美しい貴女と共に【原案】
連載している同タイトル作品の原案です。
何年も前の作品ですので、拙いところがあります。
よろしければご感想等頂けると嬉しく思います。
もうすぐこの顔も見ることが出来なくなるのか。
隣に座ってテレビを見ている彼女の横顔を眺めて、そう思った。嗚呼、本当に美しい顔だ。私の好きな顔、彼女の顔を創った神様がいるのならば、心からの賞賛を送りたい。
未踏の雪原のように澄んだ白い肌。見つめれば深く、吸い込まれそうになる夜空のごとき両の瞳。そして何よりも私を魅了するのは、彼女のふっくらとした赤い唇。ルビーのような輝きを放って、見る者が欲を出して手を伸ばさずにはいられない――このような物が彼女を形作っている。
「なあに、じっと見つめて。何か顔についてる? 」
はっと気づけば、彼女はこちらを見つめて不思議そうにしていた。
「あ、いや、ごめんね。雪乃ちゃんは今日も綺麗だなと思ってた」
気を悪くさせたらごめんねと慌てて謝ると、何かが面白かったのか、雪乃ちゃんはふふっと吹き出した。
「なるさんって、本当に私の顔好きだよね。こんな顔でよかったらいくらでも眺めてていいよ」
もう見納めだからね。彼女の、夜空のような瞳の色がさらに深く、濃くなったような気がした。
この狭いビジネスホテルの個室で七日目の朝を迎えた。少しほこり臭いカーテンを開ければ、個室の大半を占めるダブルサイズのベッドで寝ている雪乃ちゃんに降り注ぐように朝の光が入ってくる。つやつやと光を反射させる長い黒髪は絹のようだ。ふっと外を見ると、道行く人々が寒そうに鼻の頭を赤らめながら歩いて行った。寒風吹き荒ぶこの港町の人々は、今日も一日を懸命に生きているのだなあと高みの見物的思考で見ていた。さあ、私も今日一日を生きるために朝食でも買いに行こう。すやすや寝息を立てる雪乃ちゃんの毛布をかけ直し、コートのポケットに煙草と財布を入れてドアを開けた。
近くのコンビニまで来て買い物を終えた。毎日ほとんど同じ時間に鮭おにぎりとメロンパンを買いに行くため、店員のおばちゃんに顔を覚えられてしまったらしい。寒いけど良い天気ねと言って、おまけと温かいココアをくれた。こんなちょっとのことでも人間は幸せを感じられるんだな。
気づけば、ずいぶん遠くまで来た。
人と物にあふれた喧騒の街から、雪乃ちゃんと逃げ出して今日で一ヶ月。もう帰ることはない街。あの大きな街の誰もこんな二人がいたことは記憶に残っていないだろう。
店の前で煙草に火をつけて吸う。寒い外気をフィルター越しに煙と一緒に肺に入れて吐き出せば、煙と寒さで白くなった息が混じって変に濃い煙が、北風に巻き込まれて消えていった。
夢を持って、一人で地元を出た。まさか採用されると思っていなかった第一志望の会社はこの大きな街にあった。働いて一年目はわからないなりに必死に頑張った。長年憧れていた仕事は大変だったけれど、やりがいに満ちていた。しかし、だんだん自分が立っている場所が底なし沼のようになって地獄に変わっていたことを知る。気づいた時には、頭のてっぺんまでどっぷりと沈んでいた。
他人の足を引っ張り合う歪な人間関係。理不尽に責める上司。そこにのし掛かってくる激務によって、帰宅できる日は一ヶ月に数日となった。体重は十キロ以上も減り、目の下のクマは消えなくなった。
気づけば、ボロボロだった。しかしそのときの私は、もはや自分の心がどれ程蝕まれているのかも理解できなかった。この街に出てきてきた時の、一人の夢見る人間はいとも容易く壊れたのである。
上司に久し振りの帰宅を許された。それでも終電で帰って、始発で出勤だ。
「間もなく、一番線に○○行きの電車が参ります。危ないですので、黄色い線より内側にお下がりください」
電車が来る。それに乗れば、またあの地獄に行かなくてはならない。生きて地獄に行くならば、死んだほうが天国に行けるかもしれないぶん、いいのかもしれない。
足が、動き始めた。
ただ前に進むと、足が黄色い線を越えた。なんだか周りがざわざわしているけど、何を言っているのかはわからない。
パーっと電車の汽笛が鳴る。ごめんなさい。最後まで迷惑掛けてごめんなさい。でも、これで楽になれると思うんです。
「危ないってば! 」
グッと後ろに手を引かれる。身体が後ろに傾くと同時に電車がいつもの何倍も強い風を巻き起こして、目の前を通り過ぎていった。
「お姉さん何やってんの! 危ないって何回も言ってんじゃん。死にたいの? 」
手を引いたのは若い女の子だった。なんだかとても綺麗な子。
「膝擦り剥いてる。血でてるよ。手当てしてあげるからあっち行こう」
彼女は再び私の手を取って歩き出した。よく周りを見渡せば、ホームの人々はこちらを奇異の目で見ている。そんな目で、見ないで。ごめんなさい。
ちょっと歩いてホームの端の椅子まで来た。彼女は私を座らせ、鞄からハンカチを取り出して血の滲む膝に当てた。
「痛い」
「当たり前でしょ。痛くしてるの」
暫くしてやっと血が止まった。彼女は可愛らしい柄の絆創膏を膝に貼って、私の目をじっと見つめた。
「さっきさお姉さん死のうとしてたの? 」
「死のうとして……いたんでしょうか。自分でもわからないんです。ただ、なんだかもう疲れてしまって。楽になりたかったんです」
「さっきさ、私が腕引っ張った時、お姉さん泣きそうな顔してたよ。まあ今もだけど。何があったのか知らないけど、本当はお姉さん死にたくないんじゃない? 」
気づけば私は、目からボロボロと涙をこぼしていた。死ねば楽になれると思っていた。楽になりたいから、死のうと思った。死にたいわけでは、なかった。
「もう一つハンカチあるから貸してあげる。涙拭きなよ」
彼女はそう言って、もう一つのハンカチを差し出した。
「何から何までありがとうございます。あの、このお礼は必ず……ハンカチもそのときに洗って返します」
「そんな気にしなくていいのに。ごめん、そろそろ行かなきゃ。一応これ連絡先。だいたいお店にいるからあんまり電話出られないかも」
彼女は私に名刺を差し出すと、スタスタと歩いて行った。
受け取った名刺を見ると、紫の蝶々が飛び交う派手なデザインだった。表にはいかにもな店の名前と「雪乃」の文字。なるほど、彼女はいわゆるキャバ嬢だったのか。自分とは縁がないと思っていた世界の住人に助けられるとは。気づけば頭の中はすっかり「雪乃」のことでいっぱいになっていた。このお店に行けばもう一度会える。なぜだかその時の私は、心臓が高鳴るのを感じた。
次の日会社に行くとめちゃくちゃに怒鳴られたが、雪乃さんにお礼をするまでは死ねないと頑張った。また何日も家に帰れない生活は辛かったが、今日までなんとか耐えた。そうして今日、遂に雪乃さんのお店まで行く。あの時のお礼をしなければ。私は繁華街に足を向けた。
「ここか」
人生初となるキャバクラの入り口。なんだか緊張する。無駄にスーツの襟を正し、店内に進む。
「いらっしゃいませ。一名様でしょうか」
入ってすぐに男性に確認された。キャバクラに対してはドラマや映画くらいの知識しかないが、おそらく彼は「黒服」というやつだろう。はいと答えると席に通された。
「当店のご利用は初めてでしょうか」
またも黒服の彼に問われたので再びはいと言うと、システムについて詳しく教えてくれた。私が感心していると、
「本日指名したい子はいらっしゃいますか」と、言うので
「雪乃さんを……お願いします」と、答えた。
少々お待ちくださいと黒服が離れた。もう少しすればやっとこの間の感謝が伝えられる。私は、遠足前日の子どものように落ち着かなかった。
「お待たせしました、雪乃です! 本日はご指名ありがとうございます……ってあれ? この間のお姉さん」
彼女は私の顔を見てすぐに気がついたようだった。来てくれたんだーと嬉しそうに言いながら彼女が隣に座った。華やかだけれど決して不快にならない品のいい香水の匂いを感じて、改めて自分は場違いだなと思った。
「あの、これこの間のお礼と借りていたハンカチです。ハンカチは洗濯しました。本当にありがとうございました」
紙袋を差し出すと彼女はいえいえと言って受け取った。
「あれ以来お姉さん大丈夫だった? 心配してたんだ」
「ええ、まあなんとかやってます。最近はとりあえずこのお礼を返すことを目標に頑張ってました。ははっ」と、乾いた自虐的な笑いが出た。
「じゃあ目標なくなっちゃったじゃん。これから大丈夫? 」
「なんとかします」
それからしばらくの間他愛のない話をした。私の名前を教えたり、日常の話など思いの外彼女とは話が盛り上がり延長もした。こんなに人と喋ったのはずいぶん久し振りだ。だがそんな時間も間もなく終わってしまう。
「あの、またここに来て雪乃さんを指名していいですか?」
終了間際にそう聞くと、
「さんはつけなくていいよ。またお話ししよう。楽しみにしてるね、成海さん……じゃなくって、なるさん」
「あ、じゃあまたね。えっと、雪乃……ちゃん」
こうして私には、日々を生きるための目標ができた。
それから数少ない時間を使って何度もお店に通い詰め、その度に雪乃ちゃんを指名した。
そのうち、私は彼女がとても美しいことに気づいた。
そうして、私は彼女のその美貌に心酔していった。
あの時彼女に助けてもらったおかげで、彼女と時々でも話せることで、その美しさを拝めることで、私は今日も生きている。
それは、もう何回あのお店に行ったのかもわからなくなってきたある日のことだった。季節は流れ、彼女と出会った夏はとっくに過ぎて、冬が目前に迫ってきている。
その日指名した雪乃ちゃんは、なぜだか様子が変だった。必死に取り繕っているようだけど、ふっとした瞬間に顔が曇るように思えた。
「何かあった? 」
私がそう問えば、いつものような笑顔を浮かべて
「なんでもないよ」と答えた。
その日から雪乃ちゃんは、二ヶ月姿を見せなかった。
雪乃ちゃんが行方をくらました。こまめに届いていた連絡もぱったりと途絶えた。何度か黒服さんに尋ねたが、店の人たちですら誰も行方を知らないらしい。
私は、すっかり生きる気力を失ってしまった。まず仕事が手につかず、辞めた。これに関しては遅かれ早かれ辞めるつもりだったのだ。いいタイミングだ。
毎日毎日来るはずのない雪乃ちゃんからの連絡を待つ。まるで、犬になったようだ。まあ、彼女に拾われた命だ。あながち間違いでもない。
リリリッと短く電話が鳴った。飛びつくように手に取り画面を見ると、一件のメッセージを受信している
『今夜七時 駅前のファミレスに来てほしい』の、メッセージ。
差出人はもちろん、雪乃ちゃんだった。
言われたとおりにファミレスに七時に着けば、雪乃ちゃんがいた。二ヶ月ぶりの彼女はこちらに気づいて微笑んだけれど、ひどくやつれた顔は弱々しい笑顔が浮かぶだけだった。
「二ヶ月どこに行ってたの」
私は店に入って席についてすぐに聞いた。
「ちょっと……いろいろあって」
彼女は自分の手元に視線を落とした。
「実は友達に騙されちゃって、知らないうちに借金の連帯保証人にされちゃってたんだ。しかも友達逃げちゃったみたいで、私に請求来てるの。」
急な話の展開に頭がついていかない。ぐるぐる回る頭の中を落ち着かせ、やっとのことで出た言葉は
「い、いくらくらいなの? 」という、しょうもない言葉だった。
この話を振られた時点で、これはお金を貸してとかの頼みをされると思っていた。貸せる額であれば貸そう。
「八千万円」
彼女の口から出た言葉は、もはやそこら辺の人間が払えるような金額ではなかった。
「はっせんまんえん……」
「絶対無理だよね。私もそう思う」
「それって闇金融だよね。警察とかに相談するのは」
「たぶん無理。つぎ金融屋に見つかったら、私どうなるかわからないし」
背筋が冷えるのがわかった。金融屋の恐ろしさにじゃない。また、彼女が私の前から姿を消すかもしれないことにだ。
「それでね、私もう死んじゃおうかと思って。今日ここになるさんを呼んだのもそのため。ありがとうとバイバイって言いたくて」
モウシンジャオウカトオモッテ?
彼女は今そう言ったのか。この世界から雪乃ちゃんが消える? 永遠に。そんなの耐えられない絶対。思考がウイルスにやられたかのように言葉が荒れ狂って氾濫する。
普通の人ならここで出すのは優しい言葉や慰めだろうけど、私は
「私も、雪乃ちゃんと一緒に死にたい」
という嘆願だった。おそらく彼女も気づいていたんだ。私がこういうことを言うだろうということは。それからはとんとん拍子に進んでいった。条件は金融屋から逃げるため遠くで死ぬこと。海の近くで死ぬこと。
そうして今この海沿いの町にいる。
ここは二人の理想の町。
「今日の夕方にしよっか」
朝食を持ってホテルに戻れば、ベッドの上の雪乃ちゃんが言った。
「うん、そうしよう。とりあえず朝ご飯ね」
私はメロンパン、雪乃ちゃんは鮭おにぎり。今日も変わらない。これが人生最後のご飯だなんて、なんだかあんまり安上がりで笑ってしまう。でも、嫌いじゃない。
「準備オッケー! 」
時刻は午後三時。雪乃ちゃんはこれから死ぬというのに髪のセットも化粧もばっちりだ。
死に場所は、この町に来て一日目に決めておいた。マップに登録した場所までのナビを開始すると、ここから三十分坂を上り続けるルートが表示される。なぜならそのルートしかないのだ。
死へと続く道は、上へ上へと続いてく。目指すのはこの町で一番海に面した高いところだ。私と雪乃ちゃんは特に話さず一歩ずつ歩みを進める。
目的地には、きっかり三十分で着いた。下には滞在してい1た町が見える。あ、ホテル。あ、コンビニ。なんだか不思議な気持ちだ。ジオラマを見ているみたい。人が暮らしているように見えないんだよなあ。自分は今まであのちっぽけな、何分の何スケールかもわからないようなところにいたのか。じゃあ、あの雪乃ちゃんと出会った大きな街では、私も他のやつももっとちっぽけな存在だったことだろう。
「そろそろ飛ぼうか。ぐずぐずしてると暗くなっちゃう」
ずいぶんと傾いた日を見て雪乃ちゃんが言う。
二人で崖際の柵を越えた。下を見れば波がうねって岩を飲み込んでは引いてのくリ返しだ。
「せっかく二人なんだし、手でも繋ごうよ」
雪乃ちゃんが私の手を握る。手は、少し震えていた。
「なるさん、今更だけどこんなわがままに付き合ってくれてありがとう。私、なるさんを利用したんだ。電車に飛び込もうとしたなるさんに、あんなに恩着せがましく、お姉さん本当は死にたくないんだと思うなんて言ったのに、結局私が一人で死ぬ勇気がないからなるさんを……」
雪乃ちゃんは、泣いていた。パールみたいな大粒の涙が白い肌をつたって地面に落ちて消えていった。
「私は本当ならもう一回死んでいるはずなんだ。そんな命を拾ったのは雪乃ちゃんなんだから、雪乃ちゃんがどうしようと自由だよ」
そう、死んだ命も心もここまで動かしたのは雪乃ちゃんだ。
「じゃあ最後にさ、一つだけ私のお願い聞いて」
雪乃ちゃんは泣いた目をこすって、なあにと言った。
「雪乃ちゃんの唇……触っていい? 」
雪乃ちゃんはその大きな目をさらに見開いた。
「なるさんったら最後まで……本当に私の顔が好きだね」
いいよと呆れたように笑うその唇に指で触れる。ルビーみたいだなんて思ってたのに、ほんのりと温かくて、なんだかとても幸せになった。満足して指を離す。
すると、雪乃ちゃんが私の肩に腕を回してキスをした。
そしてその瞬間、脆い足下の岩は崩れ、落ちた。
飛び降り自殺をする時に、落下時間と体感時間は異なるという噂を耳にしたことがある。落下時間はほんの数秒なのに落ちていく人はそれよりも長いと感じるらしい。
この時間は、あとどれくらい続くのだろう。あんなに触れたかった雪乃ちゃんが私の腕の中にいる。こんなに近くにあの美しい顔がある。
嗚呼、もうすぐこの顔も見ることが出来なくなるのか。
残念だなと思うと同時に、彼女は泡に包まれて消えた。
しばらく連載の方を進めることが出来ていないのでこちらの原案を公開しました。
この原案からだいぶ改変し、登場人物をもっと掘り下げた連載にするつもりなので、連載の方も気長に待っていただけたらと思います。