第9章―4
猫たちは前にも増してやって来るようになった。どの時間にもあらわれてはちょっとした情報を伝えて帰っていく。占いをしてるときは終わるまで待つこともあった。そういう場合、カンナは立ち聞きをやめてネズミのオモチャを取り出した。顔のわかる猫も、そうでない猫も「ニャニャニャ」などと言いながらひとしきりつきあってくれる。ただ、仕切りのカーテンがひらくなり駆けていった。
いったいどういうこと? 彼は眉間に皺を寄せてるし、猫の態度(というかなんというか)もさっきまでと明らかに違ってる。そう思いながらも会計やらなんやらで忙しい。
「あっ、すみません。もう一度仰っていただけます?」
手を動かしつつカンナはそう言った。聴き逃してしまったのだ。
「いえね、すごい先生だって聴いてましたけど、ほんとにすごいお方ですねって言ったんです。なんか長いこと痞えていたことがすとんと落ちたって感じでした。感謝しますよ。先生にもそうお伝え下さい。――その、なんだかお忙しそうだから」
「ああ、いえ。――ちょっとぉ、過分なお褒めのお言葉を頂いてるわよ。あなたもこっちに来て」
彼は変な顔つきをしてる。お客さんも苦笑いを浮かべていた。上品そうな後ろ姿を見送りながらカンナは腕を組んだ。
「なんであの人はあんな感じに笑ってたんだろ」
「きっと『過分なお褒めのお言葉』がツボだったんじゃないか? 間違ってるとはいえないけど、丁寧さがしつこい」
ふたたび仕切りは閉じられた。帳簿をつけはじめたカンナはたまに顔をあげている。――まあ、わかることはわかるし、わからないことはわからない。これはすべての前提に違いない。私はあの人の〈能力〉がどんなものかわかってないんだし、そういう意味じゃ、なにもわかってないんだから。だけど、どういうことなんだろう? あの人はやっぱり猫と話せて、いろいろ教えてもらってるのかしら? いやいや、そんなはずがない。それに、万が一そうだったとしてもすべて説明できるわけじゃないもの。
カーテンが開き、疲れた顔が出てきた。
「どうしたの?」
「ああ、いや、あの爺さんのことだけど、いい評判しか聞かないんだよ。調べれば調べるほど、あんなビラをつくる人間には思えなくなってくる」
「ふうん。そうなの」
カンナはそうとだけ言っておいた。その横を猫は駆けていく。まるで急ぎの用があるかのようにだ。
「目立ったトラブルもないんだ。それどころか、けっこう好かれてるようだ」
「だけど、犯人なのは確定してるんでしょ? そうでなきゃ、あんな雨の中、店を覗いたりしないはずだし」
「まあ、そうだな」
「教えてくれないから私は知らないけど、」
カンナは口を尖らせた。不満に思うものの、なんで教えてもらえないか心当たりはある。――ま、それだって腹立たしいけど。
「いい人そうにみえる、評判がいいってだけだったら、そいつが犯人じゃないことにならないわ。よくテレビで言ってるじゃない。『あんなことする人にはみえなかった』って。外面だけ良くして、裏じゃ悪どいことしてる人間なんてたくさんいるもの」
「ま、それもその通りだな」
彼は額に指をあてている。それを見つめながらカンナは考えた。――とりあえずはこの人に任せるしかないんだろう。調べてはいるみたいだし、いつになく真剣そうだもの。それに、これまでだって猫が頻繁にやって来ると、なんか知らないうちに問題が解決してた。だから、これも良い兆候に違いない。そう思うしかないんだ。
外面が良くたって本当はどうだかわからないというのはその通り――彼もそう思っていた。それは占い師稼業をしてる内にも実証できた。どこからどう見ても好人物といった人間の経験に驚かざるを得ないほどの悪事が含まれてることだってあるのだ。
ただ、それは別にして柏木伊久男が周囲にあたえてる印象は自分たちを不利にするはずだった。端から嫌われてる人間だったら、悪事を暴いたときの抵抗も少ない。しかし、人は自分の持った印象を簡単に変えられない。それも、知らない奴から聞いたことだけで変えたりしないものだ。
ほんと、絵に描いたような鼻つまみ者だったらよかったんだよ。ベッドに横たわり、彼は天井を睨みつけていた。どっちかっていうと俺の方がそうだもんな。怪しげな占い師なんかがいくら喚いても聴く耳を持つ者などいないだろう。つまり、犯人がわかったからといって出来ることなどないのだ。
かといって、なにもしないでいるのは難しかった。とりあえず、住んでるとこくらいは見ておいた方がいいかもな。そう考えた彼は外へ出た。
真夏の夜は蒸し暑く、蝉がまだ鳴いていた。蛭子家の板塀を沿うように歩いていくとペロ吉のアパートへ出る。彼は薄暗い階段をしばらく見つめた。――あの痣。やはり気になるな。ほんとうに大丈夫なんだろうか? いや、まずは柏木伊久男だ。
くるっと向きを変え、彼は足早に歩いた。カイヅカイブキの生け垣を折れ、ふたたび板塀沿いに進むと路地の前へたどり着く。そこは幅も狭く、行き当たる先はブロック塀だった。――ふむ、どん詰まりってわけか。
「先生かい?」
「ん、その声はオルフェか?」
「そうだよ。ちょっと待って。いま降りてくから」
雪のように真っ白な猫が走り寄ってくる。彼はしゃがんで手を伸ばした。
「オルフェだけか?」
「ううん、クロもいるよ。ほら、あの影に。――って、わからないだろうね。ここは街灯もなくって、あの辺は真っ暗だから」
「ああ、こんなだとは思ってなかった。アパートの明かりくらいしかないもんな」
彼は古ぼけた建物を見つめた。外廊下には剥き出しの蛍光灯が並んでいて、そこに蛾が集ってる。見てるだけで悲しくなるような絵面だ。
「いないみたいだな」
「うん、ちょっと前に出てったの。よく夜中に出入りするんだよ」
「なにしてんだろうな」
「さあ。バイクで行っちゃうでしょ、だからよくわからないの。ま、ここは私たちに任せて先生は帰りなよ。いつまた――」
そう言ったきり、オルフェは黙った。左右で色の異なった瞳はくるくる回ってる。
「どうした?」
「どうしよう、先生。戻って来ちゃったみたいだよ」
「は? 近そうか?」
「近いね。いま出たら鉢合わせになっちゃうかもしれない」
耳を澄ますと微かに音がする。彼は立ち竦んだ。ライトに照らされれば、ここにいるのはわかるだろう。どうする? いや、どうすりゃいい?
「先生! こっちに来な!」
また違う声がした。もちろんクロのものだ。
「早く! ジジイが来ちまうよ! こんなとこで顔合わせたらマズいだろ!」
どん詰まりまで行くと、壊れかけた箪笥が置いてあった。クロはその後ろにいるようだ。
「ほら、ここに入るんだ! ここならたぶん見っからないよ!」
たぶんなのかよ。そう思いはしたものの、どうしようもない。音は近づいてきてる。
「ほんとなにやってんだよ。こういうのは俺たちに任せときゃいいのに」
「まあ、そうだけどさ」
「しっ! 聞こえなくても気配でわかるかもしれないよ。黙ってるんだ」
息まで止めるようにして彼は身を縮めた。ライトはすぐ脇を照らしてる。どこに停めるんだろう? 近くまで来たらバレるかもしれない。そう思いつつ動くことはできない。
「大丈夫。いつもならけっこう手前で停まる」
クロの声がした。――いつもなら、ね。そのいつもがつづけばいいんだけど。
ただ、ほんとうにバイクは向こう端でエンジンを止めた。そっと顔を出すと、ヘルメットを外す姿が見える。白髪を綺麗に撫でつけた小柄な男で、身のこなし方には上品さも感じられた。しかし、その表情は「いい評判」とかけ離れて見えた。警戒、陰湿、傲慢。それらが混じりあっている。――だけど、これは俺の持った印象に過ぎないんじゃないか? フィルターがかかってるから、そう見えるだけなのかもしれない。
いや、違うな。あの目。妙に周囲を窺ってやがる。でも、なぜだ? そうするには理由があるはずだ。――ああ、あれは危害をあたえる存在を想定してる者の目つきだ。この男はやはり脅迫者なんだろう。だから、警戒するのが身に染みついてるんだ。
老人は重そうなケースを持って階段をあがっていった。彼はしばらく身を潜め、明かりがついてからやっと息を吐いた。
「ありがとう。助かったよ」
「礼なんていらないよ。だけど、ほんとビビったぜ。バレたらシャレにならなかったもんな」
一人と二匹はアパートを見上げた。ガラスの奥には動く影がある。
「先生、あんたは早く帰った方がいい。あの爺さんはこんな時間でも妙に出入りするんだ。カメラを持ってね。大きな荷物持ってるの見ただろ? あれにカメラが入ってるんだ」
「そうさ。なにかあったら、すぐ先生のとこに連絡が行くようになってるんだから」
「ああ、その方がよさそうだな」
鈍く光る窓をもう一度見て、彼は路地を出ていった。クロとオルフェは顔を見合わせてる。
「どうしちゃったんだ? こう、歩き方がいつもと違ってなかったか?」
「まあ、驚いたんでしょうよ。私だってすごく驚いちゃったもん」
確かに歩き方はいつもと違っていた。脚は開き気味だし、スピードも遅い。ただ、それにも理由はあった。ちょっとだけではあるものの漏らしてしまったのだ。




