第8章―3
猫からの報告は逐次もたらされる。とはいえ、探す相手がわからないのだから漠然としたものでしかなかった。
「先生んとこをずっと見てるジジイはいないな。っていうか、ババアだっていないよ」
「向かいに小っちゃなマンションみたいのが建ってるでしょ? その三階にも年寄りがいるんだけど、たまにお店を見てるみたいだよ」
「カンナちゃんを見てる人がいたの。じーっと見てた。でも、まだ四十代だと思う」
報告を聴きながら蓮實淳は唸った。うーん、「この店をよく見てるジジイはいないか?」ってだけじゃ、こうなるのも仕方ないか。それに、ジジイだってのも確かじゃないんだしな。
大和田義雄や蛭子家の者たちにも張りついてもらっていた。ビラの内容や脅迫状の『あくりょう』という署名から考えると、なんらかの関連があるようにも思えたのだ。ただ、その報告も以下のようなものだった。
「大和田の旦那はとくに変わった様子もなく仕事に行ってる。帰るときもそのまま真っ直ぐだ」
「ぼうっとしたおばはんは《オークラ》にえらく長居してたな。ずっと外で待ってたんだけど、なかなか出てこねえんだわ。まったく、なに買ったんだかな」
「あそこのお婆ちゃんはよく裏のアパートに行ってるよ。二階の真ん中に住んでるお爺ちゃんと仲がいいみたいだね」
ペロ吉はこう言ってきた。
「蛭子のおじさんはね、法明寺でバナナ食べてたよ」
「また外でバナナ食ってたのか? 前にもそう聴いた気がするな」
「うん、二本つづけて食べて、皮をその辺に捨てたの。――ね、ベン?」
「そう。僕たちあの辺を歩いてたんだ。そしたら、ペロが木の陰にいるおじさんを見つけたの。どうして隠れてバナナ食べてるんだろ?」
そのときは他にキティとクロがいた。蓮實淳はソファに埋まり、首を振った。
「ま、あの男がなに考えてるかなんてわかりっこないな。それに、『あくりょう』でないのも確かだろう。ところで、クロ、泉川のオッサンはどうしてる?」
「ん、相変わらずだね。ありゃ、オチョと同じお病気なんだろうよ。とにかく女出入りが激しいんだ。ほんと、どうしようもねえよ」
「若い女を襲おうとしたってのはいつ頃の話なんだ?」
「たぶん、だいぶ前のことじゃないかな。あそこには助手っぽいおばはんが二人いてさ、よく裏で話してんだよ。それによると二、三年くらい前のことっぽく思えるな」
「ふうん、そうなのか」
腕を組み、彼は天井を見上げた。やはりあのビラに書かれてたのは泉川扇宗のことなんだろう。でも、なぜだ? どうしてそれを俺のことに仕立て上げた?
「だけどさ、先生」
「ん?」
クロは後肢をひらき、首を下げている。緑色の瞳は細まっていた。
「あのオッサンは今回のことと関係無いように思えるよ。それこそ女出入りが大変で他のことに手を出す暇はなさそうだからな」
「ふむ、そうかもな。まあ、ビラに書かれてたんだ、つくった人間でないのは確かなんだろう。だけど、なんだかいろいろ考えすぎてわけがわからなくなってきたよ。『あくりょう』がジジイだってのも想像でしかないんだし」
「はっ! 今さらなに言ってんだい。いいかい? アタシも『あくりょう』ってのは爺さんだと思ってるんだ。理由はあんたの言った通りだよ。だから、怪しげな爺さんを探してもらってる。これはね、アタシの考えでもあるんだよ」
キティは尖った歯をみせている。彼は額を覆い、しばらく目をつむった。
「じゃ、このままその方向で動いてもらった方がいいのかな?」
「ま、今はそうするしかないだろう。他になにか出てこない限りはね。それで思ったんだけど、脅迫状がきた日のことをもう一度調べた方がいいかもね。店を開けるまでに近づいた奴がいるはずなんだ。それも、戸の隙間に差し込んだんだから、すっと寄って、すっと離れたんじゃないわけだろ?」
「ああ、そこからやり直した方がいいかもな」
「そうさ。どんなことだって詰まったら初めに立ち返るんだよ。そうすりゃ、見落としてたことに気づく場合もある。――そうだね、飼い猫たちにも訊いておいた方がいいだろう。範囲を広げて、もう一度やり直すんだ」
話が決まるとキティはクロをともない出ていった。ベンジャミンとペロ吉はまだ食べている。その姿を見ていると気になっていたことをもうひとつ思い出した。
「そうだ、ペロ吉、ちょっと訊きたいことがあったんだ」
「ん? なに?」
「いや、ほら、この前、悠太くんと会っただろ? そんとき気になったんだけどさ、もしかして、あの子は親から叩かれたりしてないか?」
ペロ吉は顔をあげた。ベンジャミンは口のまわりを舐めている。
「うーん、叩かれることもあるけど、」
「あるけど?」
「でも、怒られるようなことしたら、そうなるものでしょ?」
「まあ、そうだな。だけど、その、なんだ、ひどく叩かれたりはしてないか?」
原付バイクが通り抜けていった。後ろに荷台のついてるバイクだ。それが過ぎ去るのを見て、ペロ吉はまた顔をあげた。
「うん。そんなに強くは叩かれないよ。パパもママもお家にいないことが多いけど、怖い人じゃないもん」
そう言って、ペロ吉は走り去った。ベンジャミンもあとについていく。
「うん、そうか」
蓮實淳はうなずきながら戸を閉じた。
「それについちゃ、ひとまず安心ってことだな」




