第10章―2
その週末にも千春があらわれた。ビラを検分しに来たのだ。
「ほんと、あなたって順風満帆と縁がないのね。どこでなにしててもこういうことが起こるんだから。――で、またまた落ち込んじゃってるんでしょ?」
「そこまで落ち込んでないよ。気にはなってるけど、いろいろ調べてるし、なんとかするつもりだ」
「なんとかするって、本当になんとかできそうなの?」
コーヒーを運び、カンナはうんと離れたところに腰掛けた。――考えてみれば、こういう声って普段聞かないな。つまり、この人用に作りこんでるってことよね。ま、泣くほど好きなら、そうもなるか。
「できるかわからないけど、なんとかするしかないだろ」
「ふうん。じゃ、今回は投げ出したりしないつもりなのね? よかったわね、カンナちゃん。まだこの人と一緒に働けるみたいよ」
そう言いながら千春は顔を向けてきた。――はいはい、わかったって。そうやってチクチク刺激しようってんでしょ? 私は気にしないわよ。だって、関係無いことなんだもの。
「そうね。こういう状態でも来てくれるお客さんはいるし、ここが無くなったら困るって人もいるんだから頑張らなくちゃ」
うん、今のはけっこういい切り返しじゃない? こうやってジャブをかわしていけばいいのね。そう、平常心よ。平常心を心がけるの。
「だけど、気をつけた方がいいわよ。この人って、いったん落ち込むと切りないタイプだから。なにか一つ上手くいかないと、全部嫌になっちゃうの。ほら、最初の仕事のときもそうだったでしょ? ――えっと、なんだっけ? あなたが初めにしてた仕事。本屋さんだったっけ?」
「ビデオ屋だろ。本屋は大学のときのバイトだ」
「そうだっけ? 何度も仕事変えてるからわからなくなっちゃったわ。でも、そのときだって――」
千春の持参した《成城石井》のフランス風アンドーナツというのを頬張りつつ、彼は顔をしかめた。こいつはなにしに来たんだ? まあ、どうせ会社で腹の立つことでもあったんだろ。それを発散しようとしてんだ。ほんと迷惑な奴だな。
「――で、どうしたと思う? 旅に出たのよ! 『自分を見つめ直したい』とか言っちゃってね。笑っちゃうでしょ? なにが『自分を見つめ直したい』よ、そんなミスくらいで。あれ? あのときはどこ行ったんだっけ? 沖縄?」
「福岡だよ。俺は飛行機なんて乗れない」
「ああ、そうだったわね。だけど、カンナちゃん、自分を見つめ直したい人って、北の方へ行くもんじゃない? 東北とか、北陸とか。南に行くって聞いて、『は?』って思ったものよ。けっきょくは遊んで帰ってきたみたいだしね」
笑いながら話してるのを見て、カンナも一応は笑顔をつくっておいた。ほんと、こじらせちゃってるなぁ。好きなら好きって言えばいいじゃない。ま、どうせ泣きついてくるのを待ってるんでしょ。今までずっとそうだったって言ってたもんね。――ん? でも、どうして泣きつかないんだろ? この人は千春ちゃんをどう思ってるの? 隣を見ると彼も顔を向けてきた。いつもより離れているものの、そのぶん二人はしっかり見つめあった。
「うんっ!」
わざとらしい咳払いがした。カンナはまた少し端へ寄り、「平常心」と思った。
コーヒーを飲み終えると千春は優雅そうに手首を曲げた。
「じゃ、帰ろうかしら。そろそろ学生さんが来る時間なんでしょ?」
「ん? まあ、今は学校が休みだから来ないかもしれないけどな」
「でも、お仕事の邪魔するわけにはいかないわ」
立ち上がった千春は頬をゆるめてる。ちょっとだけ悪いことをしたように思えたのだ。カンナは疲れきっていた。しかし、それだってもうすぐ終わる。
「千春ちゃん、いつもありがとうね。今日のドーナツも美味しかったわ」
思いっきりな笑顔をつくり、カンナも立ち上がった。厄介払いができて嬉しいのが半分、後の半分は千春と同じ――なんだか悪いことをしてる気分になったからだ。三人はまだ眩しい中に出た。欅の影が伸びてるものの辺りは暑く、むっとする空気に覆われている。
「私はこれからお肉屋さんに寄って、唐揚げ買って帰るわ。カンナちゃん、あれ好きだったもんね」
「えっ、《大久保》さんの? 嬉しい!」
「クーラーの中でビール飲みながら食べるの。どう? 悪くないでしょ?」
「悪くないどころか最高よ!」
まだなんとなくの贖罪気分をぶつけ合ってる二人をよそに彼は都電の方を見た。顔見知りの学生がやって来たようだ。三人かたまって手を振っている。
「あっ、久しぶりじゃない!」
気づいたようで、カンナも手を振った。――と、蓮實淳は眉をひそめた。バイクが近づいてる。荷台つきのものだ。
「カンナ?」
「はい?」
「先に入ってろ」
「なんでよ。あの子たちが来てくれたの久しぶりでしょ。ちゃんと出迎えてあげたいわ」
「いいから、中で待ってろよ。――ああ、そうだ。片づけとかあるだろ? それをしとくんだ」
バイクは少し先で停まった。学生たちは笑いながら近づいてくる。
「片づけ? ああ、さっきのカップとか? そんなのすぐ片づけちゃうって。――もう! ほんと久しぶりじゃない! 寂しかったんだから!」
取り囲まれると彼は千春を見つめた。それから、バイクへ目を向けた。千春は瞼を瞬かせている。でも、どういうことかわかった気がした。
「カンナちゃん、ここで話してるのもなんだからお店に入ったら? カップとかは私が片づけるから」
カンナは顎を突き出した。――はあ? どうしちゃったの? いつもはそんなことしないのに。っていうか、なんで店に押し込もうとするのよ。じっと見ると二人の顔には互いを理解し合ってる雰囲気がある。――なによ、さっきの仕返しのつもり? それに、そういうアピールなんて要らないの。私はほんとにどうとも思ってないんだから。
「さ、入ろう。千春はもう帰っていいぞ。片づけなら俺でもできる」
バイクは動き出し、石畳がガタゴト鳴りだした。カンナは首を曲げた。その瞬間に全身から汗が浮き出た。
「ちょっと! あれって!」
「ん? なんだ?」
間の抜けた声を出したけど彼はバイクを見つめてる。老人もちらっとだけ見てきた。
「あのジジイなんでしょ! 嘘ばっかりのビラ貼りまくったの、あのジジイなんでしょ!」
腕を引っ張られ、彼は屈むようになった。しかし、なにもこたえない。バイクは通り過ぎていく。
「もう!」
カンナは走り出していた。なにかは考えていたものの、それは理屈をともなってなかった。まあ、すくなくとも平常心でなかったのは確かだ。呼び止められる声すら聞こえていなかった。




