第13章―1
走っては振り向き、キティはまた走った。あとを追うカンナは息が上がって苦しい。もう、どこに連れて行こうってのよ。え? 鬼子母神? お参りしろってこと?
「ちょっと待ってよぉ。もう少しゆっくり走って。私、ここんとこ運動不足で、」
「ナア!」
キティは不機嫌そうに吼えた。泣き言なんて聞きたかないよ――そう言ったのだけど、カンナにはわからない。まったく、どうしたもんかねぇ。どうすりゃ、この小娘はわかるんだろう? ――ん? そうか。思いきり首を反らすと、低いところをヘリコプターが旋回している。
「なにやってんの? あのヘリコプター」
カンナは呟いてる。しかし、それだけの感想のようだった。キティはヒゲを垂らし、奥へ走っていった。
「えっ、ちょっと。待ってって。ちょっと待ってよぉ」
段差を跳び、キティはぐんぐん先へ行った。もちろんカンナにそんな真似はできない。人間用につくられた道を駆け、妙見堂まで着いた。
「ナア!」
「今度はなによ」
そう言ったもののカンナは振り返ってみた。「あっちだよ。見てみな」と言われたように感じたのだ。
「は? どういうこと?」
細い道にはパトカーが停まってる。脇に立つ警官は無線を使ってるようだ。
「蛭子さんとこでなにかあったの?」
尻尾は揺れた。違うって言ってるのかな? じゃあ、なにがあったの? あの人はどこ行っちゃったのよ。キティはゆっくり歩き出した。振り向きもせず塀際を進んでいく。カンナは胸に手をあてた。悪い予感がする。っていうか、悪い予感しかしない。奥へ進むごとに警官の数は増えていった。これは只事じゃないでしょうね。強盗とか殺人とか。――えっ、殺人? やだ、まさか殺されちゃったとか?
「なにかご用ですか?」
腹の突き出た警官が立ちはだかった。その脇を通り、キティは奥へ入っていく。覗きこむと非常線を張られたアパートが見えた。荷台つきのバイクも目に入ってくる。
「えっと、――その、猫が」
「ああ、あちらはお宅の?」
「へ? そうです。うちの猫なんです」
警官は辺りを見渡した。上空からはヘリコプターの音がしている。
「じゃ、ちょっとだけ入ってもいいですよ。でも、捕まえたらすぐ戻って下さいね」
軽くうなずき、カンナは路地へ入っていった。キティは道の真ん中で顔をあげている。視線をたどるまでもなく警官の出入りする部屋を見てるのがわかった。
「キティ、戻るの。どうしたのよ、こんなとこ入っちゃって」
カンナはバイクを見つめた。やっぱり、これはあのジジイが乗ってたヤツだ。ってことは? ――いや、わからないな。なにかあったんだろうけど、それとあの人がいないのはどう繋がるの?
「ほら、怒られる前に戻ろう」
抱き上げるとキティは素直に従った。どうしちゃったの? いつもは触らせもしないくせに。そう思ってるところに警官が近寄ってきた。
「捕まえられましたね。いえ、私は猫が苦手でして」
「はあ。でも、なにがあったんです?」
「――いや、ちょっと、その、」
うつむいてカンナは唇を噛んだ。母親と同じだ。警察はいつだってそう。なにがあったか訊いてもこたえてくれない。私はただ心配してるだけなのに。
「あの、お騒がせして済みませんでした」
顔をあげずにそう言い、カンナは路地から離れた。混乱してる上に嫌なことまで思い出したものだから頻りに溜息が出る。猫の体温を感じていたのもあるのだろう、心細くもなってきた。どうしちゃったのよ。なんで黙っていなくなっちゃうの? 仕事上のとはいっても、私たちはパートナーじゃない。そうでしょ?
「ナア!」
突然キティが暴れだした。四肢を突き出し、爪まで立てている。
「って、痛い! なに? どうしたのよ!」
そう言ってる間に肩まで上がってきた。それから、お尻を振り、思いっきりジャンプした。次の瞬間には塀の上を歩いてる。
「ほんとなんなの? ねえ、キティ、ちゃんと教えてよ。あの人はどこに行っちゃったの?」
「ナア!」
とことこ走ってキティは蛭子家の門まで行ってしまった。そこで振り向き、じっと見ている。
「まさか、遊んでるわけじゃないでしょうね。――ね、さっき警察がいたとこって、あのジジイの家なんでしょ? なにがあったの? それと、あの人がいないのは関係あるの?」
「ナア」
弱々しく鳴き、キティは尻尾を振った。察しが悪いのか、ただ単に馬鹿なのか、とにかくこの小娘はなってないね。――しょうがない。こうするしかないか。
「ね、教えてってば」
門の前まで来るのを待って、キティは内側へ飛び降りた。そこから、「ナア! ナア!」と鳴く。
「もう! どうしたらいいのよ!」
カンナは顔を覆った。ただ、ん? と思った。そうか、人に訊けばいいんだ。っていうか、なんで猫に教えてもらおうなんて思ってたんだろ。目の前には閉じられた門がある。そういえば、あのアパートはここの持ち物だって言ってたな。それに、脅迫状には『あくりょう』と書かれてた。そこでもあのジジイと繋がってるんだ。キティの声は急かすように聞こえてくる。――うん、そうよね。蛭子さんに訊けばなにかわかるかも。カンナは呼び鈴を押した。
「はい、どなたですか?」
間延びした声が聞こえてくる。一瞬迷ったものの、カンナは営業用の声を出した。
「あの、私、蓮實淳の助手で、――その、こちらにも伺ったことがある」
「ああ! カンナさん?」
その声は興奮してるように聞こえた。カンナはまた胸を押さえた。
「はい、そうです」
「すぐ行きます」
薄く門がひらいた。ゆかりは辺りを窺うようにしてる。それから、腕をつかみ、中へ引き入れた。――え? なに? どうしちゃったの? そう思いながらカンナは顔をあげた。
「大変なことになりましたね。私もお義母さんもびっくりして、なにも手につかないくらいですよ」
「はあ」
「まさかあんなことが。だって、蓮實先生は昨日も来てたようなんです。お義母さんと話されたって言ってました。それが、突然こんな――」
「あの、すみません。私、まだ状況がわかってないんです。その、お店に行ったら、あの人がいなくって」
肩を落とし、ゆかりは覗きこんできた。長い顎はさらに伸びている。
「そうだったんですか。私はてっきり、」
「なにがあったんです? うちの先生はどうしちゃったんですか?」
「うちのアパートで人が殺されたんです。裏にある、あのアパートで」
指の向いた方を見ると、ベランダで警官がなにかしてる。あのジジイが殺されたってこと? でも、それがどうしたっていうの?
「それで、うちの先生は?」
「蓮實先生はその犯人じゃないかってことで警察に。いえ、絶対そんなことありませんよ。なにかの間違いです。だって、先生がそんなこと――」
カンナは額に手をあてた。目は眩んでる。――あ、これってあのときと一緒だ。最初のビラを見たときと。駄目! 倒れたりしてる場合じゃない。私があの人を助けるんだ。私じゃなきゃ駄目なの。あのろくでなしの馬鹿を助けられるのは――
そう考えながらも身体は沈みこんでいった。力が入らないのだ。意識が薄らいでいくとき、キティの声を聞いた気がした。それは、「ナァ」と弱々しく耳に入りこんできた。




