第16章-1
【 16 】
柏木伊久男の事件は捜査の膠着とともに世間から忘れられつつあった。事件なんて常に起きてるし、進展のない話題を取り上げたがるマスコミの人間はいないのだ。それに、取材に来た連中は他人の秘密を暴く前に自らのそれが知られるのを気にしていた。一週間もするとワイドショーは『幼稚園での集団食中毒』だの『岡山連続怪死事件』なんてのをメインに据えた。
「『人の噂も七十五日』なんじゃなかったっけ? 十日も保たないってどういうこと?」
カンナは不要なメールを削除していた。広告や変態からのもの(タイトルだけでわかった)を〈ゴミ箱〉に移すと、残ったのがマトモなものであり、そのうちの幾つかが予約の申し込みになる。ただ、それは非常に少なかった。最盛期からすると五分の一以下だ。
「ま、噂の方が多すぎるんだろ。それに、どんなもんでもサイクルは短くなってる。最近じゃ十日くらいが相場なんだろうよ」
「その割にはダメージだけが残ってるみたいよ。今日はゼロでしょ? 明日もゼロ。明後日に一件、その次が二件。これじゃ赤字になっちゃうわ」
デスクを見ると彼はバステト神像で遊んでる。カンナは頭を振った。
「ね、こうなったら、あの話に乗るのもありだと思うんだけど」
「あの話って、あれのことか?」
「そう、あれ」
あれ――というのはテレビ出演の話だ。以前占ったゲイのディレクターから誘いがあったのだ。
「ひとまずは深夜番組の一コーナーになると思うんですがね、『顔さえ見れば、たちまちわかる驚異の占い師』ということで出演いただきたいんですよ。いやぁ、先生のは当たるから、相手が驚くだけでも数字が取れる。こりゃ、ウケますよ。絶対ウケる!」
その電話は刑事と話した日にあった。戻ってすぐ聴かされたのだ。
「すごくない? 『驚異の占い師』でテレビ出演よ。そうなったら前のように、ううん、前よりもっと儲かるわ。あなたも人気者になっちゃうかも。――ね、もちろん出るでしょ? 出ないわけないわよね?」
彼は肩をすくめてる。表情も乏しくなっていた。
「そんなのやだよ。俺は出ない。なんでテレビなんかに出なきゃならないんだ」
「だって、目立つの好きでしょ? それに偉ぶるのも大好きじゃない。テレビに出たらみんなから『先生! 先生!』って呼ばれるのよ」
「やだね。ちょっと前まで殺人犯じゃないかって言ってた奴の手のひら返しに乗るつもりはない。それに、あいつはガッチガチのゲイなんだ。本当の狙いは俺のケツって可能性もある」
それを聴くなりカンナは唇を歪めた。今もそうしてデスクを窺っている。
「ね、あのディレクターさんは、その、なに? あなたのお尻目当てとかじゃないと思うんだけど。だって、恋人はあの俳優さんなんでしょ? あなたとはまったく似てないし、年もうんと若いし、それに、お店がずっとこんなんじゃ困っちゃうじゃない」
「そうだろうけど嫌なもんは嫌なんだよ。だいたいな、俺はコツコツ真面目にやるタイプなんだ。そういう話に飛びつく人間じゃない」
はあ? 誰のこと言ってるのよ。そんなとこ一欠片だって持ち合わせてないじゃない。カンナは目を細めてる。ただ、すぐさま元に戻した。ガラス戸に影が映ったのだ。
「ん? ありゃ、あの警官か? 制服じゃないとわからないな。でも、ちょうどいいときにちょうどいいのが来たってわけだ」
その言い様はさらにムカつかせたけど、カンナはとびきりの笑顔で迎え入れた。
「あっ、北条さん! 来て下さったんですね!」
「ああ、はい。――その、蓮實さん、ちょっとよろしいでしょうか?」
「よろしいもなにも、いいときに来ていただけて嬉しいですよ。な? カンナ」
「はあ」
警官は暗い顔をしてる。精悍さも二割がた落ち込んでるようだった。
「さ、座ってください。いまお茶を淹れますから」
「いえ、今日は本当に大丈夫です。――あの、蓮實さん、この度は本当に申し訳ございませんでした。その、ああいうことになってしまって、お詫びの言葉もありません」
背筋を伸ばし、彼はどう言おうか考えていた。しかし、その必要はなかったようだ。
「いえいえ、そんな。北条さんが謝るようなことじゃないんですよ。この人にも悪いとこがまったくなかったわけじゃないんですから。あのときだって待ってりゃいいのに、のこのこ部屋に入ったりして」
のこのこ? そりゃちょっと言い過ぎじゃないか? そう思ったものの彼はニヤつきはじめた。カンナはいい男を見つめてる。
「この人はいつだって言動が軽いんです。ま、そのぶん根に持ったりしないから、もう謝ったりしなくていいんですよ」
「ありがとうございます。――その、前にもそう言っていただいたんですけど、やはり一度はお詫びしておきたくて」
「ほら、あなたもなにか言って。こうやって謝りに来て下さったのよ、なんでニヤニヤしてんの」
そりゃ、お前がずっとしゃべってっからだろ? うんざりしながらも彼は表情を整えた。
「ま、カンナの言った通りですよ。私は根に持つタイプじゃないし、悪いとこもあったんでしょう。――ほら、もうやめて下さい。これ以上そうされてるとこっちが怒られますから」
「はあ」
カンナは奥へ向かってる。警官がなにか言おうとしたとき、ガラス戸がひらいた。
「あら、お取り込み中だった? ――って、もしかして、あなた、北条さん?」
「え、あ、はい。そうですが、」
「やっぱりね。ふうん、ほんといい男ね。カンナちゃんに聴いてたけど、それ以上だわ」
ビニール袋を振りながら千春は顔をあげている。なんだよ、これ持ってげってことか? そう思いつつ彼は溜息をついた。まったく、どいつもこいつもいい男に弱いよな。
「さ、食べて。《群林堂》の鹿の子よ。あそこは大福って印象が強いけど、これもすごく美味しいんだから」
テーブルには照りのある黒い物体とハーブティが並んでる。カンナは思いきり端に座り、口角を上げていた。千春も首を曲げ、いい男を見つめてる。
「では、いただきます」
丁寧にフォークを使い、警官は口に含んだ。二人は溜息を洩らしつつ眺めてる。――っていうか、なにに感動してんだよ。俺も食うから見てろよ、ほら。彼はざっくり半分にしたものを頬張った。でも、誰も見てくれない。
「北条さんはね、わざわざ謝りに来てくれたのよ」
「謝りにって、この人が逮捕されたことで?」
「そう。私は別にいいって言ったんだけど、どうしてもお詫びしたいって」
「そんなのいいのに。――ね、北条さん、この人はたまに逮捕してあげた方がいいの。それくらいしなきゃ、人間がもっと曲がっちゃうわ。そうでしょ?」
「しかし、私があんなことをお願いしなければ、ああはならなかったわけですし。――ところで、蓮實さん、あの方とは本当にトラブルがあったそうですね。しかも、向こうから一方的に仕掛けてきたようじゃないですか」
「ああ、ま、そうなんですがね」
「そうなら仰っていただければよかったんですよ。いえ、責めるわけではないですが、言っていただいていれば、また違う対応もあったかと思いまして」
「そうよ。なんで黙ってたの? ちゃんと言ってれば、ああはならなかったかもしれないでしょ」
彼はフォークを突き出した。目は細まってる。
「わからないことに口出しすんなよ」
「わからないから訊いてるんじゃない。ね、なんで言わなかったの? あのお爺さんが脅迫状やビラをつくってたんでしょ。そういう意味じゃ、あなたの方が被害者だったわけじゃない」
千春もフォークを突き出した。――またこうなるの? この二人にフォーク渡すとこうなっちゃうわけ? カンナは首を引いている。だけど、この話はよくないかも。違う話題にしなきゃ。えっと、なにがいいんだろ?
「あの、北条さん、法明寺にいた子のこと憶えてます?」
「はい、憶えてますよ」
「あの子のことで相談っていうか、聴いていただきたいことがあるんです」
「はあ、どういうことでしょう?」
「あの子は蛭子さんとこのアパートに住んでて、えっと、名前は、――そう、悠太くんだったわね?」
「そうだ。小林悠太、確か小学四年だったはずだ」
フォークを置き、蓮實淳はうなずいた。千春はきょとんとした表情をしてる。
「ね、今度はなんの話?」
「あのね、もしかしたらなんだけど、その子、親に虐待されてるかもしれないの。そうなんでしょ?」
「ああ、その可能性はあるな。この前は痣があったし、よく家から締め出されてるようだ」
警官は眉をひそめた。視線は漂ってる。
「締め出されてるんですか?」
「ええ、そうらしいんですよ。痣があったのを見たときもそうでした。いつもあるはずの鍵が見つからなかったみたいで階段に座ってたんです。それに、夜中にも放り出されてるようでね、外で泣いてるのを見た者もいるんです」
「なるほど。それはなんとかしなくちゃなりませんね。わかりました。虐待の疑いがあると報告しておきます」
カンナは深く息を吐いた。――相談してよかった。やっぱり北条さんは誠実な方なのよ。そう思ってるところに、「ん?」と声がした。
「北条じゃねえか。どうしたんだ?」
すっくと立ち、警官は頭を下げた。指もぴんと伸びている。
「北条? ほんとだ。お前、どうしてこんなとこにいるんだ?」
「いえ、その――」
「山もっちゃん、それに腰巾着の若造、よく見てみろよ。そういう態度してっと引っ掻き回されるぞ」
カンナと千春は頬を強張らせてる。刑事は手を振るようにした。
「ん? ああ、どうもそういう感じだな。だけど、どうしたってんだ?」
「ちょっとした相談をしてたとこなんだ。北条さん、そうでしたよね?」
「あの、いえ、」
「カンナ、そうだったろ? 俺たちには相談事があった。それで寄ってもらってたんだ。そういうことだよな?」
「そうよ。ただそれだけ」
「ふうん、そうか」
山本刑事は額を掻いてる。目は据わっていた。
「じゃ、そういうことなんだろう。――北条、上のもんには言ってあるのか?」
「いえ、自分の一存です」
「だろうな。ま、その相談事ってのは報告しとけよ。他は言わんでいいから」
「はっ! ありがとうございます!」
戸口に立ち、警官は深々と頭を下げた。蓮實淳は腰を浮かしかけている。
「ああ、ひとつだけいいですか?」
「なんでしょうか」
「あの日、約束してたのは六時でしたよね? そのはずだったけど、あなたは来なかった。どうしてです?」
「はい、それも大変申し訳ないことなんですが、一緒に行くはずの同僚が少し遅れてしまいまして。――その、本当にすみませんでした」
頭を下げたまま警官はこたえた。そして、ガラス戸を閉めた。




