第14章-1
【 14 】
所持品が戻ると彼はほぼいつも通りの姿に戻った。グレーのスーツに茶色のバックルシューズ。外からでは見えないけど胸には大振りなペンダントがぶら下がっている。ただ、もじゃもじゃの髪は萎れ、首まわりと股間がいやに痒かった。
「まずはシャワーだな。そして、ビールだ。腹がたぷんたぷんになるまで飲んでやる」
股間を掻きながら彼は外に出た。入り口にはカンナと蛭子嘉江が立っている。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
頭を下げ、彼は歩き出した。通りには人が多い。それを縫うように進んでいくと裾を引っ張られた。
「ねえ、奥さんに『ありがとうございました』は? どんだけのことしてもらったと思ってるの?」
「ん、わかってるよ。――あの、すみませんでした。ご迷惑おかけして」
「お礼なんて要りませんよ。私は自分のしたいことをしたんですから」
「でも、どうしてです?」
「どうしてですって?」
叫んだのはカンナだった。腕を組み、顔をしかめてる。
「そんなの心配だったからに決まってるでしょ。千春ちゃんなんて具合悪くなっちゃったのよ。会社まで休んだくらいなんだから」
「会社を休んだ? あの千春がか? どうして?」
「もう! どうしてどうしてって、さっきからうるさいわ!」
カンナは大股に歩き出した。束ねた髪は揺れている。
「でもね、先生」
今度は袖を引かれた。顔を下げると、嘉江は微笑んでいる。
「カンナさんが一番心配してたのよ。わかるでしょ?」
肩をすくめ、彼は首まわりを掻いた。街灯が照らす道を猫が横切っていく。クロだろう、その姿は暗がりに紛れていった。
「ところで、さっきのつづきですが、なぜ助けてくれたんです? しかも、嘘を言われてまで」
「それはこの前も言ったでしょう? 先生は恩人ですから。それにカンナさんを見てたら可哀想で。あの子、倒れたんですよ。先生が警察に連れて行かれたって聴いたら、その場で気を失ったんです。きっと先生のことが大好きなんでしょうね」
あれで? 彼はぐんぐん進む背中を眺めてる。――と、気脈が通じたのか、カンナも顔を向けてきた。
「すみません。苛々しちゃって、一人で先に行っちゃいました」
「あのな、俺はつらい拷問生活から解放されたばかりなんだぞ。苛々したってどういうことだよ」
唇を尖らせ、カンナは逆側についた。都電の踏切は降りかかっている。
「あの、さっき言ってた千春ちゃんってのは私の従姉なんです。この人とは十年以上も腐れ縁で、くっついたり離れたりしてるんですよ。でも、やっぱりなんだかんだ言っても好きみたいですね。逮捕されたって聴いたら取り乱しちゃって、寝込んじゃったんです。いつもは考えられないくらい口が悪いのに、それも出てこないし。私、そっちの面倒も見なくちゃならなくて、ほんと大変だったんです」
そう言って、カンナは見つめてきた。踏切は降りきり、三人は横並びになっている。
「そうなんですか。でも、それじゃ、あなたは困りますね。そうでしょ?」
「え? どういうことです?」
「だって、」
笑いながら嘉江は口を押さえた。電車はゆっくり進んでいく。カンナは腕を組んだ。――なにか違う話題にしなきゃ。えっと、なにがいいんだろ? 当たり障りがないのってどういうの? 悩みつつも目はさっきから気になってる部分へ向かってる。あっ、そうか。これなら切り抜けられるかも。
「っていうか、さっきから変なとこ掻いてるけど、そういうのやめてよ。奥さんに失礼でしょ」
「ん? ――ああ、悪い。気づいてなかった。だけど、あちこち痒いんだよ」
「でも、人前で掻くようなとこじゃないでしょ」
カンナは頬を膨らませてる。声をあげて笑い、嘉江は目尻に指をあてた。
黒板塀を離れると二人は鬼子母神の脇道をのぼっていった。欅はざわめいてる。《辻会計》の看板――とはいっても今はバーだけど――の上には月が出た。大きく欠けた三日月だ。
「ね?」
「ん?」
「さっきはああ言ったけど、私も気になってたの。どうして蛭子の奥さんは嘘までついて助けてくれたんだろうって」
参道は静かだった。風が通り抜け、カンナは髪を押さえてる。
「恩人だからと言ってたな」
「まあ、そうなんでしょうけど、ちょっと異常じゃない?」
「うん、ああまでされるとそう思える。でも、とりあえずはシャワーだ。全身が痒いんだよ。これじゃ、頭が働かない。カンナはどうする?」
「え?」
暗い道に立ち、カンナは首を引いた。どうするって、どういうこと? 私もシャワーを浴びるの? ――で? やだ、そんな、いきなり?
「どうするんだよ。もう帰るか?」
「は?」
ああ、そういうこと。――まったく、話の順番考えてよ。
「いや、いろいろありがとうな。迎えにまで来てもらっちゃって、ほんと感謝してるよ」
「って、勝手に締めないでよ。帰るなんて言ってないでしょ。私たち話さなきゃならないこと沢山あるのよ」
「そうなのか?」
「そうなの。お店のこれからも話さなきゃならないし、今のだって途中じゃない」
「でも、シャワー。それに、ビールも」
「じゃあ、シャワー使いなさいよ。で、ビールも飲みなさい。それでも話すの。いい?」
カンナは鍵をあけた。彼は暗い中を走っていく。――ま、好きにさせてあげよう。考えなきゃならないのも確かだけど、今日くらいは甘えさせてあげてもいいんだろうし。でも、どうやったらいいんだろ? そういうの苦手なのよね。どっちかっていうと、いつも私が甘える方だったから。
シャワーの音が聞こえてきた。カンナは天井を見つめてる。いやいや、違う。そうじゃない。それに、私には恋人候補もできたんだから。――あっ、でも、あのオマワリさんは捕まえた側なのよね。つまりは敵役ってことよ。うーん、どうしたらいいんだろ? ああ、こういうのはどう? ロミオとジュリエット。障害を乗り越えて二人は愛しあうの。だけど、あのお話ってどうなるんだっけ?
「いやぁ、マジで気持ちいい! シャワー最高! 世界中でこの瞬間にシャワーに感謝してるのは俺が一番だろうな!」
髪を拭きながら彼は降りてきた。下はスウェットパンツだけど、上は着ていない。
「って、なんで裸なのよ」
「あ? まだ髪が濡れてっからさ。なんだ? カンナ、興奮してるのか?」
「はっ! するわけもないわ。馬鹿なんじゃないの?」
「じゃ、乾杯しよう。キツい拷問からの解放記念だ」
「その前に、お願いだからそれ着てよ」
「でも、俺は上半身裸でビール飲むの好きなんだよ。こう、冷たいのが落ちてくのがわかるっていうかさ」
「知らないわよ、そんなの」
そこまで言ってから、あっ、と思った。そうだ、甘やかしてあげようって思ってたんだっけ。――もう、しょうがないなぁ。
「じゃ、最初の一口飲んだら着てよ。わかった?」
「うん、わかった。ほら、カンナ、乾杯しようぜ」
プシュッと音がしたと思う間もなく「プハァ!」と声がした。CMかよ――ツッコミを入れたくなるような飲みっぷりだ。
「いや、マジで美味い。俺はビールを愛してる。これも俺が一番だろうな。世界中でこの瞬間にビール愛に満ちてる人物ナンバーワンだ」
いろいろ呆れてはいたもののカンナは微笑んでいた。当たり前の日常が戻ってきたのだ。苛々させられることも多いけど、それも含めての日常だ。
「どうした? 変な顔して」
「変な顔はしてないでしょ。ね、ところで、さっきの話。蛭子の奥さんのことよ」
「ああ――」
彼は濡れた髪をかき上げた。目は細まり、顎は硬くなっている。
「なんでだって思う?」
「うーん、考えられることはあるけど、まだよくわからないな。っていうか、そもそものところどうしてああなったんだ?」
「私、蛭子さん家で倒れちゃったのよ。どうしてって訊くのはやめてね。でも、とにかくびっくりして倒れちゃったの。で、気づいたときには離れだったわ。そこでニュースを見て、さらに驚いたの。だって、殺人で逮捕するなんて言ってるんだもん。そしたら、奥さんがこう言ったの。『犯行時間を聴いてきて欲しい。自分がなんとかするから』って。そのときの表情も変だった。急に青くなって、――そう、お仏壇をじっと見て、」
「ふうむ」
彼は鼻に指をあてた。そのとき、「ナア!」と声がした。
「キティか?」
ガラス戸を開けるなり頬はゆるんだ。カンナは肩をすくめてる。どうせこうなるんでしょ? そう思っていたのだ。はいはい、このパターンよね。
「ニャ、ニャ!」
「ンニャ、ニャア!」
「フンニャア! ニャ!」
「おっ、みんな来てくれたのか。ああ、クロ、さっき道を横切っただろ。お前が報せてくれたんだな。――はは、やっぱりな。オチョ、そうとうやられたな。男っぷりが上がってるぜ」
カンナはソファに沈みこんだ。当たり前の日常ってこういうものなの? そう思いながらだ。




