第14章-4
マスコミの連中は身構えるようにした。それを横目にカンナはふらふらと歩き出した。どこへ行くかもわからない。いや、あらゆることがわからなくなっていた。――なんで泣いちゃったりしたんだろ? 関係無いってのに。そう、あの二人がどうなろうと私には関係無いんだ。
鬼子母神の脇道を下った先には音大生がちらほら見える。カンナは涙を拭った。こんな顔してちゃ駄目。私はいつも元気にしてなきゃ。滲んだ目には法明寺の門が映った。――そうだ。お参りしてこよう。とくにお願いすることもないけど、あそこは綺麗だし、気持ちも落ち着くはず。
参道には誰もいなかった。まだ暑かったものの、木がさしかける影は穏やかで優しい。門を入るとカンナは深く息を吐いた。ほんと綺麗。それに、浄化される気がする。東京に来てからいろんなとこ行ったけど、やっぱりここが一番よね。
しばらく周囲を見渡してから、カンナはポケットをまさぐった。でも、出てきたのはレシートだけだ。ま、しょうがないか。突然出てきちゃったからな。
「えっと、お金は後で持ってきます。――で、そうね、世界が平和でありますように」
手を合わせてると、すべてがどうでもよくなってきた。そう、世界平和よ。私の願いはそれだけ。下らない揉め事なんてほんと馬鹿馬鹿しい。
「さて、どうしようかな?」
戻るには早い気がする。だって、三十分も経ってないでしょ? だけど、あの二人、フォークで刺しあったりしてないでしょうね。――ううん、大丈夫。だって、世界平和をお願いしといたもの。そんなふうに考えてると、「ニャア」と声がした。目を向けた先にはペロ吉がいる。脇には男の子も座っていた。
「ペロ吉、どうしたの?」
「ナア」
「えっと、この子は、」
男の子は目だけあげている。――そうだ、だいぶ前に聴いたっけ。ペロ吉の飼い主は親から放置されてるって。
「あなた、ペロ吉と一緒に住んでる子でしょ」
「お姉ちゃんは?」
「ああ、ごめんなさい。私はペロ吉の知りあいっていうか、その、なんていったらいいんだろ? まあ、お友達みたいなもんよ」
ペロ吉は身体を擦りつけてきた。「カンナちゃんっていうんだよ」――そう言ってるのだけど、それは聞こえない。
「じゃ、スーツのおじさんともお友達?」
「へ?」
「前に会ったことあるんだ。ペロ吉と話せるおじさんと。蛭子のお婆ちゃんは『先生』って言ってた。僕、お腹痛くなっちゃって、でも、お家に入れなくて、そのおじさんが助けてくれたの」
「ああ、」
頬は自然とゆるんだ。いかにもあの人がしそうなことよね――そう思ったのだ。
「そうだったの。私はそのおじさんの助手してるの。カンナっていうのよ」
「助手?」
「うん。あのおじさんはね、すごい占い師なの」
視線は漂った。――あっ、これは言わない方がよかったかも。テレビで見てたら、殺人犯って思ってるかもしれないものね。
「ね、ここでなにしてんの?」
話題を変えようとしたとき、自転車の停まる音がした。振り向いたカンナは目を大きくしてる。
「あっ、やっぱり、あなたでしたか」
「あ、はい。――えっと、その、」
警官は自転車を降りた。浅黒い肌は日に輝き、歯も光ってる。ただ、すぐ見えなくなった。口を引き締めたのだ。
「あの、このたびは申し訳ございませんでした。――その、本当であればお詫びに行きたいところなんですが、そうもできなくてですね」
カンナはぼうっと見つめてる。こういうお顔も素敵なのね――などと思ってるのだ。ほんと、いい男って、どうしてたっていい男だわ。
「あっ、いえ。そんな、お詫びだなんて。あれはうちの方にも落ち度というか、そういうのがあって、ああなったのだと思ってますし、すくなくとも私は個人的に、」
しどろもどろになりつつカンナはペロ吉を見つめた。もし万が一にも、あの人が猫としゃべってたとしたらこのことも聴くかも。だから、言っちゃ駄目よ。そういうつもりで見つめていたのだ。
「――えっと、どうとも思ってないっていうか、もちろんちょっとは怒ったりしてますけど、それは警察全体に対してっていうか、」
「そう言っていただけると助かります。その、蓮實さんはどう思われてるんでしょう?」
ふたたびペロ吉を見つめ、カンナはこうこたえた。
「あの人は大丈夫です。あまりそういうの気にしないし、根に持つタイプじゃないんで」
「そうですか。それを聴けて安心しました。――いえ、非番のときにでも、」
そこで小声になり、警官は顔を近づけてきた。カンナは一度引きかけた顎を突き出してる。
「非公式というのもなんですが、お詫びに行きたいと思ってるんです」
「いえ、そんなのは気にしないでいいですけど、是非お立ち寄り下さい。――あの、えっと、」
背の高い顔を見上げ、カンナは息を止めた。お名前くらいは訊きたいけど教えてくれるかな?
「どうされました?」
「あの、お名前教えていただけます?」
「ああ、」
頬をゆるめ、警官はうなずいた。カンナは胸に手をあてている。――そう、これが本物のドキドキよ! あんな馬鹿に感じるのは偽物に違いない。これぞ本物!
「北条と申します。北条裕哉です」
「北条さん」
「あなたはカンナさんでしたね?」
「はい! そうです!」
ああ、なんてこと! 名前を憶えて下さってたなんて! カンナは足の方からゾワゾワしてきた。これはきっとドキドキの最上級なんでしょうね。こんなの初めてだもの。
「で、こちらのお子さんは?」
「へ? ――ああ、いえ、ちょっとした知りあいっていうか、」
顔を向けると、男の子は固まったようになっている。もしかして私のこと殺人犯の助手と思ってんのかな?
「そうでしたか。では、蓮實さんにもよろしくお伝え下さい。そう遅くならないうちに伺いますので」
長い脚を広げて警官は自転車に乗った。カンナは縋るように前へ出てる。手も伸ばしかけていた。
「――行っちゃった。でも、出てきてよかったのかも」
男の子は立ち上がっていた。抱きしめられたペロ吉は四肢を垂らしてる。
「ね、もしかしてだけど、テレビでうちの先生のこと――」
そう言いかけると、くるっと後ろを向いた。そして、駆けていってしまった。




