第1章―6
その翌日から彼らは動きはじめた。そろそろ底をつきそうになっていた貯金からスーツを新調し、家具の類いも購入した。ほぼ半月をかけ、店は生まれ変わった。彼の見た目もだ。伸びていた髪はサイドを刈り上げ、あとを後ろへ撫でつけている。そうすると、ちょっとばかりいい男にみえた。それでもなにか足りないと感じたカンナは眼鏡をかけさせることにした。細長い黒縁の伊達眼鏡だ。
「うん、ちょっとはいいわ」
カンナは全体を眺めるようにしてうなずいた。
「見た目は、まあ、こんなもんでしょう。言葉遣いはこの前教えた通りにするのよ。じゃ、やってみて」
「やってみてって言われてもな」
「いいから、やって」
顔をしかめはしたものの、喉を鳴らして彼は整えた声を出した。
「私になんでもご相談ください。どんなことでもお見通しの、この蓮實淳にお任せを」
「うん。まあ、いいでしょう。だけど、その顔、なんとかならないの? なんだか不味い液体を口に含んでるみたいよ」
「まだ馴れないんだよ。そのうちもっと普通に言えるようになる」
占いの方法――カンナの考えた仕掛けだ――も決まった。蓮實淳は大きなデスクに腰かけ、相談者は向かいに座る。新たに仕切りとなる厚手のカーテンも設えた。デスクの上にはエジプトっぽいタペストリーが置いてあり、猫頭の像(バステト神というらしい)が四つ、互いを見合うように据えてある。彼は両手を漂わせ、なにかごにょごにょと唱える(「なんでもいいから、なにか言っとくの」とカンナは指導した)。そして、くわっと目を見ひらき、こう言うのだ。
「見えました。バステトのお導きにより、あなたのことが」
それを何回も、日に数時間練習させられた。
「なあ、ほんとに毎回これをやるのか? 俺が?」
「そうよ。なにか問題ある?」
「いや、なんか嘘ついてるみたいでさ。バステト神って、こりゃ、いったい誰なんだ? まったく知らない奴の導きなんて言うの、俺、心苦しいな」
「なに言ってんのよ」
カンナは睨みつけながら脚を蹴った。
「占いが当たってりゃ問題無いでしょ。あなたはそっちに嘘がないよう努力してればいいの」
意外に思われるかもしれないけど、彼は嘘をつくのが苦手だった。人間が正直にできてるというのではなく、小心者過ぎて嘘をつき通すことができないのだ。尊大な態度をとってるのも同じ根から出てることだった。小心さを隠すため、人より上に立ちたいという欲求が生じるのだ。しかし、それもこの半月で鳴りを潜めた。彼は女性に弱く、ちょっとでも親しくなると横柄さも不遜さも失ってしまう。依頼心が強く、甘えん坊というのが本性であって、芯の強い女性の前ではあたかも母親にたいするが如くなってしまうのだ。
そういう意味では、カンナは良き相棒になれる素質を充分に持っていた。芯の(というか、気の)強さで彼女に勝つなんて土台無理な話だからだ。実際にも、この半月で蓮實淳はほぼ完全に操縦されるようになっていったし、その関係にある種の心地よさを見出しはじめていた。
「ね、あなたは自分のことを占ったりできるの? その、自分の将来がわかるのかってことだけど」
カンナはそう訊いたことがある。リニューアルにあてた半月が過ぎ、あの陶製の看板が送られてきた日のことだった(巨大な板っ切れは粗大ゴミとして捨てた)。
めずらしいことにその日は二人だけだった。とはいっても、いつも誰か人がいたわけではない。いつも猫がいたのだ。それがその日にはなぜかあらわれなかった。ビニールのぷちぷちを丸め、カンナは外を眺めた。ペロ吉でもいたら喜びそうなオモチャになるな――そう思ったのだ。彼女もその程度には猫たちと親しくなっていた。
「こんな目立たない看板にするのか?」
秋が深まってきた頃で、陽は傾いたと思うとすぐ消えた。ガラス戸は軋んでる。カンナはほんのちょっとだけドキドキし、それに戸惑った。千春の話を総合すると、この男はどうしようもない奴であり、そうでなくても自分との出会いも最悪だった。センスもデリカシーも金もない男。占いの能力以外はすべてゼロといえる人間。そうとわかってるのにこのドキドキはなんだろう?
「ねえ、さっきの質問。こたえてよ」
「ん? なんだっけ?」
「あなたは自分のこと占えるの? 自分がどうなるかわかるの? って訊いたの」
「ああ――」
彼は覗きこんでいる。なんなのよ、こんな重たいのずっと持ってなきゃならないわけ? だけど、動けないようにも思えた。顔は目の前にある。
「わからないな。やったことないんだよ、そういうの」
「どうして?」
「うーん、どうしてかなぁ。でも、そういうのって知らない方がよくないか? 俺はそう思うな」
彼は固まったように動かず、だから、二人の距離も同じままだった。カンナはじっと見つめてる。――目の下にこんなホクロがあったんだ。肌は綺麗。白くて、肌理が整ってて、まるで男の人じゃないみたい。
「千春から聴いてると思うけど、俺はいろんな仕事してきたんだ。ま、君からすりゃ、ろくすっぽ意味もわからず働いてたってことになるんだろうけどな。幾つも仕事駄目にしちゃったもんな。とくに最後のは堪えた。飲み屋でさ、ほんといい感じの店で、俺は自分なりに頑張った。落ち目になった店の建て直しを任されたんだよ。そのためのことなら、なんでもやった。昼前から夜明けまで働いたもんな。売り上げもあがってたんだぜ。スタッフもみんないい子だった。いや、はじめは大変だったんだ。みんなやさぐれてたからな。いろんな揉め事もあったけど、そいつをひとつずつクリアしていって、徐々にまとまっていった。これからってときだったんだ」
「うん」
「それが、ある日突然すべての店を閉めるって言われたんだ。ほんとにこれからってときだった。あと半年――いや、三月あれば、売り上げも利益もちゃんと出せる店になるはずだった。ま、終わったことだから幾らでもこんなふうに言えるだろうけどさ」
カンナは唇を尖らしてる。ほんと、この人は話してる相手がなに考えてるかわからないんだ。ずっと見てるのにも気づけないんだもの。
「それと私の質問がどう繋がるの?」
そこで彼はやっと顔をあげた。いつもと違って真剣そうな表情だ。もしかして、この人も私に近づきすぎて緊張したのかな? ――いや、まさか。
「前の仕事がなくなって、まあ、その後もいろいろあったけど、こんな店をはじめることになったわけだ。でも、それもうまくいってなかった。そんときだって俺は自分がどうなるかなんて知ろうとしなかった。だけど、こうやって君に会えた。これはたぶん運命みたいなもんなんだろう。なんとなくそう思える。うまくいけるようにも思うんだ。今度こそね。そういうのって、初めからわかってたらつまらなくないか?」
カンナは瞼を瞬かせている。自分が改造を施した後の彼は信頼のおける、そして、きちんとその裏打ちとなる能力を持った、しっかりした人物にみえた。それに、その表情。すこしはにかんだ口許、眼鏡越しにみえる優しげな瞳――
やだ、ちょっと。さっきから感じていたドキドキはなにかの弾みで起きたものじゃなかった。きっちり自分の中に根づいてるものと知ったのだ。理屈ではありえないことが起こってる。こんな駄目人間に。カンナは背筋に冷たいものを当てられたような気分になった。どうしてそうなったのか自分でも理解できなかった。




