ぬめりを落とす手
昭和の陰鬱とした元医院の家に住まう女と夫と義母。女には欠けているものがあった。
廃業したとはいえ、元医院であったこの家には、特有の異臭が漂っているのです。
消毒液、老人の口臭、不健康な汗、クリーム色の膿、そんなものが混じりあったような不快な臭いが、微かにするのです。
お義母様や昭彦さんはそんなことはないと言いますが、それは鼻が慣れてしまったから気が付かないだけなのでしょう。
臭いは、今は物置となっている待合室の床や、書斎となっている診察室の壁から、じわじわと染み出ているようでして、何度濡れた布切れで拭っても、一向に消える気配がありません。
ごしごし、ごしごし。
これほど拭っても、埃も、米粒ほどの煤の染みも、布切れに付きはしないのです。
ましてや、形のない臭いなど、取れようもありません。
それでも私は拭います。
どうも何か、壁から、床から、天井から、ぬめりのようなものがにじみ出てきていて、それがこの臭いを出しているような気がしてならないのです。
――まだお掃除をしているの。いったい何時までされるおつもり? 本当に手際がよろしくないんですのね。
お義母様の声が聞こえます。
すみません、申し訳ございません。すぐに終わらせて、お夕飯を整えますので……。
私が言うと、お義母様は何処かへ行ってしまわれました。
きっと、昭彦さんのところへ行って、私を娶ったことを責めたてるのでしょう。
お義母様から叱られるたびに、昭彦さんに申し訳ないと思うのです。
こんな嫁を貰ったばかりに、迷惑を掛けてごめんなさい、と。
自責に駆られ、昭彦さんに頭を下げると、眼鏡の奥の誠実な瞳を、ちらりと私に向けて言います。
――別にいいんだ。次からは気を付け給え。
その言葉を聞くたびに、感謝したいような、少し悲しいような、困った気持ちになるのです。
私も気を付けてはいるのです。
それでも失敗ばかりなのです。
――孫も生めない嫁ではねえ。失敗、失敗。
最近、お義母様は私の顔を見て、忌々しそうにそう呟きます。
結婚してから三年経つのに、子は授かりませんでした。
私も子供が欲しいのです。
そして、お義母様によくやったと言って欲しいのです。
でも、授からないのです。
授かるように、私は頑張りたいのです。
――やめてくれ、汚らしい。
昭彦さんは子がお嫌いなようなのです。
私は考えました。
どうしたら私は子を宿せるのでしょう。
そうです、考えた結果だったのです。
褒めてもらいたかったのです。
――なにをしている。
昭彦さんが立っていました。
子が欲しかったのです。
そう言う代わりに、出来るだけ母親のような慈愛に満ちた笑顔で昭彦さんを見つめました。
――出て行け貴様、それは私の。
褒めてもらいたかっただけなのです。
物置代わりの待合室から逃げ去る、名も知らぬ男の背中を見送る私を、昭彦さんは酷く打ち叩きました。
――この売女め、淫売め、そんなに咥えたかったのか。汚らしい、豚、豚め。
違います、違います。
私は叫びました。
ただ、子が、子が欲しかったのです。
――母さんに言ってやる。母さんに叱ってもらう。お前みたいな女は、追い出してやる。
どうも私は、また失敗したようなのです。
それも、家から払われるような大失態のようなのです。
去ろうとする昭彦さんに縋りつきました。
やめてください、よしてください、お許しください。
昭彦さんは私を足蹴にして、放せ放せと怒鳴りました。
私は放されまいと、膝の辺りに強く縋りました。
掴んだ場所が悪かったようです。
昭彦さんは転んでしまいました。
そして、むかし待合室に置いてあったのでしょう、緑色の長椅子の鋭い角に頭を打ち付けてしまったのです。
昭彦さん、昭彦さん。
呼んでも、揺すっても、返事はありません。
それどころか、白目をむいて粗相までしているのです。
髪を掻き分けると、頭の骨が割れていました。
そこから恐ろしいほどの量の血が溢れて、止まらないのです。
中の方まで傷んでいるようです。
死んでしまう。
私はあわてました。
昭彦さんが亡くなったら、またお義母様に叱られてしまう。
助けなければ。
立ち上がると、お義母様の声がしました。
昭彦さんの怒鳴り声を聞きつけてきたようなのです。
叱られてしまう。
お義母様はこの有様を目の当たりにして、それは大きな悲鳴を上げました。
――助、け……誰か。ひ、ひと、ご……。
大きな悲鳴の後に、かすれて聞き取れないような小声でそう言いました。
叱られはしなかったのですが、遠ざかるように這って行くお義母様を見て、私は怖くなってしまいました。
お義母様が、お義母様よりも、もっと恐ろしい方に、私の失敗を言いつけると思ったからです。
私は、やめてください、お許しくださいと、やはり縋りつきました。
それでもなお這っていこうとするお義母様の首に腕を巻き、何としてでも行かせまいとしました。
おやめください、お義母様、お義母様……。
しばらくすると、お義母様も昭彦さんのように動かなくなりました。
お可愛そうに、私の込める力が強すぎて、亡くなってしまったようです。
やはり粗相をしていて、床に汚物が垂れています。
不思議と落ち着きました。
もう誰からも叱られないのです。
そう思うと、胸が躍りました。
結婚して初めての気持ちです。
でもしばらくして、少し後悔しました。
綺麗だった部屋を見回すと、汚物と血でとても汚れているのです。
壁にはいつ飛んだのか血の斑点があり、床は汚物と血で、地獄の池のようです。
その後のお掃除は大変で、もうへとへとになってしまいました。
遺体も、裏庭の焼却炉で火葬し、今は壷に収めてあります。
小さいころ、田舎の母に、人が亡くなったときはそうするものだと聞いていたからです。
骨は四十九日間、仏間のところに置く事にしました。
これも、田舎の母から聞いたことでした。
ただ、そのあとに入れるお墓がどこにあるのか、私は知りませんでした。
どうするかは四十九日経ってから考えることにしました。
大掃除から、ずっと平穏な日々が続いています。
誰からも叱られはしません。
でも、どうしたことか、物置に使っている待合室の臭いが、とても気になるのです。
何か、壁に、床に、天井に、ぬめりのようなものが付いて、それからこの臭いが生まれているような気がしてならないのです。
ごしごし、ごしごし。
いくら拭いても、その生臭さは消えてくれないのです。
布切れで床を拭く私の前に、ばたばたといくつもの靴音が近づいてきました。
扉から男たちが入ってきました。
警官のようです。
警官は私を取り囲むと、黒い手帳と、なになにと書かれた紙を見せて、付いてこいと言うのです。
何をされるのでしょう。
恐ろしくてうずくまる私を、警官たちが床から引き剥がします。
――臭う、この部屋でやりやがったな。
警官たちは口々に、ああ、臭う臭う、と言いました。
ああ、やっぱり掃除が足らなかったんだ。
もっとぬめりをこそぎ取らなければいけなかったのだ。
後生です、一からし直しますから、もう一度お掃除を。
声を張り上げる私を、警官たちは怪訝そうに睨むだけでした。
脇を抱えられ、私は家から連れ出されました。
お義母様も昭彦さんも、もっとお掃除しやすいところで亡くなればよかったのに。
何処かへ向かう車の中で、私は初めて家族を呪ったのでした。