第8章―4
それから幾日か後(七月半ばの土曜のことだ)、二人は洩れ出そうになる欠伸と戦っていた。午後の予約がこれといった理由もなくキャンセルになったのだ。かといって、黒い雲が集まってきたから探しに行かせるのもどうかと思ったのだろう、カンナは外を見ながら口を覆っていた。
「なんだか懐かしくもあるな、こういうの」
「え?」
「いや、前はずっとこうだった。外を眺めちゃ、誰か来ないかって思ってたもんだ」
「なにそんなの懐かしがってるのよ。――ね、ところでどうなってるの? なんかわかったことはないの?」
欠伸を噛み殺しながら彼は首を振った。
「今は最初に立ち返って調べ直してるとこなんだよ。脅迫状が挟まれたときのことを調べてるんだ。ま、じきにわかるさ。焦ってもしょうがない」
「でも、見てるぶんにはなにも進展してないように思えるんだけど。ほんとに調べてるんでしょうね」
「もちろんだよ。ちゃんと調べてる。これは俺たち二人の問題だ。絶対なんとかしてやる」
腕を組み、カンナは脚を伸ばした。まあ、前に比べると、この人も自信ありそうにしてるし、ほんとに待つしかないんだろう。そう考えると気が抜けてきた。――もう、さっきからずっと欠伸してる。涙まで出ちゃってるわ。
ガラス戸は軋んでる。くぐもった音も聞こえてきた。涙を拭うとカンナは両腕をつかむようにした。そのとき、ガラス戸に人影が映った。
しかし、入ってきたのは千春だった。白いスカートに赤いヒール靴、襟の大きくひらいたブラウスといった格好で眉をひそめてる。
「なによ、二人してそんな顔して。私が来たの迷惑だったりした?」
「いや、そうじゃない。でも、タイミングがね」
「タイミング? タイミングってなによ」
「お客さんかと思ったんだよ。予約がキャンセルになったから暇だったんだ」
「ああ、変なビラがあらわれたって言ってたものね。その影響ってこと?」
二人は顔を見合わせた。カンナは唇を尖らせている。
「ま、そんなふうにしてないで、これ食べましょうよ。《紀の善》の抹茶ババロアよ。デパートにポップアップが出てたから買ってきたの。カンナちゃん、これ好きでしょ?」
「えっ! ほんと? 嬉しい! それも好きだし、千春ちゃんも大好き!」
カンナは素早く立ち上がった。そのときには満面の笑みに差し替えてる。千春は首を振った。蓮實淳も同じようにしながら欠伸を洩らした。
向かい合って座ると彼はだらしなく脚を伸ばした。風が強くなったようだ。ガラス戸は軋みつづけ、欅の枝も揺れている。
「ほんと変な天気ね。日中あんなに晴れてたっていうのに」
「ああ。それでキャンセルになったんならいいんだけどな」
「で、そのビラってどんなの? ずっと気になってたんだけど、ここんところ忙しくて来られなかったのよ」
「それも見たいっていうのか?」
「もちろん。現物を見せてもらいたいわ」
彼は奥を見た。カンナはババロアを盛りつけてるところだ。
「なあ、あのビラを見たいって言ってるんだけど、見せてもいいか?」
そう言った瞬間に光が閃いた。つつっと走り寄ってきた顔は強張ってる。
「って、どうしたんだよ」
「え? ――ううん、なんでもない。で、なんだっけ?」
「あのビラを見たいんだってさ。見せてもいいか?」
「ああ、」
カンナはスプーンとプラスチック容器を持ったまま考えた。私がこの人と、その、なにかしてるっての読んだらどう思うんだろう? 怒り出したりするかな? でも、いいか。どういう反応するか見せてもらいましょ。
「別にいいんじゃない? 私はかまわないわよ」
奥へ戻り、カンナは盛りつけをつづけた。耳だけは研ぎ澄ましている。
「――ふうん。で、これって、あなたが解決したことなわけ? それを捻じ曲げて書いてるのね? ――え、これは、」
彼は腕を組み、口をかたく閉じている。千春は『レイプ未遂疑惑?!』の件を読んでるようだ。
「まさか、こういうことしたんじゃないでしょうね」
「あのな、カンナと同じこと言うなよ。俺がそんなことすると思うか?」
「しないとも限らないんじゃない?」
「はっ! そういうの失礼だぞ。いいか? それも泉川ってオッサンのしたことなんだよ。それをまた俺のことみたいに書いてるだけだ」
「ふうん、そうなの。――ま、いいけど。で、ここからは、」
カンナは綺麗に盛りつけた抹茶ババロアと緑茶を運んだ。目はうつむいた頭に向けられている。――さ、どういう反応するかしら?
「えっ、やだ」
素早くあげた顔には複雑な表情が浮かんでいた。半分ほどは憐憫にみえる。もう半分は疑念なんだろう。
「もちろんこれも嘘なんでしょ?」
「これっていうのは? 私が淫売か馬鹿ってとこ?」
とり澄ました顔でカンナは訊いた。千春の目は彼に向かってる。疑念は深まったようだ。
「まさか。そんなふうに思うわけないでしょ。その、あなたたちが二階でってとこよ」
「私たちが二階で、」
そこまで言ったとき、まるで光の塊を投げ込まれたかのように店全体が輝いた。つづいて起こった雷鳴は地面をも震わすほどだった。カンナは肩をすぼめた。自分では気づいてないけど、身体を彼へ寄せている。
「カンナちゃん、まだ雷が怖いの?」
「え? そんなことないわよ。ちょっと驚いただけ。――で、なんだっけ? ああ、私たちが二階で乳繰り合ってるって話よね」
「まあ、そうだけど。それも嘘ってことよね?」
居住まいを正し、カンナは正面を見すえた。ガラスの向こうはときおり光ってる。
「もし嘘じゃなかったら、どうするの?」
「はあ? どうするって、別にどうもしないけど、――その、なに? びっくりはするし、」
「びっくりするだけ?」
千春も姿勢を正し、睨むように見た。顎は硬くなっている。
「なにが言いたいの?」
「別に。でも、千春ちゃんはこの人と別れたんだから、誰と乳繰り合ってたって関係無いわけでしょ」
「そうだけど、」
そう言ったきり、千春はしばらく黙った。なによ、これじゃこの馬鹿男を取り合ってるみたいじゃない。雨音は激しく、雷鳴も長く響いた。――でも、どう言えばいいんだろ? ああ、この手があったか。
「だけど、私はいわばカンナちゃんの保護者みたいなものじゃない。こんな男と、その、そういうことになったら、叔父さんたちに申し訳ないわ。そうでしょ?」
カンナは唇を尖らせてる。自分でもどうしてこんなに意固地になってるかわからない。でも、こういうとこが気に入らないのよね。保護者? 申し訳ない? はっ! ほんとは嫉妬してるくせして。――とはいえ、この辺でやめとこう。帰ってからも気まずいのは嫌だしね。
スプーンを止め、カンナは首を曲げた。彼の顔は目の前にある。え? なんでこんな近くにいるの? ああ、さっき大きなのが鳴ったとき、くっついちゃったんだ。
「千春ちゃん、」
「なに?」
「この話はもうやめましょ。だって、私たちは、」
そのとき最も激しい光がすべてを照らした。そして、明かりがふっと消えた。「きゃっ!」と言ったのは千春だった。耳を覆い、身体を「く」の字に曲げている。
「今のすごかったわね。びっくりしたわ」
乱れた髪を直しながら千春は外を窺った。雨ですべてが灰色になっている。
「どこかに落ちたんでしょうね。それも、けっこう近くに」
そう言ったものの誰もこたえない。眉をひそめて振り返ると、カンナは彼に抱きついている。目はニヤけた顔へ向かった。
「ちょっと! なんで嬉しそうにしてんのよ!」




