第11章―4
九月の頭になって、やっと新しい動きがあらわれた。大和田義雄から連絡があったのだ。休みの日は昼過ぎまで寝てる蓮實淳も早くに起き、身支度を調えた。時計を見ると、十一時十八分。
「ちょっと早過ぎたかな?」
歩くだけでも汗が噴き出た。風もなく、肌がじりじりするほど暑い。襟元に指を入れてるところに白い自転車が通りかかった。あの若い警官だ。
「あっ、蓮實さん、お出かけでしたか。どちらへお出でです?」
「いえ、ちょっとそこまで」
「はあ、そうでしたか。――いや、すみません。こういうのを警察根性っていうんでしょうね。つい訊いちゃうんですよ。どこに行くのかとか、なにするのかって」
警官は笑った。二枚目面した男の笑顔にはそれなりの破壊力がある。ま、カンナが惚れるのも無理ないか。
「で、なにかご用でしたか?」
「そうなんですよ。ちょっとご相談がありまして」
自転車はからからと音を立てている。二人は鬼子母神の脇道を下っていった。
「なんです? 相談ってのは」
「いえ、この前のつづきなんですがね、先方がやはり被害届を出そうかと言ってまして」
彼は立ちどまった。妙見堂の屋根は緑色に輝いている。
「勘違いだというのにですか?」
「ええ、それは言ってあるんですがね。勘違いで起こったのだから、同じことは起こらないですよって。その後も何度か話しに行ってるんです。しかし、納得いかないようでして」
「納得いかないと言われてもね」
蓮實淳は歩き出した。――まあ、これも俺たちを追い込む作戦の一環なんだろう。しかし、本当にそんなことするのだろうか? その場合はどうすりゃいい? ああ、コイツを突き出しゃいいのか。そう思いながらポケットをまさぐってる。
「あの、蓮實さん?」
「あ? ああ、すみません。考えごとしてて、」
「まあ、考えちゃいますよね。私もほんと困ってまして。それでですね、もしそうしてもいいなら今日にでも謝罪に行っていただけませんか?」
彼はふたたび立ちどまった。警官は覗きこむようにしてる。
「どうしました?」
「いや、――その、それは先方がそう望んでるということですか?」
「はい。私にはそのように言ってきました。二度とああいうことが起こらない確証がないと外にも出られない。それにはまず謝罪だと言ってるんです」
どういうことだ? 額に指を添え、彼はしばし考えた。あのオッサンが言ってたのとまるで逆じゃないか。柏木伊久男はどうしたいんだ?
「どうでしょうね? いえ、もちろんそれでいいならってことですよ。しかし、被害届などと言ってるのを考えると、そうした方がいいように思えるんですが」
「はあ――」
動きつづけていたものの、頭はじきに痺れてきた。それに、面倒にもなった。
「いいでしょう。勘違いとはいえ、やったことはやったことですからね。謝罪しろというなら幾らでもしますよ」
「そうですか。それはよかった」
頬をゆるめ、警官は蛭子家のある方を指さした。
「では、その方のお住まいを案内しますよ。お時間は大丈夫です?」
彼は時計を見た。――十一時四十一分。まあ、約束には間に合うだろう。それに、知ってるっていうのもなんだしな。
「ええ、まだ少しなら。ここから近いんですか?」
「もうすぐですから」
警官はいろいろ話しかけてくる。適当にこたえながら、彼は痺れた思考を戻そうとしていた。――謝罪させてどうするつもりなんだ? なんらかの罠が仕掛けられてるとでもいうのか? しかし、矛盾だらけだな。話がちぐはぐ過ぎる。
「――という感じでしてね。まあ、警察もけっこう大変なんですよ」
「はあ、でしょうね」
「っと、ここです。この路地にあるアパート、二階の真ん中の部屋です。そこが先方の、――ああ、まだお名前をお伝えしてなかったですね。柏木さんという方です。柏木伊久男さん」
「柏木伊久男さんですか」
「そうです。ええと、六時くらいは如何です? ご予定はありませんか?」
「はい、大丈夫です」
「では、そのように伝えておきます。いえ、そのときは私と同僚が付き添いますから、ご心配なく。六時前にここで落ち合いましょう」
軽く頭を下げ、彼はそこを離れた。警官は奥へ入っていったようだ。時計を見ると、十一時五十二分。




