惑星クラッシャー
雲のない空を気持ちいいという奴がいる。
僕にはその気持ちがわからない。肌を突き刺す紫外線が気持ちいいと感じているならそうとうなマゾヒストだし、一億四千九百六十万キロ離れた太陽との間に遮るものがないことなら太陽のお隣である水星にでも転居すればいい。とはいえ、いま考えているようなことは早々に口にすることはできない。なぜなら奴は一般的に言うところのカノジョという分類に当たるからだ。
ヒト科ヒト属ヒト族カノジョというものには必ず近縁種のカノジョノトモダチという生き物が共生関係にあり、ときにエサを与えあったり自らの美醜を際立たせるために利用しあっている。「私のトモダチでめっちゃ可愛い子いるよ」と言われて来るのは他称『性格の』可愛い子であって僕たち男性から見て可愛い子であることはない。
さらにトモダチたちの前で「カノジョの料理が不味くて」なんて言った日には罵詈雑言でののしられながら「カノジョの料理は美味しいです」と言わされる。彼女たちの共生関係ほど強く儚いものを僕は知らない。だから、カノジョのトモダチとの食事会に誘われると僕の胃はキリキリと締め上げられる。カレンダーの日付が月火水木金とカウントダウンされて金曜日の夜には高級なハムみたいにギチギチで物を食べるような余裕はない。
それでも土曜日にイイカレシをするためには、笑顔で酒を飲み。面白い話をしてカノジョを持ち上げながらトモダチも持ち上げなければならない。カノジョだけでも精いっぱいなのにトモダチもとなると翌日の朝には気力も覇気もなく日曜日が浪費される。そして、次の日からはまた社会の歯車としてクルクルと回りに行くのだから休まるという気持ちがない。
太陽の周りを回っている惑星たちもそれは同じで「いい加減休みたい」と思っているのかもしれない。さらにそんなことを言っていると土星の衛星あたりから「こっちはもっと小刻みに回ってるんですから文句を言わないでください」と苦情が来ることもあるかもしれない。
だから、派遣でやって来たカザミと出会ったときの驚きはすごかった。
「うちに来る前は何をしてたんです?」という雑談に対してカザミは「一年くらいは何もしてなかったですよ。飯食って寝て、起きて飯を食う。そんな感じ」と答えた。僕がクルクルと歯車として、またカレシとして役割を果たし続けているあいだ、カザミは超然と動きを止めていたのだ。誰もかもが回っているなか一人だけ動かないことを選べる。それはある種とても幸せなことではないか。とはいえ、働かなければ衣食住は確保できない。
原始のようにすべての大地が家だと言えるような時代ではない。壁と屋根があって布団がある。そんななかでしかもう安心して眠ることができない。それが今のヒトなのである。だから、僕はカザミに少しの憧れと陰険さをもって訊ねた。
「よく一年も金があったな」
僕はカザミが「親の金ですよ」とか「ニートですからね」と卑屈に言うことを期待していた。だけど、カザミは違っていた。
「一年何もしないために一年働くんです。だから今年働いたらまた来年は働きません。基本的に向いてないんですよ。人と関わるのも働くのも」
そう言ったカザミは不敵に微笑んで見えて僕はなんとなく敗北した気持ちになった。余りのことなんて気にせずに割ってしまえばそういう在り方もありなのだ。だが、小学生の割り算で余りが出ることに違和感を覚えた僕には難しい。
大人になって思うのは世の中には余りが多いということだ。
きっちりと割り切れることのほうが明らかに少ない。子供のときに余りを容認できていればこんな細かいことに躓かなくてよかったのかもしれない。だが、性分というものか。僕には難しい。その点でカザミは自分が余りだとはなから割り切っているようであった。
欠けているところや余っているところに余りを持っていく。カザミの仕事はいつもそうだった。何かをゼロから興すという気はない。頓挫している企画や余剰の案件を埋めて解決していく。だからカザミがいる一年間は仕事が楽になった。同僚のいく人かはそれに気づいているらしく「延長してほしいよな」とか「お前から言ってくれよ。仲いいだろ」とこちらに言ってくるが、僕はカザミとそれほど仲がいいとは思っていなかった。
僕が衛星ならカザミは小惑星だ。
惑星の周りをクルクルと回り続ける僕に対してカザミは公転軌道が近づくときだけ接しているに過ぎない。長い人生の中ではほんのわずかな遭遇だ。軌道次第では二度と出会わないそれくらいの薄っぺらな関係なのに仲がいいとはどいつもこいつもレーザーが狂っているとしか言いようがない。
だから、社外でカザミと遭遇したとき僕は大いに困惑した。
地味目のグレーのスーツに眼鏡というカザミしか知らなかったからだ。土曜日にカノジョに呼び出されて買うのか買わないのかも分からない服や雑貨の店をだらだらと歩かされて「似合う」とか「似合わない」と訊ねるくせにこちらの意見を聞こうとしないカノジョはやはり種が違うのだ、と思いながらもイイカレシという種である僕はカノジョと共生しているのだからと諦めた。
香水の瓶に竹串を刺した芳香剤や蛍光色のトイレボールに似た入浴剤を売っている店から出ると目元を真っ黒に染めて、腹や肩を露出した服なのかベルトなのか分からない服を着た女に頭を下げられた。
誰か分からずにカノジョの知り合いかと横を見ると首をかしげていた。もう一度前を見ると女が口を開いた。
「カザミです」
あっけにとられて「ああ」と絞り出すと隣にいたカノジョが肘打ちをしながら「誰?」と厳しい目をするので「同僚だよ」と短く答えた。
「アタシはタクミのカノジョでミキって言います。いつもタクミがお世話になって」
カノジョが僕の言葉を遮るように微笑む。カザミはカノジョを上から下まで無機質なガラスレンズのような瞳で眺めると抑揚のないいつもの声で「素敵なアクセサリーですね」と褒めた。カザミにそういう社交辞令ができるとは知らなかった僕はひどく驚いた。
カノジョは社交辞令を真に受けたのか首から下げたネックレスを手でいじりながら「タクミが誕生日プレゼントでくれたのよ」とカザミに見せびらかすような仕草をした。カザミは首を左右に振ると「違います」と短く答えた。
だとすれば何が素敵に見えたのかとカノジョに視線を移すが、今日のカノジョはネックレス以外には大したアクセサリーをしていない。ピアスも時計もほどほどであってもすごく映えることはない。
「え?」
カノジョはひどく困惑した顔をしたが、カザミは顔色を一つかえずに足りなかった言葉を足した。
「横のアクセサリーですよ」
カザミが僕を指さすとカノジョは顔を真っ赤にして何かを言おうとしたが言葉にならなかったらしく口をパクパクと動かしただけだった。カザミは「では、失礼します」と言いたいことだけを言って去っていった。その後のデートは一方的に僕がなじられて、言葉というものは同じ種の間でしか通用しないものだと考えさせられた。
月曜日。出社した僕は朝から疲れ切っていた。
土曜から日曜とカノジョから浮気だどうだの詰問され、別れたいと言ったかと思えば別れなくないと言われもう勝手にしてほしいと伝えて僕の惑星は消えていった。惑星がなくなったら衛星はどうなるのか。そんなことをぼんやり考えているといつものグレースーツのカザミがやって来た。
土曜日にあったのがカザミであったのかさえ疑わしいくらい見た目が違っていて僕は笑った。
「何がおかしいのですか」
「いや、思い出し笑いだ」
「本日を持ちまして離職いたします。お世話になりました」
カザミは熱量の変動がないような動きで頭を下げた。
「また一年冬眠か」
「ええ、人と関わるのは苦手です」
「よい夢を」
僕が手を振るとカザミは少しだけ気まずそうに「怒らないのですか?」と言った。
「割り切れない割り算が一つ増えただけだ」
「そうですか」
「ああ、最後に質問だ。惑星が無くなったら衛星はどうなると思う?」
カザミはいつもの感情のない顔で「惑星を飾るアクセサリーじゃなくなって喜んでいるんじゃないですか」と伏し目がちに言った。
「わかった。またどこかで」
「はい、また」
そう言ってカザミは退職していった。
僕はといえば少しだけ自由になったことにわずかな喜びと寂しさを覚えて惑星を破壊したクラッシャーがどこを流れているのだろうかと窓から空を見上げたが、沸き立つ入道雲ばかりの空には星一つ見えなかった。だが、雲一つない空よりも気持ちいいと感じた。