第6章―6
それからの数日間、蓮實淳はあの夫婦が乗り移ったかのようにぼうっとしていた。口から出てくるのは溜息か「あうあうあ」といった意味不明の音だけだ。カンナはたまにだらしなく崩れた姿を眺めた。疲れたアピールが過ぎるんじゃないかと思うものの、ほんとうに悪霊を退治したのであればこうもなるのか。そう考えもする。
五日後にはゆかりと嘉江が連れ立ってやって来た。戸口で深々と頭を下げ、《とらや》の羊羹と分厚い封筒を渡すと、小一時間ほど話していった。ゆかりはのろのろと、嘉江は早口だったものの尊重しあってるのはわかった。こう見てるぶんにはあの家から悪霊は去ったみたいだな――彼はそう思った。
その日も暖かく、ガラス戸はすこし開けられていた。穏やかな風が通り抜け、そこには春特有の埃っぽさと鈍い香りが混ざっていた。二人が立ちあがったとき、戸の隙間からハチワレの猫が顔を出した。
「あら、あなた、ペロちゃんじゃないの」
「ニャ」
「ああ、そうでした。奥さんはこの子をご存じなんですよね?」
嘉江は首を引き、薄く笑った。この男はなんでもお見通しだったのだとでも思ったのだろう。
「ええ、この子はうちの店子さんの飼い猫で。――いえ、あそこはペット禁止なんですけど大目に見てるんですよ。ね、ペロちゃん?」
「あそこもそうだし、裏手に建ってるのもお宅の持ち物だそうですね」
「はい。あの一帯はもともと蛭子の土地なんです。だから、他にも貸してるところがあるんですよ」
ゆかりがこたえてるあいだ彼は庭で見た光景を思い出していた。古ぼけた木造モルタルのアパート。ベランダの鉄柵。そして、揺れるカーテンに煌めいた光。どうして思い出したのかもわからなかったけど、気になるのは確かだ。
「どうしたのよ、突然固まったみたいになっちゃって」
「ん? ああ、いや。――すみませんでした。ちょっと気になることがあったので」
そうこたえながら彼は目を細めた。嘉江の表情は変わらない。しかし、瞳だけは忙しなく動いていた。
二人が帰ると蓮實淳は鼻に指をあて唸った。
気になることが多すぎる。きっと見落としてることがあるんだろう。しかし、それも当然だ。俺は見えたことに類推を加えて物語をつくってるんだからな。事実と事実を結ぶもの――感情や思考が見えなけりゃ、そうするしかないのも確かだ。これは俺の占いの構造的欠陥なんだろう。
「なんなのよ、その顔は。それにずっと『うーん、うーん』って言ってるけど、どうしたの?」
カンナは封筒を持ってきた。顔には期待が滲みまくってる。
「ん、さっきも言ったけど、気になることがあるんだよ。――ま、これは常につきまとうものなんだろうけどさ」
「ふうん。そういえば違和感があるとか言ってたものね。だけど、解決したんだからいいじゃない。それに、見てよ。『大和田義雄不倫事件』以来の分厚さよ。ううん、あんなの目じゃないって感じ」
二人と一匹はしばらく封筒を見つめた。期待したくなる厚さなのも確かだ。札束を引き出したときには深い息が洩れた――嬉しいときに出てくる希有なタイプの溜息だった。
「こりゃ――、えっと、百はあるのかしら?」
「ああ、数えるのが怖いな。だけど、さすがにこれはもらいすぎだろ」
「そう? それだけのことをしたってことじゃない。なんてったって悪霊祓いまでしてのけたんだから」
手早く数えるとカンナは封筒の表にそれを記した。あれだけ怖い思いをしたんだし、変なダンスまでさせられたのだからボーナスみたいなもの。そう思うようにしてる。ただ、彼は悩ましげな表情でこう言ってきた。
「ほんとにそれだけの金なのかな?」
「は? どういうこと?」
「いや、」
そう言ったきり、彼は目をつむった。ペロ吉は『ニャンミー マグロ味』を食べている。
「口止め料って意味もあるのかもしれない」
「口止め料?」
「ああ、まずは今回のことについての口止め、それに、」
彼は嘉江から受け取った映像を思い出していた。ほとんどすべての顔が潰れてたのは隠し事が多いからなんだろう。それに、『悪霊』と書かれた紙も気になる。あれは誰を指してたんだ? その辺を理解しないまま一応の解決になってしまったわけだ。あの人からすりゃ、どこまで見えたか気になってるだろうな。つまり、この金は――
「それに、なによ?」
「ん? ああ、ごめん。なにがなんだかわからなくなってきた」
「あっ、そう」
「ま、考えてもわからないことはとりあえず脇へ退けとこう。それこそ一応は解決できたんだしな」
髪をかき上げ、彼は首を振った。カンナはなにか言いたそうな表情をしてる。
「どうした?」
「ううん。ほら、こうして『蛭子家の悪霊事件』も終わったわけじゃない?」
「ああ、ま、そうだな」
っていうか、その『なんとかのなんたら事件』ってなんだよ。ここのところ彼はずっとそう思ってる。だいいち『大和田義雄不倫事件』なんてのを聞かれでもしたら大変なことになるぞ。
「で? それがどうかしたのか?」
「うん。いつだってそうなんだけど、私ってあなたがどうやって解決したかわからないでしょ?」
「まあ、そうだな。それで?」
カンナは息を止めるようにして見つめてきた。――またこれかよ。こういうのってよくあるよな。ま、俺もそうだけど、すっと言えないものかね。ほら、なんだよ。なに言いたいんだ?
「あのね、」
「うん。なんだ?」
顔を突き出させると、カンナはこう囁いてきた。
「けっきょくのところ、悪霊ってほんとの本当にいるものなの?」




