第8章―1
【 8 】
蓮實淳は一人でじっくり考えた。
デスクには脅迫状とビラが置いてある。仕切りのカーテンは閉じられ、むちゃくちゃ暑かった。しかし、鼻に指をあて、目を見ひらきつづけた。
そもそも何故ビラなんだ? どうしてそんな面倒なことを? まあ、あそこの学生がよく来てるのを知ってやったんだろうけど、それにしては面倒かつ古い手を使ったものだ。それに、大和田のことを詳しく知ってるのも気になる。――ん? ちょっと待てよ。
瞳だけが動き、それはビラの一部分に向けられた。
『不倫相手というのは蓮實淳の知った者であり、夫はその女に唆されていたのだ』
ふむ。こうも考えられる。この作者は大和田義雄の知りあいなのだ。だから、払った金額まで知っていた。それに、この書き方からすると直接本人から聴いたようにも思える。不倫相手が俺の知った人間というのは一応事実なんだからな。
鼻先を叩きつつ、彼は黒い布を見つめた。
もし、大和田義雄が「自分は悪くない。唆されたんだ」と言い立てたら、こう書いてあるのもうなずける。それか、本人がつくったとも考えられるな。逆恨みにせよ、動機は充分にあるのだし、あの男は几帳面そうに見えた。いや、かといってすべてが合致するわけじゃない。とくにカンナについて書かれた部分はあの男の雰囲気にそぐわない。
唇は歪んだ。馬鹿げて思えたのだ。雰囲気にそぐわない? そんなのは印象に過ぎない。それに、すべて臆測なのだ。――ま、そういう意味じゃ、占いにだって臆測は含まれてるけどな。事実らしきものが見えたとしても、それらを繋げるときに俺は類推してる。点と点とを結んでるのはただの想像だ。
「コンコン」と声が聞こえた。ノックのつもりなのだろう、布も揺れている。
「どう? なんかわかった?」
指を垂らし、彼は首を振った。その間も布は揺れている。まるで猫が入って来ようとしてるみたいにだ。
「ねえ、見えたりしたことはあったの?」
「何度も言ってるけど、俺は物からなにか見ることなんて出来ない」
「じゃ、なにしてんのよ」
「考えてるんだよ。なんとかしろって言ったのはそっちだろ」
「で、なんとかなりそうなの?」
「いや、今のところ五里霧中って感じだな」
揺れは収まった。ただ、直後に引き千切られるようにひらかれた。
「だったら、考えてないで探しに行きなさいよ! いやらしいジジイを探し出すの!」
「どこを? それに、どうやって探すっていうんだ?」
「そんなの知らないわよ! 馬鹿じゃないけど利口でもない、ずっと未婚のジジイを探しまわればいいでしょ! 金に執着があるってなら、札束持って歩きまわりなさい! いい? この時間が突然キャンセルになったのだって、あのビラのせいかもしれないのよ! ほら、ぼうっとしてないでとにかく探すの!」
カンナは既に無償の愛を捨て去っていた。優しく見守るなんてもってのほか。この男はこうやって尻を叩かなきゃ駄目なの――そのように再度考えを改めたわけだ。
「このクソ暑い中をか? そんなことしたら熱中症になっちゃうよ」
「なりなさいよ。熱中症になるくらい探すの!」
彼は目を細めてる。その視線をたどり、カンナは胸を隠すようにした。
「なによ。またそんな目で見て」
「いや、違うって。そのTシャツ着てるんだなって思ってさ。ま、俺は好きだけどな。いかにも君らしくて好きだ」
カンナは視線をおろした。『Bitch!!』という文字が大きく映りこんでくる。
「そうよ! 私もこれ好きなの! だから着てるの! 『Bitch』の意味だって知ってるし、その上であえて着てるの!」
胸をバンバンと叩き、カンナは顎を突き出させた。
「いい? これ着なくなったら、あの下らない、馬鹿げた、いやらしいビラに負けたことになるでしょ! そんなの嫌なの! 私は負けないんだから!」
そう、私は負けない。こんな悪意になんて負けるわけもない。いやらしいジジイを見つけ出し、泣くほど後悔させてやるんだ。噴き出た汗は頬に伝っていく。それを拭うと、カンナは外へ指を向けた。
「ほら、行って! 夕方まで時間ができたんだから、とにかく探すの!」




