[chapter:7]
[chapter:7]
「……ぅ」
短くて浅い眠りから、いつもの時間に目が覚める。
帰宅してから仮眠程度に、と床で横になったせいか、腕がしびれていた。
よろよろと起き上がりながら、つい癖で「おはよう、シン」と挨拶をしてしまう。返事もなく、ようやく寝る前と記憶がつながった。
「――まだ帰ってないのか……」
そう広くない単身者用のワンルームにひとり。
ペットの亀に餌をやらなければ、と時計を見れば、普段の起床時間より少し早い。
目をこすりながら立ち上がり、ベッドの上に転がっている電気のリモコンを天井に向ける。
リモコンの中央にひとつしかないボタンを押せば、グローランプからピン、とわずかな音が聞こえ、数回明滅しながら蛍光灯の明かりがつく。
「うう、きつい」
睡眠時間が短いせいか、目がくらむ。
カーテンをあければ、夜明けを迎えて西の方が白んできていた。
なにひとつ変わらない、いつもの朝。
鳥の鳴き声が遠くに聞こえて、新聞配達のバイクの音が寂しく響いていた。
「おはよ」
ベランダをあけて、片隅においてあるプラスチックケースを見ると、その中で亀がわずかに動くのが見えた。
お茶を飲もう、とふらつく足を叱咤して台所へ向かう。ガラスのコップにお茶をそそいで、口をつける。半分ぐらいを一気に飲んだところで、手を滑らせてしまった。
「あ」
反応する間もなく、垂直落下したコップがパン、と砕けた。
「あー……しまった」
首の後ろに手を当てて、近くの棚にストックしてあるスーパーのビニール袋を広げると、しゃがみこんで破片を拾って行く。
お茶の中に沈んだ破片を一つずつ拾い上げて、ビニールへと入れて行く。
食器を割るなんて久しぶりだな、と反省していると、左指の先端に鋭い痛みがあって手を引っ込める。
「った」
人差し指の先がガラスで切れていて、親指で傷をわずかにひろげれば、独特の痛みとともにじわ、と滲んだ血が玉になって、ぽつりと床に落ちた。
「しまった」
床に落ちた血液は、お茶に混ざって、広がりながら色を失ってゆく。
それを見下ろして、「あーあ」と小さくぼやく。
「……静かだなー」
こんなに静かだったけ?
部屋には誰もいない。
それが普通だった。普通だったはずだ。
当たり前の時間が、一時的に戻ってきただけだ。
「――何をしているんです?」
ぼんやりしてなにをするでもなくしゃがんでいると、不意に頭上から低い声が響いてきた。
羽柴が見上げると、いつもの黒衣のシンが、背後から羽柴の手元をのぞきこんでいた。
その顔を見て、わずかにほっとする。
逆にシンは口を引き締めた。
「――何してるんですか」
「ちょっと切っちゃった」
「見せなさい」
シンは羽柴の前に屈むと、がしゃがしゃを破片を手で集めてビニールへと入れてゆく。ガラスの欠片や痛みなど、死神には関係ないらしい。
シンは手のひらの破片を払ってから、羽柴の手を取ると顔を寄せた。
傷口が引っ張られて痛みが走る。
「――いてて」
「破片は入ってなさそうですね」
そう小さくつぶやくと、迷いなくその指をぱくりと口の中へ入れた。
何が起きたか分からず、ぽかんとする羽柴の指先に、シンの舌と、かすかに歯が当たり、歯があるんだ、と、どうでもいいことを考えながらぺたりと尻餅をつく。
「……シン?」
「何か?」
指から口を離しながら、平然と聞いてきた。
「人間は小さな怪我はこうしていますよね」
「い、いや、別に、他の人の怪我は舐めないけど……」
「ああ、そうなんですか?」
やはり変わらない口調で淡々と言われて、羽柴は顔が赤くなるのを自覚しながら少しうつむく。
「血も止まっていますから、じきに傷もふさがるでしょう。それより、早く準備をしないと間に合いませんよ」
何事もなかったような口ぶりに、動揺した自分が間抜けに思えて、羽柴は指を見てからため息をつきながら肩を落とす。
シンにとってはなんでもないことだとしたら、それで自分だけが恥ずかしくなるのもおかしいよね、と気持ちの置き所がないまま立ち上がる。
「――飼い犬に顔なめられたとか、そんな感じなのかな」
なるほどそれなのかもしれないな、と、それなら照れる必要はないな。と、羽柴は無理矢理自分を納得させるしかなかった。
「終わったの?」
「ええ、滞りなく」
シンの言葉にほっとする。
「ですが、やっぱり目を離せませんね」
いつもの皮肉。そんなことないよ、といつもなら言ってしまっていた言葉。
けれども、あの静かな一時に寂しいと感じていたのは確かで、
「――……そうだね」
羽柴は大人しく、それを認めることにした。