失踪する猫

第１章―４

　最悪の出会いから十日後にカンナは思い切って太い欅《けやき》が見えるところまでやって来た。千春のマンションは護《ご》国《こく》寺《じ》の近くにあるので、三十分もすれば鬼《き》子《し》母《も》神《じん》まで着く。不忍《しのばず》通りを歩き、目白通りを抜け、都《と》電《でん》がゆっくり走る踏切を越えると道は二《ふた》叉《また》にわかれてる。どうしてこうなったかは自分でもよくわかってない。近くまで寄ってみて、まだムカつくようだったら帰ろうと考えてると、道の一方から蓮實淳があらわれた。鯛《たい》焼《や》きを持ち、片方の手にはビニール袋をぶら下げている。

「ん？ 水虫女か」

　そう声をかけられたときは走って逃げるか、駆《か》け寄って飛《と》び蹴《げ》りをくらわすかの二択に迷った。ただ、もじゃもじゃした髪の隙《すき》間《ま》から見つめられると、怒りが針を刺《さ》された風船のようにプシューっと抜けていくのを感じた。彼の足許にはこの前とは違う猫がちょこちょことついてまわってる。

　こんな馬鹿と喧《けん》嘩《か》したってしょうがない。カンナはそう思い、また、短気を起こすのはコイツが言い当てたことの裏打ちになるとも思った。うん、まずは挨《あい》拶《さつ》から。何事もそこからはじまるのだ。挨拶を交わすだけで、けっこういろんなことが解決する場(・)合(・)も(・)あ(・)る(・)。

「こんにちは」

「あ？ ああ、こんにちは」

　そう言いはしたものの彼はずっと口を動かしてる。鯛焼きを食べながらこたえたわけだ。カンナは奥歯を噛《か》みしめ、なけなしの笑顔をつくった。ここは堪《こら》えどころだ。感情を抑《おさ》えるのだ。

「っていうか、ずっと見てるけど、これはあげないぞ。食いたいならそこで売ってるから買ってこいよ。二百円くらいなら持ってるだろ？」

　膝《ひざ》の後ろになにかを当てられたかのように身体は揺《ゆ》れた。怒りによって目《め》眩《まい》がしたのだ。体勢を整え、やっぱり今日は帰ろうと思ってると猫が「ニャア」と鳴いた。

「ん？ なんだ、ペロ吉、もう疲れちゃったのか？」

「ニャ」

　カンナを見上げ、猫はまた短く鳴いた。ハチワレの小《こ》柄《がら》な猫で、薄汚れたピンクの首輪をつけている。

「悪いんだけど、コイツを連れてきてくれないか？ 手がふさがってて俺にはできない」

　彼はそう言った。ふざけてるのかと思ったけど、ごく普通の顔つきだ。カンナは猫を抱き寄せながら、「この子の言ってることがわかるの？」と訊いた。でも、こたえはない。――なんなの？ あいつは。猫は前《まえ》肢《あし》を突《つ》き出し、身体を捩《ねじ》らせている。

「ニャ、ニャ」

「わかったから」

　そう言って、カンナもあとにつづいた。

　その頃の店には『蓮實淳の占いの館《やかた》』と書かれた大きな板が立てかけられていた。それを見てると自然に溜息が洩《も》れた。そして、中へ入った途《と》端《たん》に力が抜けていった。

　時代物の応《おう》接《せつ》セット、ばかでかい木製のデスク。それらはいいとして、化学繊(せん)維《い》と一目でわかる紫色の布が垂《た》れ下がってるのや、百円ショップで売ってそうな蛍《けい》光《こう》塗《と》料《りょう》を星の形に固めたものが光ってるのには気持ち悪さまで感じられた。おまけにピカピカした金色の鎖《くさり》も吊《つる》されてる。まるで、ど田舎《いなか》の、還《かん》暦《れき》過ぎたお婆《ばあ》ちゃんが厚《あつ》化《げ》粧《しょう》でカウンターに寄りかかってる、うら寂《さび》れて、潰《つぶ》れかかったスナックみたい。あるいは、それよりも悪い。センスの欠片《かけら》の、その端《はし》っこすらない。その上、喧しい曲が大音量でかかり、ガラス戸を揺らしていた。

「ちょっとうるさ過ぎない？ こんなんじゃ苦情がくるわよ」

「そうか？ うん、まあ、そうかもな」

　猫用のごはん皿を持ってくると、彼はボリュームを下げた。

「それに、なんなのよ、この古ぼけた曲は」

「ん？ ああ、こりゃ、ジミー・スミスの『Ｔｈｅ Ｃａｔ』だな」

　彼は鼻歌まじりに缶詰の中身をあけている。猫は床へと降りた。

「ねえ、テーブルに置いてあげたら？ ここの床、埃《ほこり》だらけじゃない」

　カンナは内《ない》装《そう》の悪さ同様に、いや、それ以上に掃《そう》除《じ》の行き届かない様に呆《あき》れていた。この人、ほんとに飲み屋の店長なんてやってたの？ クレンリネスって言葉知ってる？ ま、お店を潰すようなお人じゃ知らないんでしょうけど。

「ああ、そうか。そうだな」

「で、この子はあなたの猫なの？」

「いや」

「いや？ じゃ、どこの子？」

「ん、この近くで飼《か》われてるんだよ。男の子が飼ってるんだけどな、母親は夜の仕事してるし、父親も警《けい》備《び》員《いん》だから仕事の時間がまちまちだ。だもんで、子供の遊び相手のつもりでコイツを連れてきたんだ。ところが、ほぼ放置って感じなんだ。っていうか、子供だって半分放置してるみたいだからな。ま、そういうわけで、コイツはたいてい腹を空かしてる。で、俺が飯を食わせるってわけさ」

　この前と同じように彼は脚を伸ばしてる。ただ、どこかしら違和感があった。態度が大きく、不《ふ》遜《そん》で、人を小馬鹿にしてるようにみえるけど、明らかになにかが違ってる。それに、どうして猫の飼い主をそこまで知ってるのかも気になった。

「あなたはその家の人と知りあいなの？」

「いや、まったく。会ったこともないね」

「じゃあ、なんでそんなに知ってるの？」

　蓮實淳は奥へ向かいながら、「占い師だからさ」とこたえた。