第5章―6
着いたのは昼過ぎだった。表札には達筆ながらも読みやすい字で『蛭子』と書いてある。その横には真新しい御札があり、足許には塩が盛られていた。
「すみません、蓮實淳です」
呼び鈴を押すと、ほどなくして長い顎が突き出てきた。この前と同じ淡い黄色のジャケットに黒いパンツ姿で、視線はあちこちに散っている。
「ああ、先生。お待ちしてました。さ、お入り下さい。いま夫と義母を呼んできますから」
客間に通されるまでにも幾枚か御札があった。カンナは寄り添うように歩いた。物陰になにかが潜んでそうに思えたのだ。初めて訪問した家ってだけでも落ち着かないのに、ここには悪霊だっている。そう考えると、あらゆるものが禍々しく思えた。
「ね、ほんとにいそう?」
「ん? どうだろう。君はどう思う?」
「私?」
湯飲みを覗き、カンナは唾を飲みこんだ。さっき自分で言った「緑色の塊」に見えたのだ。
「いると思う。なんかそういう感じがするもの」
家の中は静かで、壁に掛かる時計だけが音をたてていた。蓮實淳は腰を浮かし、庭を眺めた。枝を張り出した松の根元には平たい石がある。さらに首を伸ばすと離れの瓦が見えた。――ん? と思い、彼は周囲に目を向けた。庭は手入れが行き届いている。それに比べて母屋はひどい。客間の欄間にすら埃が溜まってる有様だ。
すっと襖がひらき、ぼうっとした男が顔を覗かせた。小太りで、背が低く、後頭部の髪がすこしはねている。その後から出てきたのは品のよさそうなお婆さんだった。蓮實淳とカンナは立ちあがり、頭を下げた。
「お話していた先生――蓮實先生と助手の方です。こちらは夫の慎太郎、義母の嘉江です」
座り直してから四人はまたもや頭を下げあった。なんだかお見合いみたい、というのがカンナの感想だ。夫の慎太郎はピンクのポロシャツにゆったりしたパンツ姿。姑の嘉江は首に派手なスカーフを巻き、目は値踏みするように細められている。息子夫婦はそれに反して半分眠ったような表情で、どこを見てるのかもわからなかった。
「今日お伺いしたのは、こちらの奥さんからご依頼があったからなんですが。その、お宅の庭に生ゴミが置かれてる問題についてですね」
そう言ってもこれといった反応はない。なんなの? この沈黙は。カンナは目だけ動かした。ぼうっとした顔 → 不機嫌そうな顔 → ぼうっとした顔。この人たちが悪霊なんじゃない? それとも取り憑かれちゃってこうなっちゃったの? まあ、なんでもいいからなにか言いなさいよ。足が痺れちゃうじゃない。
姑はちらとカンナを見て、居住まいを正した。
「私はこんなことに他人様のお力添えなんて必要ないと思ってるんですよ。それに、なんでもないこと、――きっと誰かの悪戯に決まってるんです」
「なるほど。お母様はそういうご意見なんですね。ご主人はどうです? この問題をどう思われてます?」
「僕? 僕ですか?」
慎太郎は母親へ目を向け、それから妻を見た。蓮實淳は営業用の顔を崩さず、じっと見つめている。
「あ、あの、その、困ったことだとは思います。でも、母の言うように悪戯にも思えるし。いえ、とはいっても、なんとかした方がいいですけど――」
ああ、じれったい! カンナは座卓の下で手を握り合わせた。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!
「まあ、この子がどう考えてるかは別にして、」
嘉江が口を挟んできた。目は細められたままだ。
「すくなくとも私はつまらない悪戯だと思ってます。うちの嫁はこういうのが好きでね。霊能者だの占い師だのを連れてきては始終騙されてますけど、その度にああでもないこうでもないと言われたり、訊かれたり」
あからさまな溜息をつき、姑は鋭い目を向けた。
「で、ゆかりさん、こちらの方はどっちなの? 霊能者の方? それとも――」
「占い師です」とカンナがこたえた。
「なんでもお見通しの蓮實先生です」
彼は口許をゆるめた。毎回こうなるのかよ、と思ったのだ。お前が代理で名乗る仕組みになってるのか? でも、まあいい。この雰囲気でそんなこと言えるのはカンナくらいだろうからな。
「なんでもお見通し?」
姑は鼻で笑うようにした。
「これまで来た方たちも似たようなことを言ってましたがね」
蓮實淳は顎を反らした。少しばかり地が出た感じ――態度が大きく、不遜で、人を小馬鹿にした様子になったわけだ。
「私は違いますよ。まあ、それはすぐにわかるでしょう。私にはどんなことだって見えてしまうんです。――カンナ?」
「あ、はい」
バッグからエジプトっぽいタペストリーとバステト神像を取り出すと、カンナは手早く置いていった。蛭子家の面々はそれを見つめてる。蓮實淳は指を立てた。
「さて、お母様から見させていただきましょうか。肩の力を抜いて下さい。――そう、それでいいです」
嘉江から受け取った映像は戸惑わざるを得ないものばかりだった。霞がかかったようにぼんやりしていたし、出てくる顔もだいたいは歪み、あるいは一部が著しく欠損していた。――ふむ。やっぱり強く隠そうとしてると見えづらいらしい。ただ、面白いものは見えた。これはキーとなる情報だ。いや、それにしたってこの婆さんには隠し事が多すぎるな。過去に至るまでずっと茫漠としてる。
それに比べて慎太郎はすべてがくっきりしていた。しかし、それだけのことだった。厳しい両親からの制約と期待。父親は高校教師で、常に苦々しい表情をしてる。――ま、こんなぼんやりした息子であれば、そうあって然るべきなのかもしれない。
「ふうっ」
深く息を吐くと、彼は座卓に両手をついた。激しい倦怠感に襲われ、現実世界までもが霞んでいたのだ。
「大丈夫?」
「ん? ああ、大丈夫だ。ちょっと疲れただけだよ」
慎太郎は口をあけたまま目だけ動かしてる。嘉江はすべてを茶番と思ってるようで疑り深そうな顔つきをしていた。
「で、なにか見えたんですかね?」
「ええ、見えましたよ。あなた方の過去が手に取るようにわかりました。まずは慎太郎さんからいきましょうか。あなたは厳しい両親に躾けられた。お父様は高校の教員でしたね? その影響なんでしょう、あなたも教員になろうとしていた。ただ、お父様が亡くなられると進む道を変えた。それにはお母様からの忠告が絡んでいる。――でしょう?」
「あ、はい。その通りです」
鼻に指をあてながら蓮實淳は話した。慎太郎は首を引き、瞼を瞬かせている。
「内容まではわからないが、説得されたあなたは区役所勤めを選ばれた。まあ、その選択は正しかったように思えます。あなたは本来的には意志の堅固な方だが、それが外側からではわかりにくい。そのせいでこれまでも苦労されてきましたね? いえ、きっとこれからも同じ理由で苦労されるでしょう。いいですか? 意思を貫き通すためには決意が必要です。バランスを取ることに腐心してると、意思は弱くなってしまいます。それを考えて行動するようにしていけば、さらに良くなるでしょう。是は是、非は非とはっきり言うべきなんですよ。わかりますか?」
指先を向け、彼は唇を歪めた。目は嘉江に向けられている。
「次いでお母様ですが、――わかりますよ。いま言ったことなど、ゆかりさんに聴けばわかると思っておられるんでしょう?」
嘉江は腕を組み、頬を引きつらせた。蓮實淳はやはり不遜げな笑みを浮かべてる。
「いいでしょう。そうまで疑われるなら、誰も知らないあなたの過去を言い当ててみせますよ」
彼はふたたび鼻に指をあてはじめた。頭の中はぐちゃっとしていたものの、じきにまとまっていった。ひとつの言葉がそれを促してくれたのだ。
「ご主人も高校教師でしたが、あなたも若い頃はそうでしたね? ただ、ある事件を原因として辞めざるを得なくなった。――うん、そうですね、非常にぼんやりしてるが、女子生徒が見えます。屋上も見えました。それに、一枚の紙ですね。これは暗示的です。このお宅に起こってることと繋がりもある。いえ、細かいことは控えておきますが、あなたはそのことに贖罪の気持ちを持ちつづけている。それは確からしく思えます。違いますか?」
姑の顔は赤くなり、徐々に青ざめていった。彼は顎を反らし、目を細めてる。
「私にはわかってるんですよ。すべて見通せています。このお宅で起こってることもすべて知ってるんです。下らない悪戯をしてる悪霊の正体もね」
「悪霊ですって?」
そう叫ぶと、嘉江はゆかりを睨みつけた。
「そう、悪霊です。どうです? あなたには古馴染みの言葉でしょう?」
「どういう意味ですか?」
「逆に訊きます。あなたはあの紙に書かれていた言葉をどう捉えてますか?」
身体を揺らすようにして姑は座卓を強く叩いた。蓮實淳は口角を上げ、その顔を見つめてる。
「気分が悪いわ! ほんと気分が悪い!」
「でしょうね。でも、それは私の言ったことが当たってるからだ。違いますか?」
すっと立ちあがり、嘉江はひどい形相で睨みつけてきた。慎太郎も膝立ちになっている。
「もうこんなのたくさん! 私は戻ります。後はお好きになさい!」
ゆかりが追うようにしたものの、姑は庭へ出ていった。カンナは袖を引き、覗きこんでいる。
「どうしちゃったのよ。なんであんなふうに言ったの?」
蓮實淳は額に指を添え、深く息を吐いた。そして、頭を振りながら囁き声を出した。
「必要だからさ。あの婆さんを怒らせる必要があったんだ」




