第1章―7
カンナはふたたび時計を見た。三時二十九分。湯気で曇った向こうにはちらちらと白いものが舞っている。ああ、ほんとに降ってきた。開店休業二日目になるのか。デスクの方を窺うと、彼はバステト神像を縦一列にさせたり、横一列にしてる。――ほんと子供。もうちょっとは有効な時間の使い方を知らないの?
こういう暇な時間にカンナはその横顔をじっと見つめることがある。あのとき感じたのは本物だったのかと考えながらだ。しかし、あのようなことはなかったし、ドキドキしたのもあの瞬間だけだった。まあ、あれくらい近づくこともなかった。彼らは程良い距離感を保つようになっていたのだ。
「ところで、曲変えないか? 客、いや、お客さんも来ないってのにずっとこんなのかけとくことないだろ?」
遊ぶのにも飽きたのか、像を戻しながら彼はそう言った。
「駄目よ。何回同じこと言わす気? あくまでもシックにいくの。これは決定事項よ」
「クラシックがシックかねぇ。――あ、いま言ったのギャグとかじゃないからな」
立ちあがると自然に欠伸が洩れた。口を覆い、カンナは頭を振っている。
「ギャグだったとしたら、それ、面白くない方のだわ」
この二ヶ月、彼らの店はそこそこ混むようになった。二週間に一人しか来客のなかったのを考えると盛況といってもいいかもしれない。
自身でそうと信じていただけでなく、カンナには現実をしっかり見る目があったわけだ。現実をそのまま捉え、補正を加え、より良き状態へ持っていける能力だ。顧客対応も上手くまわし、簡単な鑑定は時間を短くした上で低料金におさえることもあった。なおかつ、近隣に大学があるのを知ると、学割も設けた。そのおかげか学生が集団でやってくるようになった。まあ、単価は下がるものの、こういう商売においては口コミこそが最良の拡販になる。そして、学生の伝播力というのは実際に馬鹿にならないものなのだ。
また、SNSを活用し、誇大になりすぎず、かといってちゃんと興味を惹く発信もしていた。『バステトの神秘により貴方の過去・現在・未来を見通します』とそこには書かれ、何十回も撮り直した蓮實淳の写真も載せられている。そういう努力の結果があらわれはじめていた。
ただ、昨日と今日に限っては来るのは猫だけだった。カンナはこの子たちから五百円でもいいからもらえれば、どんなに売り上げが立つだろうと思うことがある。それくらい頻繁に、そして多様な猫がやって来るのだ。蓮實淳はその一匹一匹の名前から素性まで全部知っていて、頻りに話しかけている。この人は猫とほんとにしゃべってるんじゃないかと思うほどにだ。それくらい彼ら(猫と蓮實淳ということだ)の会話は滞りなくつづいている。
しかし、現実をしっかり見る目を持つカンナはこうも思う。そんな馬鹿なことあるわけない。まあ、この男の〈能力〉は本物だし、その力がどこから来てるのかも謎といえば謎だ。だけど、その上、猫としゃべれるなんて、それこそギャグだ。それに、――とカンナは重ねて思った。猫としゃべれるお人って、けっこういるものね。
「ところで、なにか飲む? こう冷え切って、くさくさする日にはなにがいいかしら――」
カンナは奥へ向かった。細い通路には奥行きのない棚が設えてあって、『Lemon balm』、『Rose hip』、『Liquorice』などと書かれた瓶が並んでる。
「ええと、まずはジンジャーでしょ。あとはオレンジピール。それと、血行促進には? ああ、メドゥスイートか」
ぶつぶつ呟きながらカンナは瓶を取っていった。それから、ティポットにお湯を注ぎ、砂時計を倒した。ガラス戸は音をたて、風がストーブの熱を打ち消さんばかりに侵入してくる。蓮實淳は胸を押さえていた。そこには大振りなペンダントヘッドがある。ひんやりした金属が弱く熱を帯びたとき、曇ったガラスの向こうに人影があらわれた。
彼は素早く表情を調節し、喉を鳴らした。相談者の前では常に信頼されるべき人物を演じなければならないのだ。




