第2章―5
カンナは雑誌を取った。ぺらぺらと捲っては、たまに天井へ目を向けている。
「怪しいもんだわ。あの二人、ほんとにデキてんじゃないかしら」
猫師匠――陰でカンナはキティをそう呼んでいる(とはいっても、言う相手は千春くらいだけど)。なんとなく偉そうだし、彼の態度も師に仕える弟子のような趣があるからだ。
「ほんと、なにしてんだろ。――ま、別にいいけど」
いつしかカンナは彼の〈能力〉に全幅の信頼を寄せるようになっていた。「なんでもお見通しの蓮實先生」というのもハッタリなんかじゃなく、茶化してるのでもなく、本心から言ってるのだ。ただ、実際にどういうことが起こってるのかは知らなかったし、知ろうともしなかった――不可思議なことというのは初めてそれに出会ったときには解明したくなるものだけど、何度も経験すると、そういう気を起こさせなくなるものでもある。自分に理解できるなら、そもそも不思議でもなんでもないと思わせるものなのだ。
とはいえ、こうやってたまに猫と二人っきりになりたがるのを見せられると、そこに不可思議さの鍵があるのではないかとも思う。あの人は猫としゃべってて、いろいろ教えてもらってるんじゃないか? とだ。ただ、仮にそうであってもすべてが説明できるわけじゃない。だって、さっきの奥さんの性格まで教えてもらうなんて無理だし、私が水虫なのを知ってるわけもない。――ああ! もう! なんだか面倒になってきた! 猫としゃべれるなんて馬鹿げてる。それに、ひとつのことも説明できないってのに、そこになにかつけ足す必要なんてある? カンナは雑誌を放り、天井を見上げた。
しかし、その天井の上ではまさに馬鹿げたことが起こっていた。彼は猫としゃべっていたのだ。
「難しいことを引き受けちまったもんだねぇ。どうせ、あの小娘がしゃしゃり出てきたんだろ」
「まあね。でも、気になることもあったんだ。浮気のことだけじゃなく、その男にはなにかありそうなんだよ。俺はそれも知りたいんだ」
「ふうん。ま、あんたは優しいからね。でも、あの小娘は考えものだよ。だいいち年長者にたいする礼儀ってのがなってない。アタシをその辺の子猫と同じように扱うんだからね」
ニヤついた顔で蓮實淳はキティを見つめた。猫と人間とはいっても同性同士というのは、どうしてこうも敵愾心を抱くものなんだろう――そう考えていたのだ。
「なに笑ってるんだい。アタシはね、ほんとに腹を立ててるんだよ。この前は下らないネズミのオモチャなんか出してきたんだからね。馬鹿にしてんだよ、あの小娘は」
「でも、キティは若く見えるからさ」
「ふんっ!」
鼻を鳴らしたもののヒゲはぴんと張った。やはり、女性は女性なのだ。
彼にもこの猫がどれくらい生きてきたのかわからない。キティは自分のことを話したがらなかったし、他の猫たちはほぼすべて彼女より若かったからだ。どうも生まれてしばらくは飼い猫だったこともあるようなのだけど、ここ何年かは野良であり、鬼子母神周辺のボスでもあった。
「ま、いずれにしたってそれを受けるのは考えもんだね。ちょっとばかり危ないかもしれないんだよ」
水を飲みながら、キティはそう言った。
「危ない? なにかあったのか?」
「まあね。――あんた、この近くの学校でウサギが殺されたの知ってるかい?」
「ウサギが? いや、知らないな」
「たまにゃ新聞でも読むんだね。けっこうな騒ぎになったって話だよ」
彼は真顔になった。猫に新聞を読めと言われるとは思ってもなかったのだ。
「で、それがどうかしたのか?」
「アタシたちだって狙われるかもしれないだろ? そういうのが起こるとつづくもんなのさ。前にだってあったんだ。あんときはそりゃ酷いもんだったよ。アタシの知ってる子も殺されたんだ。思い出しくもないけど、バラバラにされて鼠坂に点々と置かれてたんだよ。はっ! 冗談のつもりか知らないが、鼠坂にねぇ! それだけじゃない。アタシは何度もそういうのを経験してる。何度もあるんだよ、そういうのは」
「酷いな」
キティは憮然とした顔をしてる。ヒゲは弱々しく垂れ、瞳の色も薄まっていった。
「ああ、人間ってのはほんと酷いもんさ。――ま、そんな顔するこたないけどね。別にあんたが悪いわけじゃないんだから」
「まあ、そうかもしれないけど」
腕組みしたまま蓮實淳はしばらく唸った。彼は相談者の過去を《見る》ことはできる。そこから類推し、その性格や未来に起こりそうなことを占うこともできた。しかし、失せ物を見つけたり、迷子のペットを捜すとなると、それだけでは無理だった。まあ、指輪を見つけたときは相談者が立ち寄りそうな場所を《見る》ことで捜索すべき地点を絞りこめた。そこへ猫を派遣し、調べてもらったのだ(指輪は植え込みの中にあった)。
しかし、いずれにしても実際的な案件を解決するには猫たちの力が必要だった。まして今回のように浮気夫を直接《見て》いない場合は手がかりすらない。こんなときは猫の組織力だけが頼りなのだ。
彼は弱く唸りつづけた。自分では気づいてないけど、こういうときの表情は女性に保護欲求を生じさせる。キティは人間であれば溜息をつくのにあたるような声を出した。まったく、しょうがないねぇ。この人はアタシがいなかったらなにも出来ないんだから――などと思ってるわけだ。ある種の女性(たぶんカンナや千春もその部類なのだろう)はこういう男のこの手の表情に弱いのだ。ただ、簡単にいうことを聞く気にもなれない。それもこのタイプの女性特有の傾向だった。なにか満足させるようなこと言ってくれるなら、考えてあげてもいいんだけどね。そう思いながらキティは舌先をチロリと出した。
そして、彼にはそういう間にぴったりと合わせられる勘があった。これもある意味では〈能力〉のひとつといっていいのだろう。
「でも、キティ、君の力が必要なんだ」
蓮實淳は瞳を輝かせ(すくなくともキティにはそう見えた)、祈るように手を合わせた。
「みんなにはあの学校に近づくなって言っとく。だから、助けてくれよ。これからは新聞も読むようにするからさ」
「ふんっ!」
キティは鼻を鳴らした。それから、和らげた声をつくり、「それだけかい?」とつけ足した。
「カンナにもきちっと言っとくよ。人間であれ猫であれ年長者には敬意を持って接するようにって。それに、下らないネズミのオモチャは使わせない。それでいいか?」
立ちあがるとキティは尻尾を振るわした。しょうがないねぇ――そう思ってるのだ。そして、声に出してそう言った。
「しょうがないね。わかった、やってやるよ」
「ありがとう! キティ!」
彼は強く抱きしめた。身体を捩り、逃げるような素振りをみせたものの、キティはそのままに任せた。




