第9章―3
「それで、けっきょくしゃべっちまったってのかい?」
キティは目を細めてる。その横でクロとゴンザレスは『ニャンミー マグロ味』を食べていた。
「ほんと、どうしようもないね。昨日言ったばかりじゃないか」
蓮實淳は項垂れていた。我ながら情けないと思ってるのだ。キティは憮然とした顔つきで尻尾を振っている。
「で、どこまで話したんだい? 名前や住んでるとこは言わなかったんだろうね」
「ああ、そこまではさすがにな。言ったらどうなるかわからないだろ?」
「だろうね。だから、アタシは言ったんだよ。――いや、これは繰り言だね。それで、小娘はどんなだったんだい?」
カンナは意外な反応をみせた。怒りまくるかと思ってたけど、それを向けるべき対象がはっきりしたからか幾分落ち着いてきた。それに、「大きな便」と聞き間違えたのが恥ずかしかったのだろう、ほんのちょっとだけ大人しくもなった。
ただ、当然のことにいろいろ訊いてきた。どこの誰なのか? 動機は? ほんとにジジイだったのか? あんなふうに書くのがわかるくらいイヤらしそうな奴なのか? 彼はこたえられることだけ話した。
「じゃ、荷台のついたバイクに乗ってるのは言ったんだね? ふんっ! そんなのしゃべっちまったら、どこの誰かすぐわかるじゃないか」
「そうかもしれないけど、それには理由があるんだよ」
「理由? なんだいそれは」
「昨日の晩、ほら、俺たちがその話をしてたとき、バイクが店先に停まってたらしいんだ。白い、荷台つきのだ。カンナはそれを見てたんだ」
「ふうん、そうだったのかい」
顎を引き、キティは目をつむった。口許は歪んでる。
「やっぱり、その爺さんだよな?」
「きっとそうだよ」
こたえたのはクロだ。彼は自分のぶんを食べ終え、ゴンザレスの皿を覗きこんでいる。
「これまでそんな話が出てないのに不思議なんだけど、この辺の連中に聴いてまわったら、よく先生の周りで見たって言うんだよ。俺だって何回か見たことがある。店の近くでね」
「気にしてないと見えないものってのはあるもんさ。逆に、いったん気になると、それがいやに目立つってこともある。アタシたちは見てても気にしなかっただけなのさ」
キティはテーブルに飛び乗り、正面から見すえてきた。
「ま、終わったことはもういいだろ。今日はね、これからどうするつもりか話そうと思って来たんだ。とりあえず爺さんには見張りをつける。バイクで遠くまで行かれちまったらどうにもできないが、動向を探ってみるよ」
「ああ、頼むよ。まずは相手を知ることからはじめないとな」
「そうだね。――で、大和田や泉川扇宗のとこにも誰か行かせる。あの爺さんと接触するかもしれないからね。それと、ゴンザレス?」
重たそうに立ち上がり、ゴンザレスはのそのそ近寄ってきた。
「あんたはこの人と一緒に西口公園へ行くんだ。そこのハチ兄ってボスに渡りをつけて鴫沼の店を見張ってもらうんだよ。家の方はこっちでなんとかなるが、そうした方がいいだろ」
「そうだな、助かるよ。ありがとう」
鼻を鳴らし、キティはしばらく黙った。それから、ひとつひとつの言葉を区切るように言った。
「段取りとしちゃ、それでいいだろ。その上であんたに訊きたいことがあるんだ。もし、ほんとうに大和田や鴫沼が脅迫されてたら、どうするつもりだい?」
「どうするってのは?」
「昨日言ってたろ? 『警察に言えば、大和田の家はまた大変なことになる』って。だけどね、その爺さんをどうにかしたいなら、その辺も考えなきゃいけないよ」
ソファにもたれかかり、彼は首をあげた。電球の光で目は眩んでる。
「いいかい? これは喧嘩なんだ。覚悟を決めなきゃならないよ。最後まで潰す勢いがなきゃ、喧嘩なんてできないんだ。中途半端に仕掛けたって負ける一方なんだからね」
上へと伸びる首を見つめながらキティはヒゲを垂らした。――ま、この人には無理だろうね。優しいといえばそうなのだけど、軟弱なんだ。喧嘩のやり方を知らないんだよ。
「まあ、よく考えるんだね。守り切れないものを守ろうとして自分が傷つくってこともある。そうなりたくないなら、よく考えるんだ」
「ああ、わかった。わかったよ、キティ」
「ふんっ! あまりよくわかってなさそうだけど、それはいいだろう。それと、もうひとつだけ言っとくよ。あの小娘はあんたが抑えるんだ。それこそ、あんたにしかできない仕事なんだからね。今度こそ失敗するんじゃないよ」
曖昧な表情をしていたものの、彼は深くうなずいた。
「そうだな。それは俺にしかできなさそうだ。今度こそ失敗しない。約束するよ」
猫たちを見送ると彼は顔を覆った。
「なんか面倒になってきたな」
遅い時間の参道は静かだった。自分の声だけが響き、弱まっていく。店の中を見まわしていると溜息が洩れた。古びたデスク、パテで穴を埋められた床板、天井だって木目が浮き上がるほど傷んでる。ほんと、深い霧の中を漂う難破船みたいだ。
風が吹きはじめたのだろう、葉の擦れる音が聞こえてきた。ゆっくり立ち上がり、彼は戸が締まってるか確認した。そうしながら飲み屋の頃を思い出している。こんなボロじゃなかったけど、毎日戸締まりしてから帰ったもんだ。午前二時、ロサ会館近くの事務所に売上金を運び、そこから二十分かけて帰ってた。
ひどく疲れる仕事だったし、馬鹿げたトラブルも多かった。なにしろ、みんな荒れてたもんな。だけど、そういうのを一つずつ潰していって、けっこういい店になりつつあった。もうほんの少し、何ヶ月かだけでもいいからつづけたかったな。そうできたら、ああはならなかったかもしれないし。
踏切の音が鈍く聞こえた。遠くからは緊急車両のサイレンもしている。あの場所はどうなってるんだろう? 人手に渡ると聴いてたけど、一度も見にいってない。――まあ、いい。そんなこと考えてる場合じゃないんだ。
重くなった脚を引きずりながら階段に向かい、彼はもう一度店の中を見渡した。
「ここを同じようにはできないな。今度こそ失敗しない。これは自分への約束だ」
そう言ってから鼻で笑い、彼は電灯を消した。




