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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

三題噺

旋律

作者: 柊 サラ

三題噺:「グランドピアノ」「鞄」「原子爆弾」

 ピアノを弾いていた手を止めて、少女――百合(ゆり)は、テラスへ出た。

 高台にあるこの家の、特に百合の部屋からは、広島の街並みと、遥か遠くの広島湾がよく見渡せる。かすかに匂う潮の香りを感じながら、椅子に座って、しばしの休息。そよそよと吹く風が気持ちよくて、夏の強い紫外線のことなど忘れて、ずっとこうしていたくなる。それが、長く日本にいなかった彼女にも、ここが自分の故郷であることを教えてくれていた。


   ◇ ◇ ◇


 四日後にコンサートを控え、十二年ぶりに、百合が故郷、広島に着いたのは、昨日の夕方のことだった。住んでいたウィーンから、他のヨーロッパ諸国や、時にはアメリカまで出かけたことはあっても、日本へ来るのは、彼女が六歳の時に海外へ渡って以来だ。明日あたり、お墓参りにでも行こうかと、ぼんやり考えていると、階下から百合の名前を呼ぶ声がした。

「はーい、今行きます!」 百合は返事をして、食堂へと急いだ。部屋には既に老夫婦が座っており、テーブルの上には久しぶりの日本食が並んでいる。

「お父様、お母様、お待たせしました。」

 そう言いながら、百合は向かいの席に着く。祖父母と孫と言ってもいい程歳の離れたこの夫婦が、今の彼女の“両親”だった。アジア系の、日本人らしい顔立ちをした二人と違って、百合は髪や瞳の色素が薄く、肌も白色人種系の特徴がある。これは彼女がクォーターであるためで、彼女の実母がロシア人とのハーフだったのだ。

 つまり、彼女は養子だった。五歳の時に、百合自身も巻き込まれた事故で実の両親が亡くなり、大学教授の父親の知り合いであったこの老夫婦が、天涯孤独の身となった彼女を引き取ったのだ。

 自分は幸福なのだと、百合は思っている。物心つく前から習っていたピアノも続けさせてもらえたし、“両親”は、元から海外に会社を構えていたとは言え、お金のかかるオーストリアの音楽学校にも通わせてもらった。とても深い愛情を、実子でもない自分に注いでくれている。感謝しても、しきれないくらいだった。

「ごちそうさまでした」

 “両親”にそう言って、百合は自室へと戻る。広い部屋の中央にある、ドイツ製のグランドピアノに向かう。


 そうして今、百合は幼い頃からの夢であったピアニストとして、活動をしている。コンクールでも大人に混ざってそれなりの賞をとっていて、いつだったかは天才と言われたこともあった。しかし、そんなことはないと、百合は思っている。

――ただ、お母さんのように上手にピアノを弾きたくて、大好きなピアノをこうして続けているだけ。

 と。コンサートだって、半数以上は百合が納得するようなレベルのものではない。現に今も、自分が表現したいことが何一つ出来ておらず、お金を払って聴いてもらうような演奏ではない状態だった。

――私は、ピアニストではあっても、プロのピアニストじゃない。

 プロは失敗したりしない。

――本物の、本当の天才というのは、あのリヒテルのような人だ。

 百合は昔、実母の膝に抱かれて聴いたコンサートを思い浮かべた。薄れかけた記憶の中に、鮮やかに残っている旋律。その流れに一切の雑音はなく、音はどこまでも透明だった。感動を通り越して尊敬したのを、幼いながらに憶えている。それ以来、その人は百合の目標だった。しかし――

「――だめ……」

 百合は曲の途中で手を止める。手が曲についていけなかった。追い付くのにはまだまだかかりそうだ。


   ◇ ◇ ◇


 翌日の正午過ぎ。百合は、丘の上にある墓地にいた。

「お父さん、お母さん……ただいま」

 会いに来られなくてごめんなさいと、そう彼女は心の中で付け加える。

 買ってきた向日葵の花を供えて、線香をあげた。十二年来ていないものの、養父が誰かに管理を頼んでいるらしく、磨かれた墓石に、鮮やか過ぎる程の黄色が、よく映えている。

「私、ピアニストになれたよ。明日は広島(ここ)でコンサートがあるの。慰霊コンサートなんだけど……でも、まだ上手く弾けないんだ……」

 どうすればいいのかな……と、墓石の前にしゃがみ込んで訊く。しかし、答えが返ってくるはずもなく、百合は蝉の鳴き声を聞きながら、しばらく黙っていた。

 やがて、はっと気が付き、時刻を確認する。

「バスが来ちゃう、ごめんなさい、また来ます」

 そう言い残して、百合はうだる様な暑さの中、墓地を後にした。


 それから一時間程後。百合は広島の有名な観光スポットにいた。そこは、負の世界遺産を有する、平和記念公園。百合は、あまりこの様な場所には来ない。人混みが苦手なこともあるし、それからもう一つ、養父母にも黙っている秘密のせいでもあった。

――やっぱり、聞こえるなぁ……

 外国人や、制服を着た修学旅行生が大勢いる中、百合は資料館を歩いていた。その顔は、いささか蒼い。

 資料として展示されている、戦時下の学生鞄の前で、百合は立ち止まった。……と、

“死にたくないっ!”

 ……と、声が聞こえた。はっきりとした叫び声なのに、彼女の他は誰も気付いた様子はない。それは、この世ならざる声――鞄の持ち主の声だった。それが、百合の秘密。

 事故の後、ピアノの腕が上達するにつれて、物に宿った持ち主の強い感情が分かるようになったのだ。広島は戦争時の遺物が数多く残っており、殊に、核爆弾投下時の遺物を展示しているこの資料館は、そう言った感情が溢れ返っていた。死の恐怖、憤り、嘆き、それらが入り混じり、亡くなった人々の想いに引きずられそうになる。それは、これまで広島(この場所)に帰ってこなかった理由でもあった。今まで、日本へ来る機会がなかったわけではない。コンサートの依頼を断り、実の両親の墓参りにすら来なかったのは、全て百合の判断だ。

 初めて死者の声を聞いたのは、築何百年と経ったイギリスの洋館でのこと。その時、百合はようやく自分の能力に気付き、そして恐怖した。それまで、恨みや妬みといった負の感情に触れたことなどなかったせいもある。

――怖かった……

 もう聞きたくない、二度とあんな思いはしたくないと、日々強くなる自分の力に怯えながら百合は思った。広島(故郷)になんて絶対に帰れない。まして、資料館のように、声が聞こえる場所にはとても……。

 それでも今回、百合がこうして来る気になったのは、原爆犠牲者の慰霊コンサートだったからかもしれない。

 幼い頃、両親が共働きだったため、百合はよく、預けられていた祖母の佳枝(かえ)から、戦時中のことを聞いた。佳枝は、投下時には広島にいなかったために助かったが、残留放射能によって被爆した。百合は、佳枝の語る広島の惨事をよく記憶していた。

 百合は、それを伝えなければと思う。佳枝が口癖のように言っていた、“戦争は二度と起こらないでほしい”という願いは、惨禍を知らない今の人達には叶えられない。慰霊と言っても、亡くなった人々を悼むだけでは足りない。それを伝えるのが、自分がやらなければならないことなのだと、そう思っていた。


 外出から帰ってきた百合は、すぐにまたピアノへ向かう。弾き続けているうちに夕方が来て、夜になり、気が付くと朝が来ていた。


   ◇ ◇ ◇


 正午からの開演に合わせて、百合が会場に入ったのは、九時頃だった。結局、昨夜も朝まで弾き通したが、一度も百合の納得する演奏ができることはなかった。 しばらくして、隅にある扉から場内を伺うと、もう人で一杯となる頃になっている。もうすぐ開演だ。――まだ、出来ていないのに。


――もう少し、あともう少しだけ待って……

 そんな百合の気持ちとは裏腹に、開演の時はやってきてしまった。舞台袖にいる百合に、司会が彼女の経歴をアナウンスしている音が聞こえる。

『――それでは、お楽しみ下さい』

 その声と共に、百合は舞台へと進み出た。

 コツコツと、ヒールの音が、静まり返ったホールに反響する。履きなれていないので、少々歩きにくい。

 中央に進み出て、蓋の開いたグランドピアノの前で、軽く一礼。静かに座り、鍵盤に手をかける。

 そして、百合は静かに弾き始めた。


 最初の曲は、ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番・<月光>。百合の、一番好きな曲だった。弾き始めは静かに、三連符の並ぶ第一楽章。曲名の由来となったこの楽章で彼女が表現しようとしているのは、焼け野原に冷たく差し込む月光。続く第二楽章は、何度も追いかける呼び声を。そのまま、第三楽章を速いテンポで弾き終わると、客席から割れんばかりの拍手が起きた。観客は、百合の演奏を気に入ってくれたようだ。

――違う、まだ違う……私が伝えたいのは、こんなものじゃない――……

 場内の盛り上がりとは対照的に、百合は静かに焦り始めていた。


 その後も、モーツァルトやブラームス、バッハなど、有名な作曲家の、一度は聞いたことのあるような曲を演奏する。

――違う……

 曲はベートーヴェンのピアノソナタ第八番、<悲愴>。

弾きながらも、百合はますます焦っていた。もう、中頃まできている。早くしなければ、また何も出来ずに終わってしまうと言うのに……!

 その焦りは、自然と弾くスピードを上げさせ、百合が鍵盤を叩く指に力が入った。……と、

――痛っ!

 指先に痛みを感じて、百合は顔を歪めた。しかし、演奏は何事もなかったように続いている。百合が手元を見ると、白い鍵盤が、うっすらと赤く色付いていた。指先の皮膚が切れていて、鍵盤を叩く度に、鈍い痛みが走る。数日前からの長時間の演奏のせいで、彼女の弱い皮膚に限界がきていた。

 スタッフが知ったら、休憩を入れ、手当てをしてから再開か、最悪は中止になるだろう。それでも、曲は終わらせなければと、痛みを堪えて弾き続ける百合は、ふと、気が付いた。

――出来てる……?

 指は痛い。弾くごとに熱を持っていく。しかし、今自分が弾いているのは、今朝まで、どんなに練習しても出来なかった、あの旋律だった。

――出来た……っ!

 曲が終わる。しかし、百合は躊躇うことなく、また弾き始めた。

 舞台袖で、スタッフ達がどよめく。

――弾けてる!

 リスト、ショパン、予定に無い曲を弾き始めた。通常よりも遥かに速い速度で。

 いつしか、指先の痛みは全く気にならなくなっていた。


 体も、気分も軽い。腕は最早別の生き物のように、彼女の意思とは無関係に音を紡いでいく。指に痛みはなく、しかし白い鍵盤は、先程よりも赤く染まっていた。

 百合が、また別の曲に入った。ベートーヴェンのピアノソナタ第三十二番。

 初めはゆっくりと。でも、すぐに普通では弾けないような速さへと変わっていった。


 そろそろ、勘のいい観客の中に、百合の異変に気付く者が出始めた頃、遂にスタッフの一人が、彼女を止めに入った。

「……百合さん? そんな怪我で……もう止めて下さい、中止にしましょう」

 舞台袖から静かに近付き、鍵盤を見て驚きつつも、そっと声をかける。しかし、彼女は一向に気付く様子がなく、ただ、一心不乱に弾き続けていた。

「……百合さん――」


 もう止めましょう、といいながら、彼女の肩に触れる。途端――


 ―――ガターンッ!


 彼女の体が強張り、横向きになって椅子から倒れた。

 ざわつく会場に、幕が下ろされ、司会が慌ててアナウンスを入れる。

 赤く染まったグランドピアノからは、旋律が消えていた。


   ◇ ◇ ◇


 日付が変わった頃、百合は目覚めることなく、二十年に満たない短い生涯を閉じた。何が原因だったのか、詳しいことは全く判っていない。健康だった彼女がなぜ、と言うくらい突然に、全てを残して逝ってしまった。


 ただ、指に包帯を巻かれ、病室のベッドに横たわる彼女の顔は、満足そうな、とても穏やかな笑みを湛えていた。


     ―fin―

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