第7章―4
不安なのは一緒だったけど、カンナは考えを改めることにした。変な手紙が投げ込まれたからってなんだっていうの? 意地の悪い人間がいるってわかっただけじゃない。すくなくとも私はそんなの気にしない。いや、気にはなるけど、下らない悪意なんかに負けない。
どうしてそう思うようになったかは考えもしなかった。ただ、いつから変化したかは明らかだった。千春がやって来て、彼の甘えん坊ぶりを見せつけられてからだ。――まあ、ああなりたいわけじゃないけど(というか、ああはなりたくないけど)、もうちょっとは頼られてもいいはず。だって、私こそ本物のパートナーなんだもの。姉のように、あるいは母親のように、ま、神様とかでもいいけど、とにかく、私がこの人を包みこんであげる。
「なあ、ちょっといいか?」
しとしとと雨の降る夕方に彼はそう言ってきた。
「なあに?」
「ここんとこずっと同じ表情でいるけど、いったいなんのつもりなんだ?」
「えっ、別にどういうつもりもないわよ。接客業としてはごく普通でしょ?」
「ま、そうだろうけどさ、お客さんがいないときも同じ顔してるだろ。それが、こう、」
「それがこう、なに?」
「いや、ちょっと言いづらいんだけどさ、」
カンナはつくりこんだ笑顔を向けている。ホスピタリティ――そう思いながらだ。
「大丈夫よ。私、なに言われても怒ったりしないから」
「ほんとか?」
「ほんとよ。ほら、言ってごらんなさい。なんなの?」
彼は後頭部を掻いた。「言ってごらんなさい」ってなんだよ、気持ち悪いな。そう考えてる。だけど、ずっとそんな顔されてるのも嫌なんだよな。
「あのさ、」
「うん。なあに?」
口をひらきかけたものの、彼はガラス戸の先を見透かすようにした。
「どうしたの? なにかあるなら言ってよ」
「ん、もう梅雨なんだろうな。ここんとこ降りっぱなしだ。湿気もキツくて息苦しいくらいだ」
「そうね。――で?」
カンナは手を前で組んでいる。教科書通りの待機姿勢だ。
「明日も雨らしいな。ずっとってのは鬱陶しいもんだ」
「そうよね。でも、それが私とどう繋がるの?」
「ん、その、なんだ、その顔もすこしばかり鬱陶しいんだけど」
は? カンナはムカッとした。しかし、一度目をつむり、無償の愛スマイルを整えた。
「ごめんなさい。気をつけるわね」
おおよそ二週間カンナはそういう態度を押し通した。蓮實淳はうんざりしながらも仕事をこなし、猫の収集した同業者情報をまとめ上げていった。
サマンサ山田に張りついてるゴンザレスはこう言ってきた。
「ま、そこそこお客さんも来てるようだし、とくに怪しい素振りはないよ」
オルフェからもたらされる島村ヨハンナ情報も似たようなもので、星野キラリに関しては少し前から家を空けるようになったらしく、クロは毎日出向いてるものの収穫はなかった。オチョは泉川扇宗の仕事場から何故か離れず、報告も途切れてしまった。つまるところ、はかばかしい進捗はないというわけだ。
店の方は相変わらず盛況で、『廃業しろ』なんて言われてもできるわけがなかった。二人は忙殺され、しだいに『謎の脅迫状事件』の衝撃も薄まっていった。あれは突発的で一過性のものだったんだ――そう思うようになっていたのだ。しかし、大きな見誤りだったと気づかされる日がやって来た。
その日は朝から晴れていた。そのぶん気温は上がり、蒸し暑くもあった。ガラス戸を大きくあけ、カンナは扇風機を眺めた。まるでお祖母ちゃん家にあるような扇風機。こんなの、いったいどこから拾ってきたのよ。ま、お店の雰囲気には合ってるけど、真夏になったら耐えられないでしょうね。仕切りの中なんてサウナみたいになっちゃうだろうから。――うん、順調に売り上げも立ってるし、クーラー買った方がいいかも。そう考えながらカンナは外へ顔を向けた。スピーカーからはラヴェルの『ソナチネ』が流れている。
っていうか、遅くない? キャットフード買うのにどこまで行ったのよ。時計を見ると十二時四十三分。お客さんが来ちゃうじゃない。ほんと腹立つ。いやいや、こういうのはやめようと思ったんだ。姉のように、あるいは母親のようにしてなきゃ。――ん? カンナは耳をそばだてた。ドタドタと駆ける足音が聞こえる。え? こっちに向かってる? なに?
店の前へ出ると、三人の女の子が息を切らせて走ってきた。みんな見知った顔だけど様子が違う。
「ね、カンナちゃん! こんなのが大学のまわりにずらっと貼ってあったんだけど!」
一人が紙を突き出してきた。三人ともに青ざめた顔をしてる。でも、どこかに苦笑を混じらせてるようにもみえた。カンナはさっと目を通した。その瞬間に目眩がし、最後まで読むと怒りに覆われた。
「まだたくさん貼ってあるの。でも、大丈夫よ。この子の彼が剥がしまくってるから」
途中から声は遠く聞こえた。目は紙へ向けられたままだ。
「酷いよね、こんなの」
「ね、ここに書いてあるのって全部嘘なんでしょ?」
カンナは「あったりまえでしょう!」と叫ぼうとした。しかし、そうできなかった。その場に倒れこんでしまったのだ。
ふたたび、ん? と思ったときには二階のベッドにいた。――そうか、私、倒れちゃったんだ。怒りのあまりに? それともなんらかの病気? 首を曲げると、ぼやけた視界になにかが入りこんできた。茶トラの猫のようだ。
「キティ?」
「ニャア」
カンナは目を細めた。なんとなく優しげに聞こえたのだ。それに知ってる響きでもあった。ああ、ほんとにほんとの昔、母親から聞いたのと似てるんだ。ってことは、猫師匠のはずがない。私に向かってこんなふうに鳴くなんてありえないもの。
身体は怠く、頭の奥もズキズキと疼いた。枕は薄く香ってる。――そういえば、同じ匂いがするとか言ってたな。だけど、ほんとはまったく違ってる。こうやって、私の匂いもシーツにうつって、それをあの人が嗅ぐんだ。やだ、なに考えてるの? とにかく起きなきゃ。お店が心配だもの。そう考えながらもカンナは眠りに落ちていった。
――あれ?
次に目を覚ますと日は暮れかかっていた。今度はガバッと起き、周囲を見渡した。椅子の上には猫師匠がいる。
「キティ?」
「ナア!」
そう、これよ。こうでなくっちゃね。ん? ということはさっき見たのも猫師匠だったってこと? 足許には紙が置いてある。カンナは眉をひそめた。さっきのかな? あんなの見たら、また倒れちゃうかも。しかし、そこには見馴れた筆跡でこう書かれてあった。
『とにかく寝てろ。君は疲れてるんだよ』
二度ほど読んで、カンナは口許をゆるめた。肩の力も抜けていく。
「これ見てよ」
見せびらかしながら笑い、カンナはもう一度読み直した。キティが不機嫌そうなのも心地よかった。勝ったと思ったのだ。なにに関してかわからないものの、とにかく私は勝ったんだ。
時計を見ると六時三十八分。そろそろ予約客が来る時間だ。ベッドを降り、カンナは洗面台に向かった。うわっ、頭ボッサボサ。顔も浮腫んでるし、化粧は台無し。だけど、バッグは下だしな。どうしよう? ――と、階段をのぼる足音が聞こえてきた。カンナは素早く戻り、タオルケットを鼻の辺りまであげた。
「入るぞ」
心なしか心配そうな声がする。ちょっと迷ったものの、カンナは病みつかれた顔を装うことにした。
「あれ? 起きたんじゃなかったのか?」
「え? どうして?」
さっと見まわしても猫師匠の姿はない。教えにいったってこと? ――まさかね。
「ん、そうじゃないかなって思っただけだ。で、気分はどうだ? 医者に行くか?」
「大丈夫よ。そんなんじゃないから。ちょっと寝不足だったのと、」
そこまで言うと、カンナは跳ね上がるように起きた。――ああ、駄目。顔は隠すの。
「あれ、見た?」
「見たよ」
「とんっでもないわ! もちろん全部剥がしたんでしょうね!」
「ああ、俺が行ったときにはもうなかった。全部で三十枚あったよ。あの子たちは心配してた。さっきも来てたんだけど帰ってもらったよ。明日また来るってさ」
顔を隠したままカンナは顎を突き出させた。
「あれ、脅迫状寄越したのと同じ奴の仕業よね」
「たぶんそうだろう。ま、もし違ってたら、俺たちを恨んでるのがもう一人増えるってことになるからな」
「私たちを恨む? どうして恨まれなきゃならないのよ! 私たちは人に恨まれるようなことしてないじゃない! そうでしょ!」
「まあ、逆恨みってやつだろ。でも、こうなるのは予見できた。俺たちは人の秘密に立ち入り過ぎたんだよ」
「そうかもしれないけど、やり方がいやらしいわ。ねえ、このままにするつもりじゃないでしょうね」
「どうすりゃいいってんだ? ――いや、これは後で考えよう。君は疲れてるんだよ。そういうときにいろいろ考えてもしょうがない」
そう言って彼は出ていった。と思ったら、顔だけ出してきた。
「バッグ持ってきてやるよ。化粧直したいんだろ? ま、そんなのが気になるなら冷静ってことだ。いいか? カンナ、ゆっくり休んで、もっと冷静になるんだ。怒りにとらわれすぎると、つまらないことばかり考えるものだからな」




