第2章―1
【 2 】
その女性は雪のちらつく外気に合わせたような顔色をしていた。黒いロングコートを脱ぎ、それを渡すと、ピンク色のカーディガンに白いブラウス、裾の細いパンツといった格好で、頻りに髪を押さえている。その表情はどうしたらいいかわからないといったふうにみえた。それは今のことでもあり、これからのことでもあるようだった。店には『シェエラザード』がかかっている。
「どうぞどうぞ。膝掛けもありますからね。さあ、どうか楽にして下さい。ちょうど前の方が帰ったばかりなんですよ。すぐご相談をお受けできますからね」
女性は頭を下げた。蓮實淳は薄く微笑んでいる。
「私になんでもご相談下さい。どんなことでもお見通しの、この蓮實淳にお任せを」
「はあ」
カーテンで仕切られると相談者が目にできるのはタペストリーとバステト神像、幾つかの小物だけになる。黒い布を背景にした蓮實淳はグレーのスーツ姿で、ネクタイも光沢のあるグレー。色味があるのはエジプトっぽいタペストリーくらいだった。自然とそこへ目が向くようになっていて、女性も視線を落とした。
「まずはあなたのことを見させて下さい。ご相談はそれからで。――いえ、ここは料金をいただきませんのでご安心を。私の見たことが違っていたら、そのままお帰りいただいてけっこうです」
彼は胸を押さえた。そうするだけでだいたいすべてがわかるのだ。言いつけ通りに手をかざし、なにかごにょごにょと唱えはするものの、そんなのはまったく必要なかった。
「見えました。バステトのお導きにより、あなたのことが。あなたはご主人のことで悩まれてますね」
彼は目を細めた。相談者の唇は震えてる。しかし、かまわずにつづけた。
「あなた方ご夫婦は結婚されて十五年ほどで、お子さんが二人いる。これまでご主人は隠し事などされてなかった。しかし、しばらく前からなにか隠してる。あなたはそれを女性関係と感じてますね? たぶん、その感じ方は正しいのでしょう。いえ、私には目の前の方しか見えません。ご主人が実際に女性関係のトラブルを抱えてるかはわからないんです。ただ、あなたは簡単なことでは心を乱されない性格のようだし、物事をおおげさに捉える方でもない。ありのままの事実を見ようとずっとしてきた。そういう方が持つ違和感というのは得てして当たってるものです。だから、それは考えてみるべき問題に思えます。そして、それ以外にもなにかある。あなたはそれも感じてる。でも、なにかわからない。申し訳ないですが、その部分は私にもわかりません。ただ、なにかはありそうですね。ご主人が抱えてる問題は女性に関することだけではない。あなたはそう信じる理由も持っている。どちらかというと、そちらの方が気になります。なにか異様な感じがします」
相談者は腰を浮かしかけ、目を泳がせた。彼の占いは今回も当たったのだ。
ここで、蓮實淳の占いについて実際にはどのようなことが起きているか書いておこう。
まず、胸に手をおき、ペンダントヘッドを押しつける。それから、相手をじっと見る。すると、スイッチがオンになり、目の前にいる人物のことがより良く見えるようになる。その見えるというのは表面上のことでもある。瞳だけが大きくなり、その虹彩までもが見え、次いで耳が拡大され、入り組んだ形が大映しになっていく。そのうちに相手の内側までもが見えるようになる。まずは現状――その者の置かれた環境、家族、仕事。それから過去に遡る。特筆すべきものが写真のようにあらわれる。それはその者の見た映像だ。音が聞こえることもある。それだって、その者の聞いた音だった。なにを考えていたかはわからない。ただ事実だけが羅列されていく。事実として見えたもの同士を結びつけるのは簡単でない。しかし、彼は類推することで、それらを無理のないものに繋ぎあわせていく。
類推について補足しておく――
カンナを占ったとき彼は「君は父親が嫌いではなさそうだ」と言った。それに、「むしろ母親との折りあいの方が悪かったんだろう」とも言い当てた。これはカンナの過去を見たときにあらわれた、①両親の離婚、②母親に引き取られる、③成長して後に母親とは疎遠になり父親の元へ通うようになった――というのを繋ぎあわせた結果だった。当然そこに類推が混ざる以上、想定可能な範囲を越した関係性や思惑が介在した場合、それは無効になる。ただ、彼はごく通常の文脈であれば無理なく繋ぎあわすことができた。これは不可思議な〈能力〉とは別に、これまでの経験から培ってきたものだ。
類推するのは、しかし、すべて見終わってからだ。過去が尽きると、闇があらわれる。それは目をつむったときにあらわれるのとは違う、ほんとうの闇だった。それがすべてを包みこんでいく。まるで透明な台に立たされ、その前後左右、上下までもが漆黒に覆われるようにだ。
一度、真の闇があらわれ、見えたことが真空に吸い込まれるようになくなりはするものの、じきに新たなものが生まれる。それはだいたいにおいて相談者の現在抱えてる問題――その原因になるものだった。深刻そうなものから取るに足らないものまで様々だったけど、そんなのはどうでもいいことだった。彼は占い師であり、相談に来る者の問題を告げることはできるものの、それを解決するのは仕事ではない。
さて、この女性の場合はこうだった。
まずは現状が見えた。家族――夫、娘、息子。それから、仕事仲間。彼女は指導的立場にいる。経営者か、それに類することをしてる。キッチンに鍋や包丁。それに、料理も見える。ああ、これは料理教室だな。彼女はそこの先生か、主宰者なんだろう。店に思えたのは自宅かもしれない。――うん、これは自宅だ。子供たちと一緒にいるのも見える。広いキッチンに作業台。かなりの金持ちだ。同僚に思えたのは生徒ってことだな。
映像は人生を逆回転するように遡っていく。出産、結婚、学生時代、幼少期。そこにも幾つもの顔が浮かぶ。目が潰されていたり、歪みきって顔に見えないものもある。高揚感、憎しみ、愛情、妬み――ありとあらゆる感情が湧き起こる。それは相談者が感じたものではなく、映像から感じ取ったものだ。それから、すべてがすっと消え、真っ暗になる。
この相談者の場合、闇を打ち消すようにあらわれたのは夫の姿だった。つまり、彼女は夫のことで悩んでるわけだ。それはなぜか? 目を凝らすと、夫の近くに漂う影がある。それは女。それも若い女。ああ、これは不倫だな。実際はどうであれ、この人は夫の浮気を疑ってる。相手が誰かわかってないけど、若い女と信じる理由はあるようだ。
ん? と蓮實淳は思った。女の他にもうひとつなにかが漂ってる。それは人影とも思えない。いや、人としてもいいけど断言はできない。もやもやしたガスみたいなものだ。それが夫を苦しめてる。まあ、すくなくとも彼女は夫を苦しめる存在を感じてるんだろう。しっかり認識できてないだけで、それを示すようなことがあるのだ。これは類推というより勘に近いものだけど、彼はそう思った。不倫相手がいるのも問題だが、どちらかというとそっちの方が気になる。今まで見たことがなかった映像だ。