第12章―2
冷静に考えることができたなら違った行動をとったかもしれないけど、彼はそういったものからかけ離れた人間だった。叫びが消えたと同時に駆け上がり、風に煽られたドアの前に立った。
「えっと、すみません。柏木さんのお宅ですよね? その、謝罪に来た蓮實淳と申しますが」
そう言ってみたものの返事はない。ペロ吉は首を下げている。
「先生、しゃがんでみて。テーブルの向こうに倒れてるの」
言われたとおりにすると身体の一部が見えた。向かって左に頭があり、そこから直線に伸びている。
「柏木さんですよね? 大丈夫ですか? ほんとすみません、入っちゃいますよ」
彼は靴を脱いだ。カーテンが閉まっているのだろう、中は薄暗い。ただ、じきにうっすらと見えてきた。壁際には新聞がうずたかく重ねられ、他にも不必要に思えるものが置いてある。シンクには食器が散乱していた。彼は激しい違和感を持った。これがあの脅迫状を作った男の部屋だというのか? それにしては汚いな。しかし、横たわっているのは柏木伊久男に間違いなかった。両手でシャツをつかむようにしていて、口の端には黄緑がかった泡が見てとれた。
「マジか――」
声は自動的に洩れた。振り返るとペロ吉が入ろうとしている。
「駄目だ、ペロ吉。毒があるかもしれない。そこにいるんだ」
「毒?」
「そうだ。身体に付いたら大変だからな、入ってきちゃ駄目だぞ」
「じゃあ、」
「ああ、きっと死んでるんだろう」
しゃがみ込み、彼は鼻先に手を翳した。息はない。
「ほんとに死んでるの?」
「そのようだな」
そう言った瞬間に恐怖が覆ってきた。マジでヤバいな。どうすりゃいいんだ? 彼は首を巡らした。奥の部屋には座卓があり、グラスが二つ乗っている。――ふむ。こういうのって二時間ドラマでよく見るよな。毒殺された男と二つのグラスってわけだ。
逃げるか。そう思いつつ彼はもう一度柏木伊久男を見た。苦悶に歪んだ顔。しかし、見ひらいた目には不思議な色が浮かんでいる。いつかどこかで見たことがあるような目つきだ。――救急車だな。そうするしかないだろ。彼はポケットに手を突っ込んだ。――いや、待てよ。俺は警官とここに来るはずじゃなかったんだっけ。彼は耳を澄ました。階段をのぼり来る音が聞こえる。
「おっ、猫がいるぞ」
「ドアも開いてますね」
「そのようだな。あの部屋だったよな?」
「はい。でも、どうしたんでしょう? 相手の方が先に行ってるんですかね?」
こりゃ本格的にヤバくないか? 彼は立ち上がった。手は滑ってうまく動かない。
「ああ、かわいそうに。この猫、ずぶ濡れになってるぞ」
「ほんとですね。だけど、どうしてここにいるんでしょう? 猫なんか飼ってなかったはずですけど」
近くまで来たのだろう、足音がはっきり聞こえた。
「柏木さん? どうかしましたか?」
どうもこうもないよ。そう思っていると、「ん?」と声がした。あの若い警官だ。
「あれ? 蓮實さん、どうされたんですか? 柏木さんはどこです?」
深く息を吐き、彼は首を振った。
「ここにいる。ここで死んでる」
それからのことは彼自身もよく憶えていなかった。「ここで死んでる」と言った直後にポケットに手を突っ込まれ、「なにを隠してる」と訊かれたのを憶えてるくらいで、それ以降は深い混沌に分断されてしまったのだ。
外に出された彼は続々とやって来る警官にじろじろ見られることになった。雨が通り過ぎると野次馬もあらわれた。ペロ吉は追い払われてはまた近づこうとし、しまいには首を摘ままれ塀の外へ放られてしまった。
鼻に指をあて、蓮實淳は考えた。頭の中はぐちゃっとしていたものの、考えなければならないのも確かだ。――あの爺さんは殺されたんだろう。毒殺されたってわけだ。でも、いったい誰が? すぐ思いつくのは脅迫されてた者たちだ。あるいは、その近親者かもしれない。その場合はどうすりゃいい? 思考は動きつづけ、つんのめるようになった。それ以降は痺れてしまい、なにも思いつかなかった。低いところをヘリコプターが飛んでいる。夕方のニュースになってるのかもな――そう考えていると、やっと話しかけてくる者がいた。髭の剃り跡が目立つスーツ姿の男だ。
「あの、ちょっといいかしら。あなた、亡くなった方とトラブルになってたって本当なの?」
「ええ、まあ、そうですけど」
「ふうん、そうなのぉ。それはちょっと困ったことよねぇ。トラブルがあった二人が会ってて、片っぽが亡くなっちゃうってのは困りものよ」
「はあ」
っていうか、もうちょっとマトモな奴はいないのか? 周囲を見まわすと男も身体ごと動かしてくる。彼は顔をしかめた。――ああ、ほんとムカつく。だいいち、なんでオネエ言葉なんだよ。たぶんそういった苛つきが深い混沌から救い上げたのだろう、これ以降の認識は幾分はっきりしてきた。
「まあ、どういうことがあったかは、あなたの方がよくわかってるでしょう? それを聴かせてもらえる?」
彼はあったことを話した。警官に言われて謝罪に訪れたこと。雨風が強くなり、それを凌いでるときにドアの開く音がしたこと。なんだろうと思い見にいくと老人が倒れていたこと。ペロ吉とのやりとりは話さなかったものの、すべて事実に違いなかった。
「なるほどぉ。ま、筋は通ってるわね。だけど、そもそもどうしてトラブルになったわけ?」
「それは――」
すこし言い淀むと男は顎を突き出してきた。瞳にはあからさまな疑いが浮かんでる。
「聴いた話じゃ、双方ともに勘違いとか人違いだったってことなんでしょう? そうなのよね?」
「その通りですよ。ちょっとした行き違いがありまして、それでトラブルになったんです」
「だけど、変よねぇ。勘違いだったら、なんの謝罪なわけ? ああ、怖い思いをさせて済みませんとか? ま、そういうのもわからなくはないけど、あなたは納得してなかったんじゃないの?」
ドアの前に立ち、男は腕を組んだ。目は細められている。
「それに、さっきの話。筋は通ってるんだけど、そこにも変なとこがあるわ。あなた、なにか隠してることがあるんでしょう。全部は話してないわね」
蓮實淳はちょっと怖くなってきた。このオッサン、実はむちゃくちゃ有能なのかもな。警視庁ご自慢のオネエ刑事ってわけか?
「ね、ここで言っちゃいなさいよ。そうした方があなたの為になるわよ。ほら、本当はどうだったのか言ってごらんなさい」
男は耳許に囁いてきた。警官たちは唇を歪ませつつ見てる。
「どうしちゃったのぉ? なんで教えてくれないのよ。――ま、いいでしょう。ちょっと署まで来てもらえる? 任意同行ってやつね。いいでしょう?」
「任意同行?」
「そうよ。署の方でよぉくお話するの。来てくれるわよね?」
「任意ってことは断れるってことです?」
表情はさっと変わった。有能かどうかは別にして、只者でないのは確からしい。
「断れるけど、そうしない方がいいわよ。住居侵入で逮捕ってのもできるけど、穏便に済ました方がお互いの為になるでしょ。ほら、ウイン・ウインってやつよ」
腕をつかんだまま男は階段を降りていった。辺りはもう暗くなっている。
「さ、この方を連れてってあげて。私はまだ残るけど、連絡しとくから。いい?」
屈強そうな警官に引き渡すと、オネエ刑事は手をひらひらと振って戻っていった。――いや、行くなんて言ってないんだけどな。そう思いはしたものの、パトカーのドアは「さあ、どうぞ!」とばかりにひらいてる。
「蓮實先生!」
叫び声がした。姿は見えないけどペロ吉の声だ。
「蓮實先生! どこ行っちゃうの?」
「大丈夫だ! ペロ吉! ちょっと出かけて来るだけだよ!」
彼も口に出して叫んだ。押し込もうとしていた警官はきょとんとした顔で振り返っている。
「ペロ吉、キティに知らせてくれ! なにがあったか全部言うんだ! いいな?」
「うん、わかった! でも、先生、すぐ戻って来るんでしょ? そうでしょ?」
警官の顔は不審に歪んでる。いったい誰に言ってるんだ? 本官にか? いや、本官は「ペロ吉」などではないし――という表情だ。
「もちろんだ! すぐ戻る! ペロ吉、頼んだぞ!」
そう叫んでるときにドアは閉まった。




