[chapter:1]
[chapter:序章]
ある日突然家のポストに投函されていた手紙には、宛名も消印もなかった。
簡素な白い封筒の中にあった便箋には、まもなく自分が死ぬので、迎えを寄越すという丁寧な文章が書かれているだけだった。
いたずらにしてもたちが悪い、と受け取った男性――羽柴むつきは、その手紙を冗談として受け取り、その日もいつも通り出勤した。
花屋の朝は早い。そして意外に重労働で、はなやかで美しいのはその花々であって、仕事やそこで働く人間ではない。
それでも様々な人がそれぞれの理由で花や植物を求めて来るのは見ていて飽きず、笑顔とお礼の言葉は達成感がある。
楽しいことばかりではない。
つらいことばかりでもない。
同じ日々を繰り返して、明日もくると理由もなく信じていた。
その翌日に、死神を自称する者が来訪するまでは。
その死神はシンと名乗った。
羽柴より頭ひとつ分以上高く、体格も良い。全身黒づくめで、目には目隠し、頭から黒い布をまとっていて、銀色の細長いペンダントトップのネックレスをつけている。浮世離れしたその死神は言葉通り少し浮いていた。読むべき空気という意味ではなく、物理的に。立って歩くの面倒なので浮いてます、と言わんばかりに。
その死神が言うには、羽柴はしばらくしたら死ぬ運命にある。ということだった。
しかしその原因も理由も時期すら分からない。そう遠くないうちに、と羽柴にしか見えないその死神は言った。
死後、羽柴の魂を回収する担当だというその死神は、ちょっと……というか、だいぶ、空気も読めない死神だった。
まず人間の常識や感覚が通じない。
あとあんまり動かない。地蔵のように。
更に、一番の問題は――
「お風呂までついてこなくていいから!!」
羽柴の言葉に、シンは空中にあぐらをかいて、わずかに頭をかたむけた。
「――なぜ」
「なぜ!?」
そして言い放たれる問題発言に、羽柴は目を丸めて抱きかかえた着替えをつかむ手に力を入れた。
「狭いし」
「構いません」
「俺が構う!!」
「浴室まで入るとは言ってません」
「脱衣場で控えてるの!? もっとヤダよ」
「中で何かあったらどうするんですか?」
「何かって何……!?」
「心臓発作とか」
淡々とシンが返事を返してくる。
「そもそも風呂は事故が起こりやすい場所なんです。体温の変化や血圧の変化から何か起こらないとも限りません」
「そ、そうか……いや、そうじゃなくて、じゃあ俺が倒れたりしたらどうするの?」
「死ぬのを見届けて魂を回収します」
「助けてくれないんだ!?」
無理です。とシンはあっさり言い放つ。
「それが寿命ではない『事故』であればなんとかしますが、天命であればどうしようもありません。独り暮らしの孤独死というやつですね。最期まで見届けます」
即死できない場合、風呂場か脱衣場で悶え苦しむのをただシンに見守られるわけか……、と嫌な想像に羽柴は黙る。
「お願いなんだけど」
「はい」
「――せめて服着せて」
その羽柴の願いに、シンは首を左右に振る。
「手は出せません」
そして羽柴は、その答えを聞いて、笑顔を浮かべる。そして、
「入ってきたら承知しないからね……!!」
と言い放ちながら扉を閉めた。
「具体性がないですね」
ドアの向こうから聞こえてくる冷静なシンの言葉に頭を抱えたくなりながら、羽柴は乱暴に服を脱いだ。
[chapter:1]
そういやそんなこともあったなあ。
つい少し前のできごとを思い出しながら、羽柴のペットである手のひらサイズの亀が、与えられた餌を食べるのをじっと見つめるシンをながめる。
黒い布で目隠しをしているのでその表情はよく見えないが、わずかに頬がゆるんでいる。
そんな感情の動きがなんとなく分かるようになってしまった。
「あーあ」
もっとムカつく奴だったら良かったのにな、と思いながら、腰かけていたベランダの縁に足を投げ出して部屋側に転がる。
ベランダの亀を入れているプラスチックケースの清掃をして、投げ出した少し冷えた手足にひやりとした感触。
「焼けますよ」
「別に気にしないよ」
膝までめくった足に手を当てて、シンは小さくため息をついた。
「日焼けして痛いしみると騒ぐのは見えています。せめて中に入りなさい」
「はーい」
羽柴が上半身の力で室内にほふく前進する。そして薄暗い室内から白い程の日差しが差し込むベランダを見れば、やはり相変わらず興味深そうに亀をのぞきこんでいたシンが、日差しを遮るネットの位置をずらそうとして、手を伸ばしてずらした。
「――……おいしいですか?」
真顔で亀に聞くその言葉に思わず笑いが込み上げる。バレたら機嫌を損ねるのは目に見えていたので、少し転がって、腕に顔をうずめて小さく笑う。
そういえば人間以外の動物とも意志疎通しているふしがある。猫は苦手なようだが、亀であっても多少は気持ちが分かるらしい。ならもう少し人間の気持ちも察してほしいと思うが、そもそも興味がないのだろう。
き、とわずかに床がきしむ音と、衣擦れの音と気配に、まずいと羽柴は笑いを引っ込める。
「居心地良さそうです」
「そう。やっぱりきれいな方がいいよね」
ここのところ仕事が忙しくて、住環境まで手が回っていなかった。申し訳なく思いながら転がって天井を見上げていると、シンが横にすとん、と腰かけた。
「腰でも揉みましょうか」
「――うん?」
「昨日、痛そうにしていましたよね」
「大したことないよ」
「大したことがない人がそんなにゴロゴロしますかね」
あっさりと看破して、仰向けに転がる羽柴の体を転がす。
水の入ったバケツを、変な姿勢のまま持ち上げてから少し腰に違和感がある。
とはいえ湿布を貼るほどでもないし、翌日安静にしていれば平気だろう、と簡単に考えていたが、わずかな違和感と痛みは翌日まで引っ張ったままでいた。
まさかシンに指摘されるとは思わず、驚きながらも、ころりとうつ伏せに転がる。
撫でるように探る感触に目を閉じる。
仕事柄、重い荷物を持つことが多いので腰痛は日常茶飯事だ。
「あー……」
腕を組んでそこに頭をのせると、思わず声が出た。
「うまいね」
「よく分かりません。痛かったら言ってください」
「へーき。もう少し強くてもいいよ」
律儀に少しだけ強くなる指先の動きにため息をつく。
「無理をすると怪我をしますよ」
「このぐらい平気だよ」
「――……」
シンが沈黙し、羽柴は力を脱いてそのまま目を閉じる。
少し前よりも距離が近い。
シンが、羽柴に触れるなど考えられなかった。少しずつ近づいてくるその距離感は、人間に不馴れな野性動物を思わせた。
実際そうなのだろう。
警戒しながらも、羽柴に対して少しずつ信頼を寄せてくる不器用さは見ていてかわいい。後は、どうも過去の人たちとそういった交流はしてこなかったようで、自分だけ、という優越感もなくはない。
シンは誰に見えることもなく、そして羽柴の死を待っているとはいえ、ただひたすらに羽柴を見つめている。
「寝るならタオルケットをかけましょうか」
「――……ん」
押し寄せる眠気にうとうとすれば、声をかけられた。
曖昧に返事をすれば、小さなため息が聞こえた。
そして立ち上がるシンの気配。
かけるものを持ってきてくれるのか、と思えば、体の下に手を差し入れられた。
次の瞬間、ふわりと重力がなくなる。
うっすらと目をひらけば、床が遠い。
軽々とシンに持ち上げられて、ベッドに降ろされる。
頬に伝わる柔らかい感触に目を閉じて、枕に顔をすり付ける。
頭をひと撫でされて、シンが離れる気配と、遠くにベランダの閉まるカラカラという音と、ぴ、とエアコンのスイッチが入る。
――……なんいうか、気味が悪いほどシンが優しい。
不思議な事もあるもんだ、と思いながら、羽柴は意識を手放した。
***
翌日、羽柴が配達に回ったバンの屋根に座ってシンは普段来ない道に入ったことに気づく。
やがて見えてきた高校に首をかしげていると、駐車場に車をバックで停車した羽柴が車を降りて、「特別配送」と屋根の上に座るシンを見ながら明るく笑った。
「高校の特別授業で華道をやるんだってさ」
早速台車をおろして花の入った段ボールを乗せながら校舎を見上げる。
シンはそこで眉をひそめる。
「高校は始めて?」
羽柴の言葉にシンは校舎を見上げながら「いいえ」と短く返事をした。
「『仕事』で来たことがあります」
死神の仕事。その意味を悟ったのか、そう。と短く返事をした。
「あっ、お花屋さんですかー!?」
黙々と作業をする上から、女子校生が窓ガラスから身を乗り出して羽柴を見下ろしていた。
「そうです。花の搬入にきました」
「ご案内します。今行きますね!!」
そしてその体が引っ込む。
シンは眉をひそめた。
少しして、教師とその女子高生が連れだってやって来た。とりあえず花を運ぼう、と台車を押して、校舎の中に入ったところで電子音のチャイムが鳴り響く。
先生はここはいいから戻りなさいと女子生徒に伝え、その生徒も羽柴に「失礼しますっ」と明るく返事をして踵を返す。
小走りでかけてゆく姿をついてきていたシンは見送り、腕組みをする。
ちょっと教室の鍵持ってきます。と慌てて玄関横の職員室へと移動する教師を見ながら、羽柴が「好み?」と声をかけてきた。
「好み?」
意味がわからずに言葉を反復すれば、羽柴がシンをちらりと見た。
「さっきの女の子」
「まさか」
肩をすくめてシンが返事をする。
「だって熱心に見てたよね」
「ええ、気になったもので」
「だから、好みなんじゃないの?」
繰り返される質問を鼻で笑い飛ばす。
「――違いますよ。あの娘、死期が近いです」
「え」
羽柴が目を丸くした。
「ただ――」
「ただ?」
そこで教師が鍵を片手に戻ってきたので会話を打ち切る。
続きを求めるように、羽柴が眉をひそめながらシンを見上げた。
その視線に答えるようにシンは口を開く。
「――不自然です。死神の姿がありません」
死の気配がある。死神がつくはずだ。
だがその姿はない。
「間違いなんじゃないの……?」
小声で羽柴が言い、それに気づいて視線を向けてきた教師に「な、なんでもありません……」と愛想笑いを浮かべた。
「まさか」
シンは羽柴の言葉を一笑に伏す。
「我々は死を間違えません」
つまり、とシンは重々しく言葉を続けて、断言した。
「おかしいのはあの人間の状況です」
「このまま放っておいたらどうなるの」
帰りに定位置の運転席の上に座れば、ごんごんと座っている天板を叩かれた。
シンが助手席に移動してみると、羽柴からそんな質問された。シンは内心しまった。とぼやく。
女子高生に死神がついていないことを思わず言ってしまったが、そんなことを聞いてしまえば羽柴は気にするだろう。
迂闊なことをしてしまった。と思いつつ、それでも羽柴の疑問に答える。
「死神が何らかの理由で離れている状態で死ねば――魂が迷ってしまう可能性がありますね」
「――迷う、……迷うの?」
「あなたは、初めての場所で地図もなく、迷わずに目的地まで行けると?」
「自然に行けるんじゃないの?」
「そんな都合よくいくわけないでしょう」
「そ、そうなんだ?」
うわー……とつぶやく羽柴の言葉に、シンはため息をつく。
「正しくは、死神がついた方が良い人に対して派遣されるんです。」
車の窓から流れる景色を目で追いながら、シンは言葉を続ける。
「死神が必要な人間に、まず手紙が届きます。開封の有無ではなく、まず届くことが必須の条件となります。そのマーキングのようなものを頼りに、死神は担当者を見つけます。なので、手紙が届かない人もいますね。死神の力が不要な人間には手紙は届きません」
手紙の力には人間も死神も逆らえない。
「俺、迷子予備軍なんだ……」
「リスクは迷子だけではありませんね。何らかの理由で地上にとどまってしまったり、なかなか悲惨です」
「――そっか……」
シンの体格では軽自動車の助手席はいかんせん少し狭い。ドアの上についたグリップを握って少し居心地の悪い空間におさまっていると、
「あの子の死神は帰ってくるかな」
「――一時的に側を離れているわけでもなさそうです」
「ねえ、何とかならないかな」
ああ。とシンは内心でぼやく。
「――言っておきますが、寿命自体はどうにもなりませんよ。できなくもありませんが、推奨しかねます」
「どうにかできるのは、担当死神だけなんでしょ」
何度か繰り返した話に、羽柴も状況は理解しているらしい。とシンは窓の外をながめる。
大型バスとすれ違い、店に近づく。曲がり角を曲がった後に、「そうじゃなくて」と羽柴は口を開いた。
「せめて死神探せない? どこに行っちゃったんだろう」
それはシンも不思議に思っているところだった。返せる答えはシンも持たない。
「原因としては、外的要因か、内的要因のいずれかしかありません」
「内か、外?」
対向車に道を譲ってもらい、軽く片手を上げてから、羽柴はアクセルを踏む。
カチカチと単調な音を立てていたウインカーのレバーがパチン、と戻った。
「死神に何かがあったか、あるいは……」
シンはそこで言葉を切る。
――死神が自分から離れたか。
しかし理由は全く不明だ。
担当者の命が、定められた寿命を迎える前に失われるようなことがあれば、あるいは、何らかの不自然な事情で寿命が伸びてしまうことがあれば、その代償は、存在消失という形で死神へ求められる。過去にも仲間が消えたというのを見聞きした。
死神の責務は、きたるべき時がくるまでその魂を守り、きたるべきときにその命を回収することだ。
できなれば己が消滅する。一蓮托生であるとともに、自分の命のようなものを人間が握っている。
絶対的優位にして絶対的に劣位、死神にとって、担当の人間から長期間離れることは、消滅のリスクを高める行為でしかない。
「――色々な死神がいますからね。そういうスタイルなのかもしれません」
「……スタイルなんてあるんだ……」
「人間の生き方も様々でしょう。死神の臨終に対するスタイルも様々です」
言いながら、先ほどの高校で出会った少女の気配に対する矛盾を感じる。
あの少女には、手紙が届いた気配が薄い。
受け取るべき人間が受け取るべき物を受け取っていない。
下手をすれば、死神にも接触していない可能性がある。
だが、シンには関係のないことだ。
「死神探せないかなあ」
――……関係のない話なのだが、羽柴が関係を作るような気がしてならず、シンは天井のグリップから手を離して、仏頂面を作って腕組みをする。
そう考えた矢先に、
「……探せない?」
意見を求められて、シンは鼻にしわをよせる。
そして窓に寄りかかる。
「どうして、あなたはそう、大人しく死ねないんですかね?」
「往生際が悪いみたいだよね」
羽柴が軽く笑った。
シンの言葉を聞き流しながら、花屋の近くの駐車場へと車を進入させて、ギアをバックへと入れた。
座席越しに振り返り、手慣れた様子で、片手でハンドルを動かす羽柴を見ながら、シンは、
――……いずれこの件に再び関わるような気がしてならず、その『そんな気がする』は意外に早く、というか、翌日に訪れることとなった。