、お前、秋田出身か。わっぱ飯本舗って名前じゃ、そうなんだろ?」
地団駄を踏むようにして若造は身体を揺すった。髪も掻き回してる。
「わかった! そこまで言うなら俺の名前を教えてやる!」
山本刑事は顔をあげた。そんなことしたらこの下らない時間が長引くと思ったのだ。しかし、手遅れだった。
「俺は! 俺の名前は! 谷村真治だ!」
叫びの後は静寂になった。カンナと千春は顔を見合わせてる。
「タニムラシンジ? それって、あれか。アリスのか? 『昴』の」
「いや、字が違う。真実の『真』に政治の『治』だ」
荒く息を吐きながら若造は後悔していた。いや、本名を名乗って後悔する必要などないのだけど、子供の頃からいつだってそうなったのだ。
「ふっ、」と声を洩らし、千春は口を覆った。カンナはもう笑い出している。
「タニムラシンジって、あの鼻にテープつけてる人でしょ? だいぶ前に見たことあるわ」
「違うわよ、カンナちゃん。あれは真似してる人。本物はあそこまでじゃないわ」
そう言いあって、二人は腹を抱えた。山本刑事は渋面をつくってる。いつになったら本題に入れるんだよ――そう考えていたのだ。




