第15章-5
一時きっかりに刑事はあらわれた。皺くちゃなシャツは汗に濡れ、髪も萎れきっていた。
「いや、まだ暑いな。歩いてきたからこの通りだ」
彼は目を細めてる。振り返り、刑事は肩をすくめた。
「ん? どうした?」
「いや、今日は一人なんだな。あの腰巾着はどこ行った?」
「ああ、谷村は聴き込みに行ってる。ところで、隣の喫茶店へ行こうや。ここは扇風機しかねえんだろ? 暑くてかなわん」
カンナは唇を尖らせてる。――クーラーが無いっての、けっこう気にしてんのに。でも、このおじさん、クマちゃん抱っこして寝てんのよね。そう考えると笑える。
「隣にいるから、なにかあったら呼びに来てくれ」
蓮實淳は無表情で押し通した。笑ったりするなよ。そう言ってるつもりだ。でも、それだっておかしい。雑誌で顔を隠すと、カンナはこうとだけこたえた。
「わかった」
二階席はほどよく冷えていた。離れたテーブルではおばちゃんたちが声高に話してる。パストラミサンドに齧りつきながら山本刑事は目を向けてきた。
「で、聴かせたい話ってなんだ?」
「その前にこっちの質問にこたえてくれ。あの爺さんを殺す動機のある奴は見つかったのか?」
「ふんっ、なんでそんなの教えなきゃならない。それは捜査情報ってやつだ。一般市民に聴かせることじゃない。それに、お前さんは容疑者の一人なんだぜ」
つかえたものを流し込むように刑事はアイスコーヒーを飲んだ。目許は笑ってる。
「忘れたのか? 俺はもう容疑者じゃない。アリバイだってあるんだ」
「水掛け論だな。何度も言ってるが、俺はそれを信じちゃいない」
「オーケー。じゃ、俺も容疑者の一人ってことでいい。その上で訊くよ。俺の他に爺さんを殺す動機のある奴は見つかったのか?」
笑みは消えた。そのままじっと見つめてる。溜息まじりに彼は腕を組んだ。
「言いたくないってか。じゃ、違うことを訊くよ。あの爺さんのパソコンには沢山の写真があったんじゃないか?」
「なんでそんなこと知ってる?」
「俺はなんでもお見通しだからな」
「はっ! ふざけるな。ほら、ちゃんとこたえろよ。なんで知ってる?」
「パソコンにはビラの元になったデータがあったんだろ? これはあんたが教えてくれたことだ。それに、二度目のは写真付きでカンナのは隠し撮りされたものだった。それだけじゃない。あの爺さんがカメラ持って出歩いてたのは誰でも知ってるよ」
「なるほど。筋は通ってるな。ま、うんざりするほど写真があったのは確かだ」
「だろ? ってことは、あんたたちはそれも調べたんだよな? そこになにか写ってなかったか?」
刑事は睨むように見てきた。スピーカーからはジェイムス・ブラウンの歌う『Sunny』が流れてる。彼は口ずさみながら待った。
「質問の意味がわからねえな」
「しらばっくれるなよ。いいか? あんたたちは俺を犯人と思ってた。でも、そうじゃない可能性が出てきた。つまり、わかりやすい動機を持つ者が嫌疑から外れたってわけだ。そしたらどうする? 他に動機を持ってる人間を探すだろ? そうなりゃ、爺さんの持ち物は全部調べ直すはずだぜ」
「ま、そうなってもおかしくはないな」
「だよな? 俺は二時間ドラマをよく見てっからな。それくらいのことならわかる」
「二時間ドラマだと? はっ! あんなの嘘っぱちさ。なんにもわかってねえ連中がつくってんだよ」
「でも、当たってる。そうだろ? あんたたちはうんざりするほどの写真を一枚一枚見てるはずだ。違うか?」
「なんでそこまで写真にこだわる?」
蓮實淳は立てた指を前へ出した。相手の目は自然とそこへ向かっていく。
「もうひとつ訊きたい。あの爺さんの金回りはどうだった?」
「金回り? ――ちょっと待て。あの爺さんが脅迫してたとでも言いたいのか?」
「察しがいいな。そのまま頑張ってれば、いつかは警察官になれるぜ」
「茶化すな。こたえろよ。ん、待てよ。――そうか。お前さんはなにか知ってそうだと思ってたが、それがこれか。あの爺さんは脅迫者だった。お前さんはその被害者も知ってるんだ。それを言いたくないからって、あんな態度してたんだな」
いや、あれは地だけどな。そう思いながら彼はコーヒーに口をつけた。窓の外は明るく輝いてる。
「なるほどね。なんとなくわかってきたよ。お前さんは誰かを庇ってるんだ。爺さんを殺した犯人を知ってるんだろ?」
「そうなると、俺は容疑者じゃなくなるな」
「いや、共犯の可能性はある。事後共犯だ。そうでなくても隠し立てすりゃ、犯人隠匿にだってなる。言っちまえよ。また引っ張っていくこともできるんだぜ」
「証拠がないだろ? それに、そんなことしたら俺は取調室で親友の話をぶちまけることになるぜ。茶色い、毛むくじゃらの、」
椅子を蹴るように刑事は立ち上がった。おばちゃんたちはしかめた顔を向けている。
「ああ、いや、すみません」
ニヤつきながら彼は鼻に指をあてた。山本刑事は眉根を寄せている。
「冗談だよ。だいいち、あんたは俺を捕まえようなんて思ってない。だろ?」
「なんでそう思う?」
「あんたは今日ひとりで来た。それはこうなるって思ってたからじゃないか? 捜査情報ってのを話すかもしれないと思ってたんだ。それはなぜか? こたえは簡単。俺を信用してきたのさ。容疑者だなんてもう考えてないんだ。それに、顔つきだってそうだ。取調室でしてたのとは違ってる。こう、――そうだな、親愛の情に満ちたもんになってるぜ」
「はっ! そんなんじゃねえよ。そりゃ、お前さんの見込み違いだ」
「いや、それこそ違うね。占ったときわかったんだ。あんたは事を急ぐ質だが、けっして間違いを放っておける人間じゃない。それに、かなり素直だ。いいか? 山もっちゃん、俺は沢山の人を占ってきた。でも、あれほどわかりやすかったのは二人目だ。一人目は、ほら、あんたが言うところの『お嬢さん』だよ。あれも相当見やすかった」
「だからなんだってんだ?」
「あんたは素直で、誤りを認めることもできる人間ってことさ。その上、俺のことを信用しはじめてる。それに言ったろ? 俺はつきあいはじめると味わい深くなるタイプだって」
指先を向けると刑事は溜息を洩らした。瞳の色は薄くなっている。
「山もっちゃん、こっからは友人同士のおしゃべりだ」
「俺は友達になんてなってねえぜ」
「いいから聴けよ。これはあんただから話すことだ。他の誰にも言うなよ」
彼はじっと見つめてる。うなずくのを待っていたのだ。それがわかったのか渋々といった感じに刑事は顎を下げた。
「俺はな、あのとき蛭子の奥さんと会ってなかった。あれは嘘だ」
「はあ?」
喚き声をあげ、刑事はふたたび頭を下げた。それから囁いてきた。
「どういうことだ?」
「どうもこうも、あれは嘘なんだよ。でも、俺が頼んだんじゃない。向こうが勝手にやったことだ。どうしてそうしたのかもわからないんだよ」
「ふむ。――で?」
「俺にはアリバイがないってことだ。でも、やっちゃいないし、犯人も知らない。脅迫されてた人たちに心当たりはあるけどね」
「人たち? 複数いるってことか?」
「ああ、俺のわかってる範囲で三人いる。それに、もしかしたら蛭子の奥さんもその一人かもしれない。あの人は嘘をついて俺のアリバイをつくった。ってことは、同時に自分のアリバイも拵えたってことになる。だろ?」
「ん、――まあ、そうも考えられるな」
「だよな。でも、そう思いたくないんだ。だから、あんたに助けてもらいたんだよ。刑事にじゃなく、友達にね」
言葉を切ると彼はまたじっと見つめた。刑事は「つづけろよ」とだけ言った。
「助けて欲しいってのは、こういうことだ。あんたには蛭子の奥さんや、これから言う三人があの日なにをしてたか調べてもらいたい。なに、こっちでも調べはするが、警察のようには上手く立ち回れないからね。それと、脅迫されてたのが他にいるかも調べてくれ。他にも絶対いるはずだ。たぶん、表面上は親しく見えた者の中にいるはずなんだ。これは全部あんただけでやるんだ。なにかわかったら教えて欲しい。俺もわかったことはすべてあんたに言う」
「警察ってのはそういうふうに動くもんじゃない」
「だとしてもだ。いいか? 山もっちゃん、簡単にやっちまったら、もっと酷いことになるんだぜ。家庭がズタズタに切り刻まれるかもしれないんだ。そんなの許されるはずもない。な、警察ってのは人の幸福のためにあるんだろ? ちょっとした過ちを明るみに出すのが仕事じゃないはずだ」
瞳は漂いだした。おばちゃんたちは席を立ち、笑いながら降りていく。甲高い声が遠ざかると妙に静かになった。
「わかったよ。わかった。でも、一つだけ言っておく。俺たちは友達じゃない」
笑いながら彼はコーヒーを飲んだ。えらく喉が渇いていたのだ。
「今はそうじゃないかもしれない。ただ、いずれそうなるよ。俺はこれでも人気者でね、友達になるのも予約が必要なんだ」
「はっ! いいかげんにしろ。お前さんと話してると頭が痛くなってくる。――だが、すべてが間違ってるわけじゃねえな。他人様の家庭をぶち壊すのは警察の仕事じゃない。それは確かだ。ま、とりあえず、その三人ってのを教えてくれ。刺激しないように調べてみるよ。あとな、俺だけじゃ手に余るから谷村にも手伝ってもらうぞ。そんなの一人でやってみろ、何年かかるかわからない」
「あの若造か?」
彼は椅子にもたれかかった。しかし、ここは譲歩するしかないのだろう、唇を歪めながらこう言った。
「ま、いいか。だけど、あいつとは友達になれそうにないな」




