第5章―2
その相談があったのは、桜の花が咲きはじめる頃のことだった。昼過ぎから急に気温が上がり、カンナは薄いブルーのパーカ(胸のところに『Evil Mind』と白い縫い取りのあるものだ)の前をあけていた。中のTシャツ(こちらには『Bitch!!』とプリントされていた)はあまりにも身体にフィットしすぎていたし、裾が短いものだから動くたびにへそが見え隠れした。
夕方に来てた男子学生は目のやり場に困るといった表情を浮かべつつも、じっと胸や隙間から覗く肌を見つめていた。それは蓮實淳とて同じだった。ほんとデカいよな。E? いや、Fか? などと考えながら眺めてる。ガラス戸からは風が洩れ入り、高く縛った項の毛がそよいでいた。こういうのも悪くない。いや、むちゃくちゃいい。そのように見ていたわけだ。外は暗く、予約客は連絡もなく十分の遅刻をしていた。
「ねえ、」
「ん?」
「さっきからずっと見てるでしょ。で、どう? ドキドキしたりするの?」
「は?」
頬杖をやめ、彼はバステト神像を手にした。遊んでたふうを装ったのだ。カンナはカタカタとキーボードを叩いてる。
「なに言ってんだよ。俺は別に、」
一瞬だけ顔をあげ、カンナはまたPCに向かった。面倒くさい否定なんかしちゃって。だけど、そんなのはどうでもいい。これだけは訊いておきたかったのだ。
「で、ドキドキはしてるの?」
「ドキドキって。少女漫画じゃあるまいし」
「でも、ずっと舐めまわすみたいに見てるでしょ?」
「いや、それはだなぁ、」
バレてるのだからしょうがないのだけど彼は抵抗を試みようとした。そのとき、ガラス戸が音を立てた。時計を見ると、七時十八分。
「七時に予約していた蛭子ゆかりです」
戸口に立った女は尻まで隠れるような淡い黄色のジャケットに、襞のたくさんある黒いロングスカートといった格好をしていた。全体の色味には不釣り合いの薄いピンクの靴下は折り返してあり、踵のない靴はやけに大きくみえた。太い手首には幾重にも数珠のようなものが巻かれていて、首にも同じようなネックレスが垂れている。
女は遅れた詫びも言わず、ぼうっとした表情で蓮實淳を見つめ、カンナへ顔を向けると眉をひそめた――これはただ単に服装を怪訝に思ったのだろう。ただ、ソファから跳ね上がったカンナは最高の笑顔で迎え入れ、瞬く間に相談者の定位置へ誘った。その振る舞いから、この女をどう思ってるかわかった。態度は慇懃なものの、あまり関わりたくないのだ。仕切りを閉じるときの目つきは「さっさと占って、早く終わりにして」と言ってるようだった。
カーテンが閉まると女は顔を突き出し、ふたたび「蛭子ゆかりといいます」と名乗った。やはりぼんやりした表情だったけど、目は大きくひらかれていた。見てはならぬものをたったいま見てきた――といった顔つきだ。それから、腕をデスクに乗せ、「これは少々不可思議な問題なんです」と言った。
「はあ」
「あなたの噂は耳にしてました。なんでもお見通しの占い師だって。でも、この問題を解決できるとは思ってません」
はあ? ――こっちは立ち聞きしてるカンナの感想だ。なんなの? このお人は。遅刻はする、詫びは言わない、その上、あなたには解決できないですって?
「どういうことでしょう」
蓮實淳はこの女の情報も得ていた。鬼子母神の裏手から法明寺に至るまでに、ぎゅっと固まったように幾軒かの家がある。その中程にかなり大きな屋敷があって、そこの嫁さんだった。猫たちは「おばさん」と言ってたけど、たぶん三十代前半だろう。屋敷には離れもあり、そこには姑が住んでるそうだ。姑の方はやはりぼんやりした夫の母親とは思えないくらいしっかりしていて、近所からの評判もいい。息子夫婦はそれに反して、あまり良い話は聞かない。愛想が悪く、挨拶さえろくにできないということだった。
「あのお家はちょっと怖いの」
ペロ吉のアパートはその蛭子家が大家で、なおかつ隣りあっていた。だから、いろいろ知っている。
「怖い? なんでだ?」
「だって、いつもお経みたいのが聞こえてくるんだもん。あのおばさんはお塩を毎日いろんなとこに置いてるし、なんだかお化けのお家みたいなんだ」
そのおばさんを前にして、彼はなるほどと思った。お化け屋敷の住人に見えなくもない。占うまでもなく人となりもわかった。現実に関心が薄く、何事も他からの影響で起こったと思いこむ。あたかも自己発信のことなど無いかのようにだ。そのぶん、見えない力が大好きで、この世界の多くはそういったものによって動いてると信じてる。だから、幾重にも数珠を巻いてるわけだ。しかし、それが効力を発揮してるかは別問題のようだ。外見からではどうも役立ってると思えない。
「私の家には邪悪な力が働いてるんです」
女は前屈みになっている。彼はわからない程度に唇を歪めた。
「だから、何人も占い師や霊媒師やらに見てもらいました。でも、みんなインチキで」
カンナは肩をすくめた。あらあら、言っちゃってるわ。占い師を前にしてのインチキ発言。それに「邪悪な力」ですって? それから、ん? と思い、パーカを見た――『Evil Mind』
「まあ、あなたがどうかわかりませんが、あたれるとこは全部あたってみようと思ったんです。これが解決できるようなら、それこそなんでもお見通しってことになるんでしょうけど」
薄く微笑み、彼は立てた指に視線を合わせた。そうすると相手も見るものだ。
「まずは、あなたのことを拝見させて下さい。お宅に働いてる邪悪な力に関しては後で考えてみましょう。肩の力を抜いて、――そう、それでいいです」
猫から得た情報を伝えることもできた。しかし、占い馴れしてる者には逆効果になる場合もある。外から見てわかることだけ並べると、そんなのは調べたと思われかねないのだ。気息を整え、蓮實淳はペンダントヘッドを押しあてた。女の瞳は拡大され、その虹彩までもが見えてくる――




