第7章―2
なんてふうにカンナは考えていたわけだ。しかし、彼らはやはり不穏さから逃れられなかった。
出勤するとカンナはまずガラス戸に挟まれた封筒やら葉書を引っこ抜く。それらを応接セットのテーブルに放り、手早く掃除を済ませ、予約状況を確認する。――ふむふむ、今日もご盛況って感じよね。その辺りで天井を見上げる。――っていうか、また寝坊ってこと? ま、もうちょいしたら起こしにいきましょ。
そうして手紙の類いを整理するのだけど、その日は気になるものが混じっていた。安っぽい茶封筒で切手も貼ってなく、宛先も差出人もない。――ん、なんだろ、これって。もう一度天井を見上げ、カンナは考えた。あの人は上で寝起きしてるんだから、朝までの間に突っ込まれたものよね。どうしよう? ま、宛名はないんだし、私が開けても問題ないはず。夏になりかけの陽射しは奥まで届かない。カンナは薄明かりの中で鋏を使い、紙を慎重に引き出した。
え? なにこれ。
カンナはそっと背後を見た。悪霊が忍び寄り、禍々しい腕を伸ばしてきてるように思えたのだ。――と、次の瞬間、脚が自動的に動いた。
「ちょっ、ちょっと、ちょっとってば!」
「ん?」
タオルケットからはもじゃもじゃの髪が見える。カンナは恐怖に覆われつつ、口がうまく動かないのに苛々した。
「もう! 早く起きてよ!」
「なんだよ、どうしたんだ?」
浮腫みきった顔はしかめられている。カンナはその前に紙をぶら下げた。
「とにかく読んで。すぐ読むの」
「は? なんだよ、ファンレターでも来たってのか?」
「似たようなものよ。ほら、早く読んで」
こめかみに指をあて、彼は半分眠ってる頭を動かそうとした。ただ、その必要はなかった。文面を読むまでもなく、その様態が既に異常だったのだ。――ん、なんだこりゃ、まるで二時間ドラマとかに出てくる脅迫状みたいだな。は? 脅迫状?
目を細め、彼はもう一度じっくり見た。どこにでもあるようなA4のコピー用紙には新聞から切り抜いたであろう活字が貼りつけてある。
『お前はインチキうらない師だ
ひと様の家庭に鼻を突っこんでは
こそこそとかぎ回る
いやらしいシラミ野郎だ
そっこく廃業しろ
さもないとひどい事になるぞ
これ以上オレの商売を邪魔するなら考えがある
月夜の晩ばかりじゃないんだからな
あくりょう』
「なんだよ、これは」
紙を放ると彼はもたれかかってきた。
「知らないわよ。戸の隙間に挟んであったの。――って、重たいから」
押し返してみたものの、カンナはすぐ諦めた。それに、こうしてた方が落ち着くと思ったのだ。
「で、最後のとこもちゃんと読んだ?」
「ああ、『あくりょう』ってとこだろ?」
「そう。これってどういうことなの?」
欠伸をして彼は起き上がった。頻りに瞼を擦ってる。
「そんなのわかりっこないだろ。書いた奴に訊けよ」
「じゃあ、誰がこんなの書いたのよ」
「それもわからないって」
パジャマのボタンを外しながら彼は頭を振った。外からは欅に群がる鳥の声が聞こえてくる。ごく当たり前な日常、木曜日の朝だ。しかし、その中にも不穏さの種は蒔かれ、枝葉を繁らせるほど生え伸びていたわけだ。
「ね、こう書いてあるってことは、蛭子さん家の誰かが書いたってこと?」
「いや、」
そう言って彼は目を右上へ向けた。手は動いてる。
「それはないんじゃないか? そんなすぐわかることするか?」
「まあ、そうでしょうけど」
「っていうか、いつまでいる気なんだ? 汗かいたから俺は全部脱いじゃうぞ」
カンナは跳ね上がるように立った。彼はかまわず脱ぎつづけてる。
「ちょっ、ちょっと待って」
ドアがバタンっと閉まると蓮實淳は叫んだ。
「用意が終わったらすぐ行くよ。これは後でよく考えよう」
ただ、顔を洗い、コーヒーを飲みつつトーストを囓り、歯を磨いて――なんてしてるうちに営業時間になる。予約客もすぐに来る。しかも、こういうときに限って長い相談になった(遺産相続で揉めてるという四十代の太った女で、とにかく無駄な話が多く、感情的だった。蓮實淳はこう思ったものだ――「だから、そういうのは弁護士に言ってくれよ」)。
それが終わるともう昼食の時間だ。二人は応接セットで食事をとった。お隣さん(落ち着いた感じのカフェだ)で買ってきたチーズドッグとコーヒーだった。
「なんか気力がなくって、なにも作りたくなかったの」
「わかるよ」
口の端についたチーズを取りながら彼はこたえた。
「俺も同じだ。なんか気力が湧かない」
「ね、私たちって、これでも人の役に立ってきたと思うの。まあ、中には怒り出す人もいるけど、涙を流しながら感謝するようなお方もいるわけじゃない。それなのに、ほんとこういうのって単純にショックだわ」
紙をひらき、彼は全体を眺めた。ショックなのは確かだけど、ここは冷静に判断する必要がある。
まずはその形態。どこにでもあるようなコピー用紙で、A4サイズのもの。それが三つに折ってある。活字の大きさはバラバラなものの、いずれも正方形に近く、それが整然と列をなしていた。それに、ピンセットを使ったのだろう、糊もはみ出してなければ指紋も見当たらない。つまり、送り主は几帳面で頭も悪くないというわけだ。
それから文面。これは三つに分けられる。すなわち、冒頭は侮蔑。次いで、主題。最後は完全なる脅迫だ。
「ん、『これ以上オレの商売を邪魔するなら考えがある』って書いてあるよな。つまりは同業者ってことかな?」
「占い師ってこと?」
「商売の邪魔をするな、廃業しろっていうんだから、あるいはそうかもしれない」
「だったら、『あくりょう』って名乗ってるのはどういうこと?」
紙を置くと、彼はコーヒーを啜った。
「それはこう考えられる。蛭子の嫁さんは占い師に来てもらってたわけだろ? だけど、インチキだって言って追い返した。それなのに俺が解決してしまった。で、腹を立てた。――いや、とばっちりにしか思えないけど、そう考えることはできる」
「まあ、だったら『あくりょう』って名乗るのもありかもね。――でも、納得するまではいかないな。あなたはどう?」
今度はカンナが紙を取った。目をひらき、じっと読みこんでいる。
「納得はしてないよ。そう考えることもできるってだけだ。だけど、じゃなかったら、誰が『あくりょう』なんて名乗るんだ? これを知ってるのは俺と君、蛭子家の三人とその近しい人間、それに幾人かの占い師くらいなはずだ。その中で廃業しろって言うのは同業者くらいだろ」
「うーん」
陽光が後ろから射し、カンナの髪は輝いた部分を青くみせていた。彼は顔をしかめてる。頭は忙しなく動いているものの、考えがまとまることもなかった。
「ま、それが最大の謎だな。他が単純なだけ、そこが目立つ。しかし、とりあえず知っておくべきは、俺たちの商売をやめさせようと思ってる奴がいるってことだ」
眉をひそめながらカンナは身を乗り出してきた。
「ね、ここ。これってどういう意味? 『月夜の晩ばかりじゃないんだからな』」
「って、そのままの意味だろ?」
「そのままの意味って、どういう意味よ」
「わからないのか?」
「わからないわ。月夜の晩だけじゃないって、そんなの当たり前でしょ。昨日だって曇ってたし、一昨日は雨だったじゃない」
彼は頬をゆるめた。この子が相棒で良かった――そう思ったのだ。どんなに深刻な場面でも、カンナと一緒なら落ちこみ切ったりしないだろう。いや、なれそうもない。
「なに? 私なんかおかしなこと言ってる? ――ああ、わかった。月が出てたら明るいから、脅されても怖くないってこと? 真っ暗な方が怖いものね。そういうことなの?」
「あのな、これから脅すぞってときに月が出てるかなんて考える奴がいるか?」
「そうか。そうよね。でも、月が出てなくても街灯があるじゃない。東京って夜中でも明るいもの。ほら、言うでしょ。『眠らない街・東京』って」
さらに頬をゆるめ、彼はソファに身を沈めた。いや、そんな使い古された言葉を使う奴はもういないって。それに、雑司ヶ谷はいつも半分眠ってるようなもんだしな。そう考えてると、もうひとつ思いついた。――そうか、これを書いた奴はけっこうな年なのかもしれない。『月夜の晩ばかりじゃない』なんてのも使い古された脅し文句だもんな。
「ね、どういう意味なの?」
重ねて訊かれても彼はこたえなかった。思考はやはり脅迫状を中心に回り出している。




