第9章―2
翌る日は嘘のように晴れていた。陽射しも強く、蒸し暑い。マンションを出たカンナは湿気を切りながら歩いた。しかし、頭は重かった。いろいろ考えすぎて眠れなかったのだ。
コンビニで待っていた千春は言葉数も少なく、たまに腫れた目を向けてきた。――はいはい、もうわかったから。別に私は張り合おうってんじゃないの。その、なに? あの男がいつもだらしないから気になっちゃうだけ。それに、私たちはただの仕事上のパートナーだもの。ごく希にドキドキしたこともあったけど、あれは気の迷いってもの。そう、あんな馬鹿を好きになるなんて考えられない。あんな馬鹿を――
カンナはムカムカしてきた。まったく、ほんとあの馬鹿は。「今は最初に立ち返って調べ直してるとこなんだ」とか言ってたわよね? 「ちゃんと調べてる。これは俺たち二人の問題だ」って。そう、これは私たち二人の問題だったの! それなのに、あの馬鹿が探してたのは――
激しく頭を振り、カンナは颯爽と歩き直した。知らないおじさんに挨拶してみようかな。そうすれば元気になれそうな気がする。まずは私がおじさんに元気をあげるの。そうすると、それは返ってくる。そういうのって素敵なことよね。下らない悪意も、どうしようもない馬鹿男だって気にならなくなるってもんよ。
ただし、鍵がないからどうしようもない馬鹿男に入れてもらうしかないのも確かだった。踏切につかまってる間にカンナはスマホを取りだした。すぐ出ないのはわかってたけど、それにしたって出ない。
「ほんとムカつく」
忌々しそうに呟いたのが聞こえたのだろう、小学生が顔を向けてきた。あら、いけない。さっき考えたのと逆のことしてる。マイナスの感情はマイナスしか呼ばない。どんなときだって明るく元気にしてなきゃ。電車が通り過ぎ、参道が見えた。――そういえば、変なバイクが停まってたっけ。あれはなんだったんだろう? よく見えなかったけど、荷台がついてるバイクだったな。そう考えてるところに留守番電話のメッセージが流れた。
「ちっ! いったいなんなの?」
カンナは店の前でもう一度電話をかけた。そのまま顔をあげ、細長い窓を見つめてる。こうなるのはわかってたから早く出てきた。でも、開店準備はバタバタになるんだろう。とはいっても、午前の予約もキャンセルになったんだし。――はあ。溜息は嫌でも洩れてくる。それと同時に眠そうな声が聞こえてきた。
「ん? どうしたんだよ」
「どうしたじゃないでしょ! 何時だと思ってんの? 早く鍵開けて!」
「鍵開けて? 自分のがあるだろ?」
「忘れたの! だから、早く開けてよ!」
窓がひらき、浮腫みきった顔が出てきた。それを見つめてると枕の匂いが思い出された。――いや、違った。そうじゃない。こんな馬鹿男なんて気にしちゃいけないんだ。だって、こいつはウンコを探してたんだから。
「ほら、ぼうっとしてないの! 早く開けて!」
すべての準備が整うとカンナはPCを開けた。ただ、何度見ても午前の予約はキャンセルだし、その後の枠にも穴が見える。
ちょっと前まではこんなじゃなかった。儲かってきたからクーラー買おうかなんて考えてたんだもの。だけど、いまだにお祖母ちゃん家にあるような扇風機のまま。ほんと暑い。暑いってだけで苛々しちゃう。ちらと目を向けると、彼はまたもやバステト神像で遊んでる。スピーカーからはチャイコフスキーの『1812(合唱つき)』が流れはじめた。
「ね、ちょっと訊いていい?」
「ん?」
合唱の声は床を這うようだった。穏やかで、ゆったりしてる。しかし、それは徐々に強まっていった。
「ほんとにジジイを探してんの?」
「ああ、もちろんだよ。探してる」
彼は猫頭の像を戻した。これについては言っちゃいけないと意識してる。それがかえって疑念を強めるとも知らずにだ。合唱は盛り上がっていき、頂点に達すると金管の音が被さった。
「そう。だけど、この時間もそうだし、なんだか特に理由もなくキャンセルってのが多いの。あのビラのせいと思いたくないけど、影響はあると思わない?」
「ああ、そうかもな」
なによ、その薄い反応は。唇を尖らせ、カンナはPCを閉じた。――やっぱりこの馬鹿はジジイを探してなかったんだ。
「そんなの許せないわ。そうでしょ?」
「うん、許せないよな。だから、探してるんじゃないか」
弦は忙しなく音を刻み、トロンボーンが緊迫感をつけ足していった。ついで入ったスネアドラムは小銃を抱えた兵が動きまわってるような印象をあたえた。
「それって嘘でしょ」
「は? どういうことだ?」
「私、知ってるの。あなたは憎たらしいジジイを探してなんかいないって」
彼は覗きこもうとした。でも、背中は動かない。曲はいったん穏やかな相をみせた。流れるように弦が鳴り、木管が重なる。しかし、それは嵐の前の静けさなんだろう。そういった緊張が感じられた。
「知ってるって、なにを知ってんだ?」
「鍵を忘れたでしょ? だから、取りに戻ったのよ」
「ああ、そうだったのか」
ん? ってことは、キティたちと話してたのを聞かれたってことか? 彼は顎先をつかんだ。いや、そうであっても俺の声だけなはずだしな。
「そこで聴いたの。あなたが違うものを探してたって」
「違うもの? なんだよ、なに探してたっていうんだ?」
バスドラムとシンバルはドスンっ、バシャンっと鳴り響いてる。カンナはムカムカしてしょうがなかった。――私は知ってるんですからね。ちゃんとこの耳で聴いたの。あなたは「ウンコを見つけた」って叫んでた。
「しらばっくれないでよ! 聴いたんだから! そこで! あなたが叫んでるのを!」
カンナはガラス戸に指を向けた。スネアドラムは乱れてきた。と思ったら、空砲が五発轟いた。鐘まで鳴り出してる。
「だから、俺がなに叫んだっていうんだよ」
「あなたはこう言ってた! 『大きい便を見つけた』って! ほんと、なんでそんなの探してんのよ! 私たちが見つけなきゃならないのは憎たらしいジジイで、『大きい便』なんかじゃないでしょ!」
「大きいベン? なんだよそれ」
「なんだよって、大便のことでしょ! つまりはウンコ!」
合唱が消え去ると金管がけたたましく鳴り響いた。空砲も乱打気味だし、鐘もうるさい。彼は口を覆ってる。流れるのは『中央アジアの草原にて』になった。打って変わって静かな曲だ。
「ほら、なにも言えなくなっちゃってるじゃない! まったくなにやってんの? なんでそんなもん探してるのよ!」
口を覆ったまま彼は首を振った。それ以上言わないでくれと示したのだけど、痛いとこを突かれたからにもみえる。
「いい? 私たちのお店はいま大変なことになってるのよ! 早いとこそのジジイを見つけてなんとかしなきゃならないの! わかってるの?」
「ちょっと待てって。俺がほんとにウンコなんか探してたって思ってんのか?」
「だって、言ってたでしょ。『大きい便を見つけた』って」
首を引き、カンナは強く見つめた。彼の顔は固まってる。しかし、次の瞬間に大声で笑いだした。
「俺がウンコを? ウンコ探してたってのか? カンナ、そりゃ、いったい誰のウンコなんだ? それに、そんなの見つけてどうするってんだ? ――ああ、昨日はひどい雨だったもんな。かねて用意しといた専用の箱にしまっとくってわけか? でも、どうして?」
そこで、彼は目だけ向けてきた。手は脇腹を押さえてる。
「依頼を受けて探し当てた大切なウンコだから!」
イングリッシュホルンの音は哀愁を感じさせた。その中で笑い声は収まらない。身体も捩れていた。
「なにがそんなにおかしいのよ! だって、ほんとに聴いたのよ! あなたの声だった!」
「いや、カンナ、俺は『大きい方のベンが見てた』とか言ってたんじゃないか? 『大きい便が見つかった』じゃなく」
カンナは天井を見上げた。――ああ、そうだったかも。アレがなにか見るなんてあり得ないって思ったから、そうなったんだ。ん? じゃあ、『大きいベン』ってなに?
「すごいな、カンナ、君は素晴らしいよ。少々素晴らしすぎるくらいだ」
「なんなのよ、そんなに笑って。おかしくなっちゃったの?」
「俺の頭がおかしくなったってか? いや、おかしいのはそっちの耳だ。とんだ聞き違いだよ」
彼は表情を整えようとしてる。しかし、その試みは幾度も失敗した。
「じゃ、いったいなにを見つけたっていうの?」
「俺が見つけたものか? そりゃ、脅迫状を持ってきたジジイさ。ウンコのわけないだろ」
「え?」
カンナは顔を突き出してきた。それと同時に彼は顎を引いた。笑いすぎて流れた涙が頬を伝っていく。そのまま二人はしばらく見つめあった。




