第5章―4
夜風は肌寒かった。女はその中をとぼとぼと歩いていく。動作が緩慢で、予約の時間に遅れたのもそのせいに思えるほどだった。
「なんかわからないけど、勝ったって感じね」
「そうか? 俺はいいように乗せられた気がする」
「なんでよ」
「うーん、それこそなんかわからないけど、そう思うんだ」
「でも、あなたが本物だってのは嫌ってほどわかったでしょ」
蓮實淳は顔を向けた。しかし、視線はぶつからない。胸元を見つめているのだ。
「で、どうすんの?」
「ん? どうするって?」
「お祓いに行くんでしょ? そんなのできるの?」
「ああ、どうだろうな」
顔は自然と寄っていく。近くで見るとまた圧巻だ。とくに顎の長いおばさんと二人っきりになった後だと好ましく思える。――と、手が動き、チャックが閉められた。カンナは首を振りつつ、『close』の札を下げている。
「じゃあ、今度はあなたが安請け合いしたってことよね?」
「ま、そういうことになるな」
ソファに埋まり、彼は思いきり脚を伸ばした。なんでもお見通しの占い師から解放され、本来の自分に戻る瞬間というわけだ。ただ、そうしながらも受け取った映像について考えている。――どうしてあんなにぼんやりしてたのだろう? いや、昔のはくっきりしてた。最近のことだけ茫漠としてたんだ。平たい石に置かれた生ゴミ。それを見つめる女。その前後には紗がかかっていた。逆に考えると、そこにこそ解決の糸口があるってことか。
「ね?」
思考は途切れた。カンナはソファに手をかけ、しゃがみ込んでいる。
「ひとつだけ訊いていい?」
上目遣いに見つめられ、彼は唇をすぼめた。どうせまたドキドキする? とか訊いてくるんだろ。カンナはしつこいからな。
「なんだよ」
「あのね、」
カンナは囁くように言った。スピーカーからはフルートの音が聞こえてくる。しかし、唾をのむ音の方がはっきりわかった。
「悪霊ってほんとにいるの?」
その方が面白いので、彼は「悪霊は存在する」という立場を取ることにした。自分ではそんなのがいると思っていない。いや、いてもかまわないけど――くらいに考えている。この場合に重要なのは「悪霊」が何者かを突きとめ、馬鹿げた行為をやめさせる方策を練ることなのだ。
依頼のあった翌日には蛭子家のまわりを歩き、位置関係を確認した。細い路地、鬱蒼と茂る庭木、むちゃくちゃ高い板塀(彼は百八十センチ近くあったけど、それより高かった)。敷地の二面は古ぼけたアパートに接していて、正面右にあるのがペロ吉の住んでるものだ。
ふむ、門から入りこむのは無理だろう。しかし、裏手のアパート側には木戸があった。誰かが侵入してるとすればそこからってことか? 塀を仰ぎ見て、物を投げ入れる真似もしてみた。――うん、やっぱりこれは無理だ。
もちろん猫たちに頼んでパトロールしてもらっていたし、周辺の屋根から覗きこませてもいた。ただ、問題の石はあらゆる場所から死角になっていた。枝を張り出した大きな松の根元にあり、高い所からでも見えない。それに、母屋から離れのルート上にあるものだから、よく家人が通る。
「なんだか、わざとそこを選んだって感じだね。庭石なら他にもあるんだ。でも、いつもそこに置かれてるんだろ? こりゃ、内部の犯行だろうね」
彼は脚の間で手を組んでいた。テーブルの上にはキティとオチョ、それにペロ吉がいる。
「その可能性が高いけど、なんでそんなことしてるんだろう?」
「そんなの知らないよ。ま、人間ってのはよくわからないことするもんだからね、これもそのひとつなんだろうさ」
「ってなると、」
オチョが口を挟んできた。顔つきには少しだけ妙なところがある。
「あそこの婆さん、息子、嫁さんの誰かってことになるんだろ? だったら、息子だよ。それに決まりだ」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、嫁さんが相談に来たんだろ? ってことはシロだ。それに、あそこの婆さんはいつも俺たちにごはんくれるんだよ。裏木戸の前に置いてくれてる。そういう良い人なんだ。ってことで、消去法的に息子になる。うん、これで解決だな」
キティは前肢を舐めながら目を細めてる。その横でペロ吉は『ニャンミー マグロ味』を食べていた。
「ペロ吉、お前んとこのアパートは蛭子の持ち物なんだろ? それに、もう一個のアパートもそうなんだよな?」
「うん、そうみたい。あのお婆ちゃんがいつもお金取りに来てるもん。そんときも悠太くんとボクにお菓子くれるんだ」
「ふうん、そうか。ほんとに優しい人みたいだな」
「だけど、パパとママにはいつも怒ってるよ」
「怒る? なんでだ?」
「もっとちゃんとなさいって怒るの。悠太くんのことも、お掃除とかもちゃんとしなさいって」
「ああ――」
蓮實淳はキティを見つめた。悠太くんというのはペロ吉の飼い主だ。母親は夜の仕事で、父親は警備員。ともに家を空けることが多いので半分以上放置されてるような状態だった。
「ペロ吉、こっちのも食いな。アタシはもうお腹いっぱいだからね」
「え? いいの? キティさん」
「もちろんだよ。好きなだけお食べ」
ヒゲをぴんと張り、ペロ吉は皿に顔を突っ込んだ。それを見つめ、キティは意味のありそうな目を向けてきた。
「で、これからどうするつもりだい?」
「うーん、そうだな。蛭子ん家に行くのはまだ先だから、パトロールとかはつづけて欲しいな。それに三人のことをもっと探ってもらいたい。もし、内部の犯行なら誰かが生ゴミを持ち込んでるはずなんだ。それがわかれば解決できる」
「わかればね。でも、袋の中身まではわからないよ。あんた、蛭子のとこに行くまでわからなかったらどうするんだい?」
蓮實淳は腕を組んだ。キティは覗きこんでいる。
「ま、なんとかなるだろう。そういう気がしてるんだ。これはさほど複雑な問題じゃないってふうにね」




