第一章 3
1944年7月26日夜 バシー海峡
巨大な固まりが水中を進んでいた。
地球上で最も巨大な生物シロナガスクジラですら体長30メートルと考えると、巨体の大きさは長さだけで四倍近くある。
とうてい生物ではなかった。
身体も分厚い脂肪ではなく海水などの影響で少しぬめるも固い鋼鉄で覆われており、醜い突起や凹凸が幾何学的に刻まれている。
側面から見ると先端部は小刀のように鋭い形状で、背鰭に当たる部分も様々な幾何学模様と醜悪な突起が集中している。
そして極めつけは尾鰭。
下腹部後部には巨大なスクリューが2基あって常に回転し、その後ろには大きな舵も見える。
当然クジラなどではなく、人が文明という力を用いて作り上げた人工構造物、破壊のために誕生した兵器、潜水艦に他ならなかった。
名前を『伊号第二九潜水艦』と言い、 伊一五型潜水艦型と呼ばれる、大日本帝国海軍の潜水艦だ。
航空機を搭載でき、巡潜乙型とも呼ばれる。
本クラスは潜水艦は第三次及び第四次海軍補充計画によって20隻建造された。
太平洋戦争における大日本帝国海軍が最も多く建造した大型潜水艦である。
設計にあたっては先のクラスに当たる巡潜甲型(伊九型潜水艦)を参考にしている。
全長108・7メートルあり、排水量は水中3654トンに達する大型艦だ。
最大速度は、水上で23・6ノット、水中でも8ノット発揮可能な優秀な能力が特徴だ。
航続距離も14000海里あり、太平洋のどこにでも赴くことができる。
兵装もぬかりなく、日本海軍の誇る酸素魚雷の潜水艦用、95式酸素魚雷17本を、6基の魚雷発射管から射出できる。
しかも、水上偵察機で偵察能力も高い。
しかもこの《伊29潜》は、ドイツへの訪問の際、従来の25ミリ機銃3基をドイツのマウザー式20ミリ4連装2基と、クルップ社の37ミリ単装機関砲に換装して、対空防御力を著しく強化してある。
その上、ドイツで電探も増設しており、日本最強の潜水艦と言っても過言ではないほどだった。
しかし、欠点もある。
日本海軍に属する潜水艦全てに言える事だが、静粛性能が他国の潜水艦に比べて劣っており、電波兵器、音波兵器に関しても連合国に溝を空けられていた。
つまり、日本の潜水艦よりアメリカの潜水艦の方が遠くから相手を見るける事ができ、戦闘を有利に運びやすいという事だ。
しかし戦場では運の所在がどちらにあるかで、状況が大きく左右される。
少なくともその日、幸運は《伊29潜》にあった。
「感5、消えました、……また感5」
「距離、水深は分かるか?」
水中聴音器とつながったヘッドフォン型レシーバに耳を当て、瞑想する僧侶のように瞳を閉じる聴音手に、司令塔からの電話の声が聞こえてきた。
艦長の木梨の静かに問いかけだ。
声には冷静さと緊張が適度に混ざっており、緊急時に耳にする声色になっていた。
「距離は6000以上。潜望鏡深度と思われます。海流が大きな変温層を作っているらしく、偶然音を拾ったようです」
木梨は相手が何かは、もう聞かない。
世界中の海で音を聞いてきた熟練者の耳を疑うのは、自らの耳を疑うよりもあり得ない事だ。
しかも彼はドイツ海軍から色々と専門的な話を聞いている。
無事帰国できれば、教官補に推挙して他の聴音手の教育に当たらせても良いと考えていた。
そして、彼が遠く彼方で聞き分けたのが、二軸で独特の水をかき分ける音。
潜水艦、しかも敵の潜水艦、アメリカ海軍のガトー級潜水艦だ。
「音は本艦より南南西方向に移動中。このまま行けば、音を逃す可能性があります」
逃げることも可能か。
木梨は内心で答えの一つを自問する。
自らの任務を思えば一番妥当な選択だ。
何しろ《伊29潜》にはまともに戦う手段がない。
本来十七本も積んでいるべき自慢の酸素魚雷は、往路で持っていた僅かな護衛用もほとんど全てをドイツ海軍に渡している。
そして空いた空間を改造して貨物倉庫にしていた。
もちろん積載されているのは、帝国の命運を握るかもしれないドイツの優れた兵器、技術に関連するものばかりだ。
残っている酸素魚雷は、念のための自衛用に2発だけ。
他にも魚雷があるが、使用することは規格の問題からできなかった。
何しろドイツ海軍が使う「T5魚雷」という誘導式の魚雷だ。
使用できるのなら、今が最大のチャンスと言えたが、それは適わぬ事だ。
(無理にでも使えるように調整しとくんだったかな)
今更な事を思考の片隅で思った木梨は、冷静さのフェイクを被った表情を崩さないまま命じた。
「進路一六〇。速度5ノット。これより本艦は迂回進路を取る」
ヨーソロー。
部下の声を聞きながら思った。
(そう、結局選択肢は一つしかないのだ。帰還が少し遅れることになっても、敵潜水艦をやり過ごすより他ない。それが今の《伊29潜》の任務だ)と。
そもそも、海峡突破の際の潜水航行を決めたのは木梨自身であり、それも艦の生存率を高めるためだ。
目の前に不意打ちできる敵がいたからと言って、方針を変更する必要性はどこにもない。
かえって艦を危険にさらすだけだ。
その上、木梨にバシー海峡での潜水航行を決意させたのは、便乗者の山科中佐との会話に負うところが大きい。
もし彼が乗艦していなければ、比較的安全な海域と侮って、進路上にいるガトー級に遅れを取っていた可能性は十分以上にあった。
木梨は内心冷や汗をかきつつ、事前に危機を回避できた事を幸運と考えつつ、艦を慎重に現海域から離脱させる作業に専念した。
その後、幸いにして敵潜水艦にこちらの動きが探知される事はなかった。
回頭中は特に神経をすり減らしたが、聴音手の耳は確かだった。
変温層の効果のため、向こうは何も聞こえてなかったのだ。
部下への信頼をさらに深めた木梨は、30分慎重に水中を進めると、ようやく潜望鏡深度への浮上を命じた。
だが、それからも二時間、速度を8ノットに上げつつも水上には出なかった。
本来なら日本の潜水艦にできない芸当だ。
「急造ながら、例のシュノルヒとやらは今回も役に立ってくれていますなあ」
乗員を安心させるため、先任将校があえて軽い口調で話しかけてきた。
そろそろ安全なのでは、というサインだ。
瞳が雄弁に物語っている。
「ああ、山科中佐のおかげだ」
木梨の視線の先には、比較的空間に余裕のある発令所で様子を見守っている山科の姿があった。
もっとも彼のいる司令塔からは一階層下になるので、見下げる形になっている。
シュノルヒ。
英名をシュノーケル。
原理は簡単で、ディーゼルの吸気管を二つに分けて伸ばしただけのもの。
本体が水中でも空気を利用出来るようにするための機械だ。
これにより潜水艦はほとんど海上に姿を現すことなく、海中でも電池推進ではなくディーゼル推進が可能だった。
つまり長期間海中で活動ができる、潜水艦にとって極めて有効な装備だ。
発明はオランダだったが、オランダの占領後によりドイツが技術を入手して装置を完成させる。
その後潜水艦や渡河能力を持つ戦車にまで応用され、欧州では広く活躍している。
連合国は全く保有していないので、秘密兵器と言っても過言ではない。
日本にも技術は伝えられたが、実際装備されるのは現在建造中の一部の潜水艦だけと言われている。
設計・構造が複雑すぎて、日本の工作程度では量産が極めて難しいのだ。
《伊29潜》が装備しているシュノルヒも、欧州を訪れた際に急遽取り付けられたものだ。
急な乗船が決まった山科中佐が、ドイツ海軍と掛け合って装備を揃え急ぎ改装工事をさせたのだ。
だからこそ山科は、便乗者の中で一番最初にやって来たとも言えた。
据え付けると言っても、一日や二日でできる事ではないのだ。
しかし《伊29潜》のものは、既存の吸気管に無理矢理取り付けたようなものなので機械は完全な状態ではなかった。
何度か使用された時も、潜水中の充電と空気の入れ換えに試験的に使ったぐらいだった。
ディーゼルを用いた本格的な水中航行は、試験的に二度ほど穏やかな海で行ったにすぎない。
もちろんそれでも十分有効だった。
長期潜水中の潜水艦特有の二酸化炭素濃度の上昇が多少なりとも避けられているのだから、文句を言う乗員もいなかった。
二酸化炭素がもたらす身体の鈍り、思考の低下は、戦場では命取りになりかねない。
そして今は、ディーゼルを使いながら潜水航行を行っており、先任将校の言葉となった。
木梨は先任の言葉に同意すると同時に、もっと早くドイツから技術を輸入できていたらと、開戦以来の出来事と半年以上の航海を振り返るように瞑目してしばし思いをはせた。
もっとも物思いにふけったのはほんの一瞬で、すでに決めていた考えを口にした。
どちらかと言えば、口にする機会を狙っていた言葉でもあった。
その辺り、先任将校との呼吸はピッタリだった。
「先任、浮上するぞ。ゆっくりでいい、メインタンク・ブロー。達する、こちら艦長。各員浮上に備えよ」
言葉の後半を艦内放送向けのマイクに向けた木梨の言葉と共に、圧搾されていた空気が重力タンク内の海水を徐々に押し出し、艦も緩やかな角度を描きつつ背鰭に当たる艦橋を海上に押し出していく。
すでに水深5メートル辺りにいた艦は、周りの海をゆっくりと押しのけて浮上。
艦内には、海水がゆっくり流れ落ちていく心地よい振動が伝わっている。
そして艦橋が水上に出るかでないかの内に、それぞれのハッチに人が集まり浮上態勢が整えられていく。
浮上するとすぐにハッチが開かれ、兵士たちがラッタルをかけ登って行く。
木梨も彼らに続き、まずは目視と電探による状況確認だ。
「船体に異常認められず」
「周囲に船影なし」
「電探、反応なし」
「逆探、反応なし」
様々な報告が入る。
全て艦の安全を伝えるものだ。
浮上した場所は、通過予定のバシー海峡中央部から30キロほど離れた海域。
主要航路の側とは言え、航行する友軍艦船は激減している。
輸送船団も、独航を避けて護衛艦艇に先導されて数隻の船団を組むようになっているから、そこかしこに輸送船が航行しているような事もなくなった。
漁船の多くも徴用されているし、だいいち海流が強く航路が集中している場所で操業するものは少ない。
また、シンガポールで得た最新の情報から考えれば、敵がいたとしても、数時間前に確認したように無制限通商破壊を行っている潜水艦ぐらいだ。
米機動部隊が強大になったとは言え、まだ南洋航路に入り込むだけの余力はない。
米主力艦隊は、まだマリアナ諸島に張り付いているからだ。
木梨自身も胸元につるした双眼鏡で周囲を一通り確認すると、司令塔に降りレシーバーを握った。
「達する、こちら艦長。本艦は30分間の浮上後、当初の予定を変更して主要航路を外れ、隣りのバリンタン海峡のバブヤン諸島寄りを通過する。また海峡周辺を完全に突破するまでシュノルヒ航行を行う。各員は慎重を期すべし。
……あと2日で呉だ、よろく頼む。以上」
放送を終えると、人が減って少し空間にゆとりのできた司令塔に山科が上がって来た。
木梨の言葉に活気づいた潜水艦内で一人静かな瞳をして、何かを言いたげに木梨を見つめている。
顔の険しさはいつも通りだったが、気のせいか常に比べて焦りの色が垣間見えた。
「よろしいですね、山科中佐」
「もちろん。ただ、敵の電探には注意した方が良いだろう。ドイツでは、連合国が逆探で捉えられないマイクロ波を使用する電探を用いて、Uボートが多大な損害を受けている。浮上は控えた方が……」
そこまで言うと、少し顔をしかめて続けた。
「いや、失礼。艦の指揮権は木梨中佐にある。先任とは言え、失言だった」
そんな山科の言葉と仕草に以前より人間味が戻っている事を感じる木梨だったが、今は彼の言葉のみを重視した。
慎重でない者と同様に、技術、情報を軽んじる潜水艦乗りは長生きできない。
けっきょく木梨は今言ったばかりの前言を撤回し、シュノルヒの様子を見つつ昼間も潜水航行を続けることにした。
その後《伊29潜》は、昼間なら水上から丸見えながら、海中を速力8ノットで慎重な歩みで進んでいった。
あまりに慎重すぎると思わなくもないが、苦言を言う者もいない。
誰もが、半年以上の苦難の航海を無駄にできないという気持ちだったからだ。
そして速力が水上航行より遅いため、夕方近くにようやく太平洋の出口へと至りつつあった。
ここを抜ければ、沖縄海域。
内地に入ったも同然。
自然と乗員の気持ちに緩みが生じていた。
しかし破局は、思わぬところから突然訪れる。
「高速スクリュー音探知。方位〇〇五、距離二〇〇〇、雷速四〇、雷数、四」
艦の中で最も静かな場所に部屋を構える水測長から、冷静な声がレシーバーを介して伝わってきた。
なぜだ、なぜ気付かれた。
そう考える木梨だったが、口は脊髄反射のごとく対応を指示していく。
「シュノルヒ中止。電池切り替え、速力八ノット。急速潜行、深度五〇。
……いや、全て中止、現状維持。水測長、敵潜は分かるか」
「待ってください。……感三。スクリュー音探知。距離一九〇〇、進路〇〇三、速力六〜七ノット。深度四〇。
まっすぐこちらに向かっています。島影の海流と変温層に隠れていた公算大。恐らく昼間の潜水艦です」
不意打ちされた。
木梨の内心は乱れる寸前だったが、状況変化を聞きつけて士官室から急ぎ発令所に顔を出した山科の顔を見るなり、一つの妙案が浮かんだ。
(そう、向こうはこっちが普通の潜水艦だという前提で動いている)
「シュノルヒそのまま。急速浮上しつつ全速前進。速力二十四ノット。機関長、機関全開だ! 甲板員も準備。ただし、急速潜行もあり得る。注意せよ」
足下では、いったんは艦首方向に走ろうとした非番の乗員が逆方向に向けて駆け抜けていくのがチラリと見えた。
急速潜行を1ミリ秒でも早く達成するべく、即時移動可能な「重し」が艦尾に集中していくのだ。
また、甲板員が発令所を抜けて急ぎ司令塔にあるハッチに取り着く。
木梨の側では、海図長の兵曹長が、小さな海図の上で定規とコンパスを使って、それぞれの位置を素早く記入している。
先任将校は首に架けていたストップウォッチに目を据えつつも、木梨の命令を待っている。
木梨は、いつもの二人を見て精神を安定させつつ水中のイメージを膨らませた。
魚雷が四本。
真っ正面から狭い扇の形を描いて、時速40ノットで突進中。
その後ろには発射した潜水艦が次の手を打つべく移動中。
魚雷に側を通過されれば、磁気信管が作動して爆発。
従来より遙かに大きな爆発威力と言うから、10メートルより近くで爆発されたらひとたまりもない。
しかし放たれた魚雷は、こちらが普通の潜水艦という前提で発射されている。
まさか水中をそのまま水上と同じように全速で走り出すとは思わないだろうし、想定もしていない筈だ。
魚雷の到達まではまだ2分近くあるので、水中からの加速は可能。
現にいまだ水中ながらディーゼル機関は全力回転して、艦をグイグイ加速させつつある。
機関長の尋常ではない苦労が忍ばれるが、従来の潜水艦ではあり得ないことだ。
今頃向こうはさぞ目を回している事だろう。
何しろ、浅海面とは言え、水中をディーゼル航行で加速しているのだ。
そこまで思うと、なんだかおかしさすら感じそうになる。
するとそこに、航海長の言葉が入る。
「現在速力16ノット。これ以上水中では難しいかもしれません。機関長もカンカンです」
しかし、艦はまもなく浮上するので順調に加速できるでしょう。
木梨は航海長に頷くと、海図に向かい先任との協議に入った。
先任も、先ほどまで穴が空くほど見つめていたストップウォッチから目を離している。
敵魚雷探知から約1分半、4本も馳走していた敵魚雷は、通常の潜水艦だったら航行していたであろう場所を、見当違いに駆け抜けるだけとなっていた。
また、《伊29潜》の速度が出ているので、敵潜水艦との距離もあと2分ほどで真上にきてしまう。
こちらが駆逐艦なら、絶対に外しようのない爆雷投射タイミングだ。
海図を見ながら木梨が切り出した。
「待ち伏せだな」
「随分前から見つかっていた、という事ですか」
「断定はできないが、浮上中を電探に捉えられたのだろう。この距離と位置で偶然居合わせたとは考えられない」
「なるほど。しかしなぜ水上で仕掛けんのでしょうか。不意を打てたかもしれませんのに」
「向こうにも都合があるんだろう。制空権もこちらにあるしな。それに、敵の電探でもシュノルヒは小さすぎて捉えられなかったのかもしれない。だから、こっちの進路を予測して、ここしかない、という場所で待ち伏せしたと見るのべきかもな」
「確かに。それにしても、自分たちで選んだとは言え、やっかいな場所に来てしまいましたなあ。浅瀬な上に、島の出来損ないが多くて底が平らじゃない」
「だが、利点も一つある。潜行性能ではガトー級の方が上だが、この浅瀬では活かせない」
「はい。ですが、互いに五〇以上には潜れません」
「このまま、水上を行くことはできないのか。海峡を抜けてしまえば後は航路外。本土近海なら友軍の航空支援も十分期待できる。これより後、敵の脅威は考えなくても良いと思うが」
木梨と先任の会話の向こう、発令所の隅っこから場違いな声が響いた。
山科中佐だ。
何をおっしゃります。
横で先任将校が常識論を展開するが、果たしてそうだろうか。
木梨は、厳しいながらも真面目な顔つきで議論する二人の顔を見つつ手早く思考を進めた。
先任は横で正論を展開しているが、彼の言葉は潜水艦乗りの言葉だ。
しかし海軍では、潜水艦同士の戦闘などほとんど考慮していない。
潜水艦とはあくまで水上艦を沈めるためのもの、もしくは敵に見つからず偵察を行うものだ。
敵水上艦と戦うならともかく、潜水艦同士の水中戦など想定外と言える。
逃げるときも海中深くは常識以前の事だ。
しかも今、木梨が行わせた《伊29潜》の機動は、思いつきと偶然という要素は大きいが常識を全て脱ぎ捨てたようなものだ。
潜水艦が海に潜ったままディーゼルで加速を始め、そのまま水上に出て依然加速中。
まもなく眼下には、泡を食って右往左往している米潜水艦が位置する。
そして敵潜水艦が回頭し終える頃には、こちらは二十四ノットの快速で敵魚雷の射程圏外に逃れられる。
回頭後に慌てて発射しても、低速と短射程に以前と変化がない米軍の魚雷では、逃げる相手に撃つだけ無駄だ。
しかも、水上で追跡戦をしても、米ガトー級の方が最高速度で劣り、こちらは本土近海なので極論全速力で呉に逃げ込む事すら可能だ。
このまま尻に帆架けて逃げる際の気がかりは四つ。
一つ目は、ガトー級が艦尾にも魚雷発射管を装備している事。
しかし、米潜水艦が尻を向けたまま、投影面積の少ない相手に二度同じ博打に出る可能性はやはり低い。
魚雷を準備し、発射後に追尾を行っても機動する間のタイムロスで見失う可能性が高い。
しかも彼らにとってフィリピン海域はいまだ敵地であり、必要以上の危険も博打もするべき場所ではない筈だった。
感情に走らず、妙な事も考えず、今回は素直に諦めて商船や水上艦を狙う方が利に適っている。
二つ目は、今水面下にある潜水艦だけでなく、他にも潜水艦が網を張っている事。
だが、情報漏洩がない限り、わざわざ潜水艦相手に複数の潜水艦が挑んでくるとは考えにくい。
山科の話では、最近の米潜水艦は3隻で戦隊を編成して通商破壊を行っていると言うが、艦隊や船団相手以外に集団で襲ってくる可能性は低い。
三つ目は、水上の追跡劇で米軍がこちらを電探で探知し、別の仲間を呼び寄せる事。
これは二つ目同様戦隊を組んでいる場合危険性が大きい。
だが、《伊29潜》は友軍勢力圏内なので援助が請える。
向こうがこちらの逃避行に対応して水上航行で激しく移動すれば、哨戒機などでの探知が容易くなり、米軍の側に危険がより大きい。
そして四つ目は、今現在対戦した水面下の潜水艦が、なぜわざわざ本艦を狙ってきたのか。
これは本艦がドイツからの重要資料を持っているという情報の漏洩を意味するのではないか。
しかし四つ目は、海軍上層部や山科の言葉を信じる限り連合国はそれほど注意を払っていないので、可能性は低い……筈。
そして木梨の今の任務は、極論してしまえば逃げること。
木梨は十数秒の沈思の後に口を開いた。
「水測長、敵潜の所在は分かるか」
「現在、方位〇〇八、距離二〇〇、深度五〇、速力七ノット、右舷方向に進路変更中。
ただし、本艦の音の影響で急速に捉えるのが困難になっています」
「分かった。先任もう議論はいいぞ」
何かあか抜けたような木梨の表情にポカンとする先任をよそに、木梨艦長は山科を一瞥するとレシーバーを握った。
「達する、こちら艦長。進路を敵潜水艦と交差させる。
現在甲板上に居るものは、敵艦直上に来た時点で当面不要で海に素早く沈むものを投げつけよ。
数は4ないし6個ほどで、大きく、重いものがいい。他の手スキの者も作業を支援せよ、今すぐだ。
急げ」
号令と共に、手近にある重そうなもの。
ドイツでもらった機銃弾を詰めた重い木箱が封をしたまま丸ごと準備され、敵艦直下という合図と共に投げ込まれていく。
他にも、ハッチの中から押し出された重く大きなものが選ばれ投げ込まれていく。
一部の目ざとい乗員たちの機転だ。
相変わらず呆然とする先任に、木梨はニヤリと男の笑みを見せた。
彼にしては珍しい仕草といえる。
「海の上の敵から故意に何かが落ちてきたら、先任は何だと考える」
「もちろん爆雷……木梨艦長、まさか」
「そう、向こうは今ひどく動転している筈だ。こちらを奇襲したつもりが、こちらの奇妙な加速と機動で奇襲されたかもしれないと思っているだろうからな。そこに今少し先入観を植え付けておくのだ。うまくいけば十分ほどは、勝手に水中を逃げ回ってくれるだろう」
木梨の言葉を聞いて、先任が目を丸くすると、次の瞬間声を上げて笑い出した。
「それは痛快であります。久しくない痛快さです」と。
事の成り行きをただ見守っていた山科も、呆気にとられたような顔になっている。
やはり険しい顔は本来のものではない、木梨は思いつつ彼のそばに寄った。
「ありがとうございます山科中佐。中佐のおかげです」
「私こそ、シュノルヒにこんな使い方があるとは考えもしなかった。感服しました木梨艦長」
山科はいつになく素直に、ぺこりと頭まで下げる。
「いや、こちらこそ。中佐は私のとってのその何だ、ドイツで言うところの守護天使なのかもしれません」
木梨が普段の仕草がフェイクであったかのように破顔しつつ答え、思わず頭を下げてしまった山科がバツ悪そうに居住まいを正す。
そんな今までにない情景が発令所を満たす中、気を取り直した木梨はレシーバーを握った。
「達する、こちら艦長。本艦はこのまま全速力での水上航行を続行。
現在水面下の敵潜水艦をやり過ごし、戦闘海域を急速離脱。
事後、警戒を厳にしつつ、一気に呉へ向かう。各員はしばらく現状を維持」
それだけ言うと、通信長を呼んで何かを伝える。
敵潜水艦の位置を知らせると共に、友軍の支援を仰ぐ電文を送るつもりなのだ。
そして戦闘海域から優に6キロ以上離れた15分後戦闘態勢を解除。
以後一時間ほどは、機関長がヤキモキしつつ全速力での航行を続けて敵潜水艦から逃れた。
その後《伊29潜》は、夜は琉球諸島内の小さな入り江で過ごし、昼間は聯合艦隊が出してくれた飛行機に見守られながら、無事呉への帰投を果たした。
呉到着後、《伊29潜》は大事な資料を積んでいるため、柱島ではなく呉の桟橋に横付けした。
そして鎮守府司令どころか、わざわざ東京から駆けつけた軍令部次長の塚原中将にまで万歳三唱で迎えられる中その任務を全うし、木梨以下乗員一同達成感に感激する事ができた。
なお、バシー海峡近辺で《伊29潜》を狙ったアメリカ海軍潜水艦の名は《ソーフィッシュ》。
しかし彼女がなぜ《伊29潜》を狙ったかは明らかになっていない。
ソーフィッシュと思われる潜水艦を含め3隻から編成されたグループは、日本側発表で潜水艦2隻撃沈とされたからだ。
バシー海峡での活動中の潜水艦グループは、《伊29潜》の連絡を受けた聯合艦隊が慌てるように差し向けた、対潜戦の訓練を続けていた901航空隊の磁気探知装置に追い回されたのだ。
戦後米軍が公表した資料でも、1隻沈没、1隻損傷の損害を出している。
そして沈没した潜水艦こそが《ソーフィッシュ》だった。