第3章―5
彼は足繁くあの公園(雑司が谷みみずく公園といった)に通うようになった。後の助けになる猫たちと出会ったのもこの頃のことだ。キティのテリトリーは広く、深い――意外に思われるかもしれないけど、猫というのは強固な組織力を持っている。とくに野良同士は互助の精神が強く、流れ者も仁義を切れば居場所を確保できた。
とある晩――ベンチに垂れる桜に花芽がつきはじめた頃だ――彼はキティとオチョ(柴トラの雄猫で、ある程度年もいっており、キティの右腕的存在だった)と話していた。蓮實淳は猫社会についての質問を繰り返し、オチョがそれにこたえ、彼にもわからないことはキティが補足した。ちょうど猫の組織力や、その情報収集能力の話題になったとき、オチョはこう言った。
「――って感じにさ、けっこういろいろ知ってるんだよ。ほれ、俺たちはどこにだって行けるだろ? 高い塀の上にだって行ける。人間ってのは、よっぽどの猫嫌いでもなきゃ、俺たちが塀で寝てても気にしない。喧嘩もすりゃ、」
そこまで言うと、彼は下卑た笑みを洩らした。
「その、なんだ、いいことをするってこともある。――いや、俺だって好きで見てんじゃないんだぜ。たまたま目に入っちまうだけだ。その、不可抗力ってやつだな、これは」
「なるほど」とだけ蓮實淳は言っておいた。キティは目を細めてる。
「はっ! あんたはそうやって、よくその『いいこと』ってのを見て回ってんだろ?」
「いやぁ、姐さん、ほんとに不可抗力だって。でも、ほら、ねえ」
「ほら、ねえ、の後はなにがつづくんだい?」
そのやりとりを聴きながら蓮實淳は考えていた。ここしばらく念頭を離れなかったこと――残念ながらそれは再就職についてではなく、千春に関することだった。よりを戻したいと思っても新しい男がいたら不可能になる。それだけでも調べてもらえないだろうか?
「じゃ、特定の誰かを見張ろうと思えばできるってことか?」
「ん? どういうことだよ、それ」
「だからさ、どこそこの誰が最近なにしてるとか、どういう人間とよく会ってるとか、――その、なんだ、オチョの言う『いいこと』をしてるかってのもわかるってことか?」
「なんだか歯切れが悪いねぇ」
キティは前肢を折りたたむようにしてる。遙か頭上には丸い月があった。
「はっきり言ってみな」
「仮にだよ、仮に、俺の別れた恋人がどうしてるとか、新しい男ができたのかとか、そういうのもわかるってことか?」
「そんなの知って、どうする気なんだい?」
「ただ知りたいだけだ」
そう言ってから、彼は肩の力を抜いた。つまらない見栄なんか張ったってしょうがないと思ったのだ。
「いや、違うな。俺はできればよりを戻したいんだ。そのためには男がいるか知る必要がある」
「そういうのをあんたたちはストーカーっていうんじゃないのかい?」
瞼を瞬かせながら彼は首を引いた。キティは尻尾を振っている。
「でも、知りたいんだろ?」
取りなすようにオチョが口を挟んだ。頻りにうなずいてもいる。
「そういうのなんとなくわかるな。俺、捨てられたことあっからさ。引っ越し先で飼えないとかでよ。あんときゃ、しばらく元の飼い主がどうしてるか気になったもんだ。猫は駄目でも鳥とかなら大丈夫かもしれないだろ? もし鳥なんか飼ってたら、俺、そいつを食ってやろうかと考えたもんさ。だから、そういうのわかる気がする」
いや、ちょっと違うんじゃないか? そう思いはしたものの、良いアシストであるのに変わりない。彼はキティを見つめた。オチョも覗きこむようにしてる。
「姐さんさえかまわなきゃ、俺はやってもいいぜ」
「アタシは別にどっちだってかまわないさ。ま、それを知ってどうするんだいって思うけどね。あんた、男がいるのがわかったら、オチョみたいに取って食いたくなるかもしれないよ」
「そんなことしないよ。っていうか、できないだろ。そいつが鳥でもない限り」
「ま、そうかもしれないけどね」
溜息をつきつつ、キティはヒゲを垂らした。蓮實淳とオチョはずっと顔色を窺っている。
「なんだい、あんたたち、そんなふうに見て。――わかったよ、好きにしな。オチョ、これはあんたに任せるよ。この人の気が済むようにしてやっておくれ」
これが猫に助けてもらった初めてのケースとなった。ただし、千春のマンションはキティのテリトリー外だったので、近隣を取り仕切るボスに話をつけ、協力してもらうことになった。オチョをともない(というか、ともなわれて)腰掛稲荷へ行った彼は『ニャンミーフレーク 魚介ミックス』を三ヶ月にわたり持っていく契約を結んだ。ボス猫はまだ若かったけど、キティとも懇意なようで二つ返事で引き受けてくれた。
情報は猫のネットワークを介して逐次もたらされる。頭を下げた二日後には「男と会ってた。若い男で、サラリーマン風」と報告があった。そのまた二日後には「おじさんと会ってたよ。たぶん五十代」というのもあった。「また別の男を見た」と聴いたのは五日後のことだ。
「そいつはじっと千春さんを見てた。話しかけたりしなかったけど、遠くから見てた」
報告を受けるたび憂鬱になる彼をキティはたしなめた。
「なんだい、そんな顔して。いいかい? 細切れの話から全体を考えるなんて馬鹿のすることだよ。こういうのはね、もっと時間をかけなきゃならないんだ。見たり聞いたりした中から本当のことを見つけるには時間がかかるのさ。いちいち落ちこんでたら身が持たないよ」
千春の部屋は五階にあった。ただ、裏が高台になってるので猫であれば覗くことができる。だから、「電話がよく鳴ってる」とか「いっぱいお手紙がきてたよ」というのも聞けた。「大きな荷物が運ばれてきた」と報告があった翌日には「段ボール箱がたくさんやって来た」というのもあった。
彼は思い悩んだ。誰かが引っ越してくるってことか? もしかして結婚するとか。いや、別れてからまだ半年も経ってないじゃないか。しかし、電撃結婚ということもある(まあ、それらはカンナの荷物だったわけだけど、このときにはわかりようもない)。そして、やはり「あの男が遠くから見てた」との報告。
様々な情報が蓄積され、懊悩の極みに達する直前に突然千春から電話がかかってきた。
「あの、ちょっと相談っていうか、それに近いことがあるんだけど」
「相談? なんだよ、いったい」
心の中はぐるぐると攪拌されていたものの、なけなしの冷静さを保って彼はそう言った。
「とにかく一度会ってもらえない? 電話で話すのはなんなんで――」
その声は辺りを憚るようなものだった。




