第8章―5
二人は激しい雨の中を帰っていった。しばらく待つとか、タクシーを呼ぶこともできたはずだけど、千春はこう言い放った。
「だって、雷なんて怖くないんでしょ? だったら、歩いて帰りましょ」
停電はつづいていた。蓮實淳は暗い戸口に立ち、二つの傘を見送った。ま、こんなんじゃ開けててもしょうがないしな。そう思ってる内に明かりは灯った。――ほんと間の悪い。ぼんやり空を見上げてると、「ナア!」と声がする。雨に煙る中を走りくる影も見えた。
「ああ、キティ。それにオチョか。どうしたんだ? こんな雨ん中」
二匹は入ってくるなり身体を震わした。ヒゲは深刻なほどに垂れている。
「ちょっと待っててくれ。タオル持ってくるから」
二階へ上がりながら彼は考えた。――あの様子だとなにかわかったな。こりゃ、気を静めないとな。
「ほれ、キティ、お腹も拭かなきゃだぞ。オチョはもうちょっと待ってくれよ」
「いや、先生、俺は大丈夫だよ。こんなの馴れてる」
「なに言ってんだい。あんたもけっこうな年なんだから気をつけた方がいいよ。――いや、それにしたって濡れたもんだね。あんだけ走っただけなのに、もうビショビショさ」
濡れそぼった身体を拭き終えると蓮實淳は『ニャンミー マグロ味』を用意した。自分には濃いコーヒーをつくり、曲も替えた。『Marvelous Soul Hits』というアルバムだ。
「で、どこまでわかった?」
「けっこうわかったよ。ただ、順序だって話した方がいいだろ」
「ん、そうだな。そうしてくれ」
コーヒーを啜り、彼は深く息を吐いた。雨音は激しいままだ。
「こないだ言ったようにアタシたちはここに近づいた者がいないか、もう一度洗い直してみたんだ。まあ、かなり前のことだけど、あの日は今日と同じに雷が鳴ってた。憶えてるかい?」
「ああ、そうだったっけ?」
光が閃き、キティの顔は白く輝いた。スピーカーからはザ・コースターズの『Yakety Yak』が流れてる。
「そうだったのさ。だから、聴き出すのは難しくなかった。ただね、やっぱりこの辺の子たちは郵便屋くらいしか見てなかったんだ。だから、オチョに飼い猫たちにも訊いて回ってもらったんだ」
「そうなんだよ、先生。ま、顔のわかる奴らだけなんだけど、そういうのは外に出られっからな。で、ベンジャミン――って、あのこまっしゃくれた小さい方じゃなく、大きい方だ。先生も何回か会ったことあるだろ? わかるかい?」
「ああ、大きい方のベンだろ? わかるよ」
雷鳴が轟いた。雨はさらに強くなったようだ。
その中をカンナと千春は歩いていた。グジュグジュになった靴からは変な音がしてる。
「ねえ、ちょっと待ってよぉ」
「なんでよ。いつもはカンナちゃんの方が早足でしょ。それともほんとは雷が怖いの?」
「そうじゃないけどぉ」
ふんっ、まったく強情なんだから。二人は都電の踏切を渡った。黒い雲を裂くように稲光が閃き、一拍遅れで雷鳴が響いた。カンナはそのつど肩をすぼめ、瞳をあげている。傘に落ちたらどうしよう。ビリビリってなっちゃうかも。
「ね、タクシー拾おうよ。靴が濡れちゃって歩くたび気持ち悪いの。それか、地下鉄に乗らない? こっから帰るのなんて無理よ」
「だって、あれは副都心線よ。池袋まで行って、そっから有楽町線に乗り換えるっての? そんなの馬鹿げてる。それに、」
千春は自分の姿を見た。脚に雨が跳ね、背中もぐっしょり濡れている。
「こんな格好で電車に乗るなんて嫌。歩いて帰るの」
ふたたび歩き出したときも光が走った。カンナは首を引いている。――まあ、あんなの見たら怒りもするんでしょうけど、あれは事故みたいなものなんだから。ん? ってことは、やっぱりあの人のことが好きなのよね。
「千春ちゃん?」
「なによ」
「あの、さっきのことなんだけど、」
「さっきのって?」
「ほら、私とあの人が、――その、くっついてたこと」
突然立ちどまり、千春は睨みつけてきた。頬は微妙に歪んでる。カンナは瞼を瞬かせた。
「それがどうしたの?」
「その、あれは事故みたいなもので、――えっと、大っきい雷が鳴ったでしょ? それで、私、ほんとにびっくりしちゃって。それに、二階でどうのってのもまったくの嘘よ。私たちそんなことしてないの」
「だから?」
「だから、そんなに怒らないでよ。私、千春ちゃんにまで嫌われちゃったら、どうしたらいいかわからなくなっちゃうもん」
頬はさらに歪んでいった。と思ってる内に涙が出た。え? と思ったのは本人だった。なんで私は泣いてるの?
「千春ちゃん――」
稲光は走り、くぐもった音もつづいてる。ただ、すこし遠ざかったようだ。
「あの人のこと好きなんでしょ?」
「は? なんでよ。なんでそうなるの?」
「だって、さっきからずっと怒ってるし、こんな雨の中歩いて帰るっていうし」
カンナはじっと見つめてる。――そうか、泣くほど好きなんだ。背後で踏切が鳴った。カンカンカンと音がして、電車が入ってくる。千春は肩を落とした。
「あのね、カンナちゃん、あの人はほんとどうしようもない人なの。自信がないクセして偉ぶってて、いつも周りの人たちを怒らせちゃうし、ちょっと、――ううん、すっごく変態っぽいとこもあるし。その、なに? すこしばかりアレがしつこいのよ」
アレがしつこい? 瞳をあげながらカンナは考えた。――ああ、アレのこと。
「それだけじゃないわ。ずっとフラフラして、何度も仕事変えちゃ、すぐ嫌になって辞めるの。飲み屋のときは真面目にやってたみたいだけど、それだって潰れちゃったし、」
話しながら千春はうつむいていった。涙はまだ流れてる。それを払うように首を振ると、無理につくったのがわかる笑顔を向けてきた。
「ごめんなさい。なに言ってるのかわからなくなっちゃった。でも、あの人のこと考えると、いつだってこうなっちゃうの。ほんとどうしようもない人なんだけど、なんだろ? 気にかかっちゃうっていうか――」
カンナは覗きこむようにしてる。気にかかっちゃうってのは、つまり「好き」ってのを違う言い方にしたわけよね? ふうん、やっぱりそうなんだ。泣くぐらい好きで、でも素直になれないってことでしょ。ま、私だって気にはなるけど、――ん? ああ! そうだ!
傘は大きく揺れ、雨がザーっと落ちてきた。別の気になることを思い出したカンナは既に走り出している。
「どうしたの?」
「思い出した! 千春ちゃん、ちょっとそのコンビニで待ってて! 私、店の鍵置いてきちゃったんだ!」
走り去る影を見ながら千春は涙を拭った。まったく、なんなのよ。――だけど、あの二人って似てる。そういうとこが気に入らないのよね。




