第1章―1
【 1 】
都電の鬼子母神駅からほど近く、樹齢の古そうな欅がつづく参道の並びに一軒の怪しげな店がある。よく見ないと通り過ぎてしまうほど目立たぬ陶製の看板には『占い・各種ご相談事』、その下に、これまた小さく『蓮實淳』
太い樹がさしかける影に文字は同化して見にくく、まるであまり重要性はないと伝えるために置いてあるようだった。入口は広く、古ぼけて建てつけの悪いガラス戸が四つ並んでる。それが参道と店を仕切る唯一のもので、隙間から冷たい風が洩れ入っていた。
「なあ、幟でも立ててみようか。ここにゃ載ってないけど、オーダーメイドもできるって書いてある。『占い』とか書いときゃいいんだろ?」
そう言った男――つまりは彼が蓮實淳なのだけど――は年代物の大きなデスクに向かい、分厚い本へ目を落としている。ぴったりと身体に合ったグレーのスーツによく磨かれた茶色のバックルシューズという出で立ちで、髪も綺麗に撫でつけていた。
「駄目よ」
こたえたのはくすんだ緑色のソファに座った女で、『Damn It !!』と大きく書かれたパーカを着て、デニムのショートパンツをはいた脚を組んでいた。彼女もなにか読んでいたようだったけど、それを放るとデスクの方を見た。
「あくまでもシックにいくの。そう決めたでしょ。――大丈夫よ、あなたの〈能力〉は本物なんだから。ま、昨日はまったく駄目だったし、今日もいまのところは駄目だけど、」
彼女はちらと時計を見て(二時四十二分。あらあら、もうこんな時間だったんだ)、それから外を眺めた。風が強く、薄暗い。雪でも降ってきそうな感じ。これじゃ今日も売り上げはゼロかも。――いや、私がこんなふうにしてたら、この人はもっと弱気になっちゃう。
「前に比べたら、だいぶマシになったでしょ。今日だって誰か来るわよ。だから、おとなしくしてなさい」
蓮實淳は本から目を離した。デスクの近くには薄いオリーブグリーンの丸ストーブがあり、鮮やかなオレンジ色の薬罐が乗せられている。天井から伸びたライトは円錐形のかさに白熱灯がついてるもので三つ並んで吊り下げられていた。ラフマニノフの『ピアノ協奏曲三番』が流れるスピーカーには猫頭の像があり、それ以外にも至る所に木彫りの猫が棚から下界を覗くように、あるいはウンベラータの鉢陰から獲物を狙うかのように置いてある。床は細長い板が敷き詰められてるだけで、これも古く、節の脱けた穴をパテで埋めた箇所もあった。すべてが古ぼけていて、まるで深い霧の中に漂う難破船のようだ。
「だけど、やっぱりあれじゃ目立たないんだって。それにシックっていうなら、君の格好もどうにかした方がいい。俺にはあまりシックにみえないけど、自分じゃどう思う?」
「私? 私はいいの」
「どうして?」
「だって、助手だもん。それに、濃淡があった方があなたの真面目ぶってるのが引き立つってもんでしょ。私、これでいろいろ気をつかってんのよ。できれば私もシックな格好したいもんだわ」
「なるほど」
テーブルに放られた雑誌を見て、彼は肩をすくめた。それから、窓の外へ目をやった。人通りはなく、冬の風がガラス戸を揺らしてる。
「ね、いつまで『アスクル』なんて見てる気? あなた、そうやって外のものに頼ろうとしてたから、いろんな仕事駄目にしちゃったんじゃないの?」
「うるさいな」
「幟なんて、つけ麺屋じゃないんだから、そんなの何本立てたって意味ないわ。それに、また大きな看板出そうとかもやめてよ。今はそんなのにお金使ってる場合じゃないの。待つのも仕事の内。焦っていろいろしようと思うと、それだけで働いた気になるものでしょ。無駄にお金も時間も浪費して、けっきょくのとこ損するばかりだわ。思いあたること、あるでしょ?」
首を振りながら蓮實淳は『アスクル』を閉じた。うるさいとは思うものの、「思いあたること」ばかりだったのだ。
カンナは商売の要諦というのを心得ている。この店が「前に比べれば、だいぶマシになった」のも確かだった。いや、前が酷すぎたのだ。日がな一日ガラスの先を眺めてるだけで、お客さんなんて一人も来なかった。まあ、その代わりといってはなんだけど、彼の方も夏場はTシャツに半ズボン、涼しくなるとトレーナーにジーンズといった格好で、とても占い師にみえる姿ではなかった。
「ねえ、もうちょっとは占い師らしい服装ってのがあるでしょ?」
初めて顔を合わせたとき、カンナはそう言った。彼女は蓮實淳の元恋人の従妹だ。非常に簡単にいうとそれだけの関係だった。それがどうして一緒に働くことになったのかは、まあ、いろいろな要因があるのだけど、その最も大きいものは彼の持つ〈能力〉にあった。これも非常に簡単にいうと、カンナがその〈能力〉に強く惹かれたということになる。
ところで、その〈能力〉については簡単に述べるのが難しいので、ちょっとだけ後回しにさせてもらう(簡単に書くと馬鹿げてると思われる可能性があるからだ)。とにかく、カンナは初めて会ったとき、彼の〈能力〉に感嘆はしたものの、その服装なり、態度なり、店の内装なり――つまりは見せ方や売り出し方に文句を言ったのだ。