第8章―2
追い出された彼はしばらくあてもなく歩いた。――まったく、探してこいって言われてもどうすりゃいいんだ? それに、もし万が一にも見つかったら連れて帰るのか? 「おい、見つけたぞ。このジジイだった」とか言って? はっ! 馬鹿げてる。その上、ギッタギタのボッロボロにするってんだろ。そしたら俺も共同正犯になるのかな? 『占い師とその助手による謎の老人暴行事件』とかで報道されるってわけか。
妄想にとりつかれた脚は法明寺へ向かった。道の先には石塀が見える。しかし、その手前で音のない声に呼び止められた。
「蓮實先生!」
「ん?」
アパートの前にはランドセルを背負った子供が座っていた。その横にはペロ吉がいる。時計を見ると、二時十六分。
「どうしたんだ?」
顎を引きつつ、子供は階段の上を見た。ふっくらした頬は赤味を帯びている。
「いや、大丈夫だ。怪しい者じゃない」
とは言ったものの職業まで名乗る気にはなれなかった。占い師って怪しげだもんな――そう思ったのだ。子供は明らかに怯えた様子をしてる。
「ええと、なんだ、その猫はペロ吉っていうんだろ? 俺はその子の知りあいっていうか、まあ、そういう感じの者なんだよ。な、ペロ吉?」
「ニャア」
ゆっくり近づき、彼はハチワレの額を撫でた。そうしながら「いったいどうしたんだ? なにがあった?」と訊いている。こたえはこうだった――「あのね、お家に入れなくて困ってるの」
「もしかして、家に入れないのか? でも、学校は? まだ授業中のはずだろ?」
「あの、僕、お腹痛くなっちゃって。それで早退きしたんだけど、お家に帰ったら鍵がなくて、」
「はあ、そうか、そりゃ困ったな。だけど、鍵はいつも持ち歩いてるんじゃないのか?」
「ううん、なくしちゃうといけないからって秘密の場所に隠してるの。それがなくって、」
「ああ、そういうことか」
彼は鼻に指をあてた。ただ、すぐ思いついた。――そうだった。このアパートは蛭子の持ち物なんだよな。
「悠太くん、――って、君は悠太くんでいいんだよな?」
「え、うん。そうだけど、なんで知ってるの?」
「さっき言ったろ? 俺はこの猫の知りあいだって。だから、君のことも知ってるんだ」
瞼を瞬かせながら子供はうなずいた。ペロ吉は「ナア」と鳴いている。
「ちょっとだけ待っててくれ。お腹は大丈夫か?」
「うん、今は平気」
「じゃ、そのままここにいるんだ。俺が鍵を借りてきてやるよ」
背の高い板塀を回り、彼は門を眺めた。そうしてると、あのことが浮かんでくる。――悪霊か。やはりこの家と脅迫状には関わりがあるのだろうか? しかし、どんな関わりだ?
「あら、蓮實先生。お久しぶりでしたね」
ゆかりが顔を出した。顎の長さは相変わらずだけど、表情は明るくなったようだ。
「どうかされました?」
「いえ、ちょっとお願いがありまして、」
話しつつ彼は首を巡らせている。ヒントがないか探してるのだ。
「まあ、大変。でも、鍵があるはずです。――お義母さん! お義母さん! 大変なんです!」
離れへ走る背中を見ながら彼は鼻に指をあてた。目は奥のアパートへ向かっていく。――あの光。開け放たれていたものの誰も出てこなかった窓。やっぱり気になるな。
「ゆかりさん、とりあえず悠太くんを連れてきて。――ああ、それに正露丸あったでしょ? 私は白湯とお布団を用意しとくから、」
嘉江は会釈してきた。彼も同じようにして、門へ向かった。
「だったら私が連れてきますよ。ゆかりさんは正露丸を探しといて下さい」
子供は同じ場所に座っていた。さっきよりは落ち着いた様子をしてる。彼は小さな手を引いて歩いた。だいぶ前にもこういうことをしたもんだ――そんなふうに考えながらだ。
「蛭子のお婆ちゃんがな、薬と布団を用意してくれるってさ。よかったな」
「うん。でも、ペロ吉も一緒で大丈夫かな?」
「ああ、どうだろう。ま、俺が頼んでやるよ」
門の前にはゆかりが立っている。もう少しで着くというときに子供は立ちどまった。
「ね、おじさんも猫としゃべれるんでしょ?」
「は?」
「僕ね、待ってるあいだにペロ吉から聴いたの。おじさんとは友達なんだって言ってた」
「ああ、そうか」
蓮實淳はしゃがみ込み、肩を両側からつかんだ。そのとき、ん? と思った。Tシャツからはみ出るように青黒い痣がある。
「あらあら、悠太ちゃん、大丈夫だった?」
嘉江の声が聞こえた。歩き出した子供を見つめ、彼は額に指を添えた。目は自然と細まっていく。――ふむ、気になることがもうひとつ増えたってわけだ。




