第6章―1
【 6 】
「ところで、ゆかりさん、このお宅で悪霊という言葉を出したことはありますか?」
そう訊かれると、ゆかりは顎を引いた。蓮實淳は目を細めてる。
「いえ、たぶんなかったと思いますが」
「それはなぜです?」
「さすがに義母が嫌がるだろうと思って。――あの、この人もそんなのはいないはずと言ったくらいなので、義母はさらに嫌がるだろうと」
慎太郎はやはりぼうっとしてる。カンナは苛々した。ほんとなんなの? 当事者なんだからちょっとは理解しようとしなさいよ。――ま、私にも意味がわからないけど。
「では、これまで呼んだ者たちにもそうは訴えなかったんですね?」
「はい、悪いものがいたら怖いとは言いましたけど、」
「ただ、悪霊とは言わなかった」
「ええ。――そうです」
「しかし、私には悪霊と言った。はっきり『この家には悪霊がいる』とね。それはどうしてです?」
「それは――」
皆が青白くなった顔を見つめていた。つづきを待っていたのだ。ただ、ゆかりはうつむいてしまった。
「いいでしょう。ゆかりさん、もう一度あなたのことを見せてもらえますか? この前とは違って、疑いも隠し事もなしにして」
慎重そうにうなずくと、ゆかりは背筋を伸ばした。蓮實淳は胸に手をあてている。――ふむ、やっぱりな。強く隠してることは見えづらくなるんだ。いや、違った。そんな検証をしてる場合じゃない。もっと過去へ遡り、――そう、学生時代だ。この女にも『悪霊』という言葉にまつわる経験があるはずだ。でなきゃ、話が繋がらなくなる。どこだ? どこにある? ――ん? ああ、そういうことか。やはりそうだったのか。暗闇に光の点が見える。それは急激に広がり、顔をしかめたくなるほどの眩さになった。そして、平たい石。その前に立つ女。それも二人だ。
すべてが終わると彼は座卓に突っ伏した。連続して三人を見るのは初めてだったのだ。
「大丈夫?」
「ん、ちょっと大丈夫じゃないかもな」
髪をかき上げながら彼は呻いた。息はあがり、全身が怠くなっている。
「あらかたわかりましたが、少々疲れました。これからは、――そうですね、お庭を拝見させていただきましょうか。悪霊のあらわれる場所を見ながら考えたいんですよ。お二人はここで待っていていただけますか?」
蓮實淳は客間と離れの位置関係を確認した。そうしながら、どうすべきか考えてる。さっき言ったようにあらかたは理解できた。それをどう着地させるかだ。ただ、いつものように思考は中断させられた。
「ね、どういうこと? なんであのお婆さんを怒らせる必要があったの?」
「ん? なんか言ったか?」
「言ったわよ。どうしてあのお婆さんを怒らせたのって訊いたの」
「ああ、そうしないと嫁さんが萎縮しっぱなしになるだろ? それに、もう一度見る必要もあったんだ。そんときにいたらマズイと思ったんだよ」
「ふうん」
二人は平たい石の前に立った。カンナの顔は青ざめている。
「で、ほんとに悪霊はいるの?」
「うん、確かに存在してる。それも一体じゃなさそうだ」
「え? 一体じゃないの? 誰に取り憑いてるのよ」
カンナは視線をたどり、離れを見つめた。
「やだ? 見えるの?」
彼は目を細めてる。しかし、悪霊が見えたからではなかった。離れの奥、古ぼけたアパートの一室が気になったのだ。風にそよぐカーテンの向こうに一瞬だけ煌めく光があったように思える。
「やっぱりあのお婆さんに憑いてるの? そうなんじゃないかって思ってた。だって、突然すごい剣幕で怒ったでしょ? ああいうのって悪霊のせいよ。『エクソシスト特集』で見たもの」
彼は唇を歪めた。思考の半分はこの問題について、もう半分は『エクソシスト特集』に持っていかれてる。っていうか、それってどういう『特集』なんだよ。
「ま、あの婆さんにも取り憑いてるんだろう。でも、それだけじゃない」
眉をひそめながらカンナは客間へ目を向けた。――ということは?
「ああ、一体じゃないって言ってたものね。じゃ、あのおばさんにも憑いてるの? ――え? まさか、あのおじさんにもってんじゃないでしょうね?」
彼はもう一度風にそよぐカーテンを見つめた。窓は開け放たれているものの誰も出てこない。だったら、なんで開けっぱなしにしてるんだ?
「ねえ、教えてよ。正体がわかったって言ってたでしょ。それって、」
もう、うるさいな。考えられないじゃないか。蓮實淳は額に指を添え、溜息をついた。
「あのな、思うんだけど、悪霊ってのは関係性の中に生まれるんじゃないか? 人に取り憑くんじゃないんだよ。その間にいるんだ」
「はあ? なによそれ。さらにわからなくなっちゃったわ。もうちょっとわかりやすく言ってよ」
「だから、特定の誰かに取り憑いてるんじゃなくってさ、その間に生じるんだよ。こじれた関係、行き違い、感情のせめぎ合い、そういう間に取り憑くんだ」
「ふうん。よくわかんないな」
すこしのあいだ彼は目をつむった。カンナはじっと見つめてる。――え? なによ、そんな顔しちゃって、どうしたの?
「ね、なんでそう思ったの?」
「ん、この家は俺の育ったとこに似てるんだ。まあ、親父もお袋もあんなじゃなかったけど、構造は似てる。主要な人物や配置がな。もしかしたら俺の家にも悪霊が潜んでいたのかもしれない。――いや、きっとそうだったんだろ」
カンナはまだ見つめてる。なんだか寂しそうな顔してるなぁ。――って、この人ん家にも悪霊がいたの? それってどういうこと?
「それで、あなたのお家にはなにか悪いことが起こったの?」
「ああ、起こったよ。ま、たいしたことじゃないけどね。もう家族じゃなくなったってだけのことだ。バラバラになって解体した」
鼻に指をあて、彼は姿勢を正した。よく考えなきゃならない。見えたことを元にして再構成するんだ。そのために必要なのは――
「カンナ、君にお願いがある」
「なに?」
「もうちょっとしたら、俺は婆さんのとこに行こうと思ってる。大切な用があるんだ。これは俺と婆さんだけの話にする必要がある。だから、君はあそこに戻ってぼうっとした二人の相手をしてるんだ。なにがあっても離れには近寄らせるな。もし、どうしても近づくようだったら大声を出せ。わかったな?」
「え? あ、はい」
顎を引き、カンナは瞳をあげている。それから客間へ顔を向けた。――もう、あの二人の相手って、どうしたらいいのよ。




