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ロゴスの目

作者: 海山 照理

   ロゴスの目

                              海山 照理


  1


 視界が開けた。

 眼前を持針器と針が行き来する。無影灯からの光をメタリックに反射して目に染みる。どうやら、光は知覚出来ている様だ。だが、色彩がない。全てがモノトーンだ。

「あと一〇分程で手術は完了だ」

 ホースラヴァ―博士はそう言いながら僕の左目の上眼瞼を縫い合わせる。特定神経遮断処置のお蔭で痛みはない。施術の終わった右目でもう一度世界を確認する。やはり色はない。いつか動画サイトで見た二〇世紀中盤のブラウン管式受像機の中の映像を思わせる。まるで一〇〇年前にタイムスリップした様な気分になる。

「博士、どうやら色が見えない様です」

「心配はない。直ぐに見える様になる。脳と目が新しい視覚に適応し切れていないだけだ」

 不安だ。視力も低下している様に思われる。博士の顔の表情すら読み取れない。これも次第に回復するのだろうか。

「視界もぼやけている。これから先もずっとこうなら、博士を恨みます」

「だから、大丈夫だと言っているじゃないか。少なくとも見えているということは、照理くんの脳内主要シナプス経路の眼球への延長と連絡は上手くいっている」

 博士のその言葉を信じ、しばらく黙っていると、次第に色の感覚が戻った。灰色だった手術室は入室した時そうだった様に、淡いブルーグリーンに染まり始めた。色温度とはよく言ったものだ。寒色であれ色には確かに温度がある。入室時には不気味で無機質にしか思えなかった手術室も、暖炉付きのマイホームの様な親近感を感じさせ始めていた。モノトーンの世界から色の世界に帰えることはこんなにも懐かしく、温かみを感じさせるものだとは思わなかった。

「色が戻り始めました」

「そうか。それはよかった。視力の方はどうだ?」

「……さっきより博士の顔がよく見える。どうやら術前より良くなっている様です」

 色に続き、世界に解像度が取り戻されていく。博士の顔に、還暦相応の皺が徐々に深く、より多く刻まれていく。僕は安心を覚え博士に礼を言った。

「手術による副作用は無いみたいだな。だが、今のままではただのレーシック手術と変わらない。三日もすればロゴスレンズと脳の連携が最適化される」

 博士が言う様に、ロゴスレンズとしての機能はまだ実感されないが、少なくともソフィーの要求は直ぐにでも満たせそうだ。

「とりあえずは、ソフィーに新しくなった僕の視力を自慢して来ますよ。眼鏡からは卒業だ」

「それがいい。今時、スマートグラスでもないただの眼鏡なんて使っているのは君くらいのものだった。彼女のソフィーさんも嫌がったはずだ」

 そう言って、博士は鏡を僕に向け、縫合痕がないか確認する様に促す。無論、縫合痕などない。外科手術用接着細胞糸は短時間に人の皮膚を元来の組織状態に戻す。僕が問題がない旨を伝えると、博士は「待っていてくれ」と、手術室を出た。

 僕は視覚のない世界からこの現実に帰還することが出来、少し胸を撫でおろしながら、確かに僕の眼鏡は嫌がられていたとソフィーのことを思い返した。そして、それを含めた彼女の諸々の不満が爆発したのが、今日から一ヵ月前、僕がプロポーズをした時だったことも。

 僕とソフィーは三年の交際期間を経ていた。三年の期間はカップルの姿をより夫婦のそれに近づける。大抵がそうである様に、男は相手に無頓着に、女は相手に支配的になる。僕達もその例に漏れなかった。僕は交際前に愛用していた――彼女が言うにはダサ過ぎる――眼鏡をまた掛け始めていた。彼女は過剰にそれを外させようと試みたが、僕は従わなかった。それを切欠に、大きな喧嘩をして一週間口を利かなかった。その時に偶然、友人の結婚式で、永遠の愛の誓いなる儀式を見た。友人と婚約者の姿が、教会の窓から降り注ぐ純白の光を受け、逆光の中に浮かび上がっていた。二つの影は、互いに指輪を交換し、愛の永遠なることを神と皆に誓約したのだ。

 僕はその神秘的な光景を見ながら直感した。

 停滞し切っていた僕達の関係を乗り越えるには結婚しかなく、今がその時なのだと理解したのだ。僕は急いでジュエリーショップに駆け込み、婚約指輪を購入した。翌日には「大事な話がある」と言って彼女の自宅に駆け込んだ。僕は、開口一番、メビウスの環の話をした。永遠の愛を表す指輪とメビウスの永遠の円環を掛けた小話だった。五分以上続けたメビウスの円環と永遠の愛についての共通点の話は、彼女には長すぎたのかもしれない。今考えてみれば、彼女も指輪を差し出されることを察して、儀式として嫌々聞いてくれていただけなのだ。それを証明するかのように、指輪の小箱を空けた瞬間、彼女の作り笑顔はキツく歪んだ。

 どうやら、僕と彼女の溝は予想より深い様だった。僕は永遠の象徴としてのリングの円環形態とその言語的解釈をこそ重要視していたのだが、彼女としてはシャープな直線的カットが織りなすダイヤの輝きをこそ重要視していた――特に〇.四カラット以上の輝度を。

 彼女は「あなたは学者バカだ」「宝石じゃなくてリングに意識が行くなんて目が濁っている」「思考ばかりで現実が見えてない」「先ずはそのどうしようもない目を治すために手術を受けて」「ダサ過ぎる眼鏡なんてものを捨てて」「一緒に歩くのが恥ずかしいの」「バカ野郎」と日本人以上に日本人らしく散々にまくし立てた。

 ソフィーがフランス語で話す姿は、彼女の最も美しい瞬間だ。毎朝、窓から差し込む日の光を受けながら、祖国の母にスマートデバイス越しに語り掛けるその姿はまるで天使だ。しかし、回線を切り、ベッドの上で微睡む僕を見下ろし日本語を放ち始めるその姿は、絶大な支配力を振りかざす大国の女王とでも言いたくなる。その意味でソフィーに唯一、欠点があるとするならば、話している内容が人間に理解されてしまうことだ。彼女が日本語など習得していなければ僕は小鳥の様にさえずる彼女の姿に見とれてさえいればよかったのだ――その内容など知る由もなく。

 とにかく、二人の溝の深さに愕然とした僕は指輪を返品し、その金で自身が理工学部助手として勤務するK大学の直属病院にレーシック手術の検査を受けに行った。

 そこで出会ったのがK大学総合人間学部教授として勤務するホースラヴァ―博士だった。博士は検査の結果、僕がロゴスレンズの適性者であることと、それが如何なる器具なのかを興奮気味に語った。それを聞いた僕も博士の熱が移ったかの様にいつしか気分が高揚し始めていた。恐らくそれは学者としての知的興奮だった。僕は期せずして、ソフィーのためのレーシック手術から、自分のためのロゴスレンズ移植手術に方針を変えたのだ。

 ふと、扉が開く音がして僕はそちらに視線をやった。博士が「待たせたな」と言って入室する。

 博士は部屋の照明を切り、片手に握ったスマートデバイスから扉とは反対の壁面に映像を投影し始めた。壁面にブルーグリーンの色調が混じったスライドが浮かび上がる。手術室にスマートデバイスを持ち込み、挙句、壁面にスライドを投射し始める医者など後にも先にも博士くらいだろう。

 僕が少し面食らっていると、博士は自慢げな表情で「これを読め。君に移植したロゴスレンズのウィキノミクス登録用記事だ」と言った。


■ロゴスレンズ

 ロゴスレンズ(英語: Logos lens)とは、角膜(黒目)に組織接着させて使用する水晶体型の人工知能及び人工知覚器官。知能を持つ人工の感覚器官。

【形状について】

 形状は一般的なコンタクトレンズに似るが、レンズのフチにミクロのセンサー、アンテナ、延長シナプスとの連結ユニット、そして、特殊アルゴリズムがインストールされた重力場量子回路製チップ(所謂、人工知能)が組み込まれている。

【移植について】

 ロゴスレンズの移植には、網膜、視神経、外側膝状体がいそくしつじょうたいといった眼球と脳の間の連絡経路を、特殊なシナプス経路として再構築する必要があり、外科的な手術が必要となる。また、ロゴスレンズから伸ばした延長シナプス経路は視覚野に限らず、ウェルニッケ野、ブローカー野といった脳内の言語中枢にも接続される必要がある。そのため、被移植者には脳部位に関する移植適性が求められる。

【機能について】

 レンズに投射された光情報について、付設された重力場量子回路により知覚処理及び言語的認識処理を行う。通常、目という器官は、光情報の受容する感覚器官であるが、ロゴスレンズは、光の受容と共に、像の検出などの知覚の処理、及び、その「言語的認識」の処理の双方を行い、シナプス経路伝いに脳に送信する。考える目、知能的な感覚器官、意味を見る目といった説明をされることもある。

 

 僕は読み終えると、自作自演記事を目の前に自慢げな笑顔を見せる博士の姿にため息を付いた。博士のロゴスレンズに対する開発熱は少し異常だ。

 僕は思い切って博士に言った。

「イマイチ分かりづらいです。少なくとも、見えたものについての言語処理を行う人工眼ってことしか伝わらないです。それも言葉の上でだけ。実際的にそれが意味する体験の予想が付かない」

「今はそれでいい。ロゴスレンズが稼働し始めれば分かることだ。それに、この記事を本当にネットにアップロードする訳じゃない。当分の間、少なくとも私と君で行う実験が終了するまで、下手をすれば一〇年は秘匿だ」



  2


 ショウケースの中、棚、テーブルの上――どこを見ても鮮やかすぎる色が所狭しと犇めき、七色のモザイクテクスチャが店内に溢れていた。花屋に入るのはほとんど初めてと言って良かった。少なくとも、確実に思い出せる花屋の記憶はない。

「プリムラって言うんですよ」

 女性の店員はソフィーにショウケースの中の花について説明をしていた。ソフィーも嬉々とした表情で「この花は?」「あれは?」と質問を繰り返していた。僕はそれを尻目に、花屋というビジネスは女性があってこそ栄えたものなのかもしれないという感慨を覚えていた。

 彼女達の目には、世界の様々な色が、少なくとも僕の様な平凡な男の何倍もの臨場感で美しく見えているのだ。世界の美しさに感応出来ないツマラナイ僕の様な男にとって、花屋に立ち寄る需要は確かに生まれない。二日前にロゴスレンズを移植して移行、確かに世界の解像度は向上したが、数時間前に訪れたジュエリーショップで見た様々な宝石の輝度の違いや、この店の花々の色温度の違いは僕にとって然したる関心を呼ばなかった。結局、脳の持つ趣向や興味に関する部位が変化しない限り、退屈な僕という男も、この世界も変わるものではないのだ――と、僕はソフィーから「どうでも良い」と一蹴されそうな思考を脳内でこねくり回していた。

「来店サービスらしいわ」

 ソフィーは嬉しそうにそう言って、僕の傍に駆け寄るなりレジカウンター奥の棚を指さした。棚には、掌サイズの小さな鉢が所狭しと並び、その中に色とりどりの人工花が植えられていた。

「くじを一回お引きください。あの中の花を一つ差し上げます」

 店員がそう言うと、ソフィーは僕の傍から離れ、くじのあるレジカウンターに一目散に向かった。僕は窓際に取り残され、日曜の通りを歩く人々を独り眺めながら、またもや反省の思考を走らせた。

 確かに学者としての僕が身を置く知的探究の世界――数字と文字だらけの世界も面白いが、今、目の前のこの日常の風景を楽しめなければ、生きていることを楽しめていない様なものだ。その点はソフィーを見習わなければならない。「女は感覚で男は思考で理解する」とかのよく聞くこの種の言葉は差別的で事実に反すると思う。だが、ツマラナイ男が自己を反省する材料としては秀逸だとも思える。

 プロポーズをした時、ソフィーがダイヤの輝きという感覚に期待していた反面、僕はリングの意味という思考を提供した。それは余りにナンセンスで一方的に僕に非があるコミュニケーションだったのだろう。僕も彼女の様に世界を感覚的に理解し、もっと楽しい人生を――などとまたもや彼女に一蹴されそうな思考を連ねていると、背後で僕を呼ぶ声がした。

「照理、見て。この花が当たったの」

 そう言って、ソフィーは「赤色の花が植わった鉢を右の掌」「橙色の花が植わった鉢を右の掌」「黄色の花が植わった鉢を右の掌」「緑色の花が植わった鉢を右の掌」「水色の花が植わった鉢を右の掌」「青色の花が植わった鉢を右の掌」「紫色の花が植わった鉢を右の掌」に乗せて僕に差し出した。

 一瞬、視覚と、状況についての言語的或いは叙述的認識の異常に気が付く。

 僕はかぶりを振って、目をしたたかせる。

 しかし、もう一度ソフィーに目を向けた時、この知覚と認識が強固なものだと気が付く。

 ソフィーはやはり「赤色の花が植わった鉢を右の掌」「橙色の花が植わった鉢を右の掌」「黄色の花が植わった鉢を右の掌」「緑色の花が植わった鉢を右の掌」「水色の花が植わった鉢を右の掌」「青色の花が植わった鉢を右の掌」「紫色の花が植わった鉢を右の掌」に乗せて僕に差し出していた。

 僕はぐらつきそうになる身体を両足でどうにか支える。

 知覚異常だろうか? 違う。

 視覚が七つに分裂して知覚されている。それだけではない。これはどういう感覚だ? 同じ時空間に座標位置をずらして七つの像が横並びしている――という感覚とは違う。――「事実そのものが七つに分裂し、七つの視覚と認識が独立して発生している」というのが正しい。つまり、これは事実の分裂という事態だ、と脳が返す。

 そしてこの事態の原因については、直ぐに目星が付いた。

 ――ロゴスレンズ。

 これがロゴスが見せる世界なのか?

 僕は、加速する鼓動のリズムを胸で、湿り気を失くしていく粘膜の感覚を口内で感じながら、再度、視線を上げ、ソフィーを見た。

 

「ソフィーは赤色の花びらを左手の人差し指で撫でた」

「ソフィーは橙色の花びらを左手の人差し指で弾いた」

「ソフィーは黄色の花びらを左手の人差しと親指で摘まんだ」

「ソフィーは緑色の花びらに左手の人差し指で触れた」

「ソフィーは水色の花びらにふっと息を吹きかけた」

「ソフィーは青色の花びらが小さく揺れるのを見つめた」

「ソフィーは紫色の花びらが気に入らないとばかりに目を背けた」


 僕が目を見開き固まっていると、

 

「ソフィーが不思議そうな目で見つめてきた」

「ソフィーが怪訝そうに眉を歪ませた」

「ソフィーが不可解そうに首をかしげた」

「ソフィーが心配そうに僕の額に手をやった」

「ソフィーがもの言いたげに僕の袖を掴んだ」

「ソフィーがいぶかしげに店員に目をやった」

「ソフィーがつまらなそうに紫の花をショッピングバッグにしまった」


 僕は、僕に今起こっている異常な事態をソフィーに勘付かれぬよう適当な言葉を選んで言った。

「その花、綺麗だね」

「そうでしょ? 私、赤い花は好きなの」

 帰って来た言葉は、一つだった。

 それが示す事実を理解するために、思考を高速に巡らせる。どうやら、五感の内、分裂しているのは視覚だけの様だ。それと、視覚から得た情報に不随的に発生する言語的、意味的な――ロゴス的なとでも呼ぶべき認識感覚。

 いずれにせよ、視覚とそれに伴うロゴス的認識感以外――例えば聴覚に頼れば、この現実を失わずに理性的に行動出来ることになる。ソフィーはこの僕の問いかけに「赤い花は好き」と応えた訳で、この現実は、彼女が赤い花の鉢をくじで当てた世界ということになる。

 僕はとりあえず聴覚に頼ることで、現実を見失わずに済むと少し安心し「ソフィーは赤が好きなんだ」と言いながら視線を向けると「ソフィーは頷いた」「ソフィーは小さく頷いた」「ソフィーは笑顔を見せた」「ソフィーは僕の額に当てていた手を放した」「ソフィーは店員から目線を僕に戻した」「ソフィー僕の袖を掴んでいた手をそのまま絡ませてきた」「ソフィーは僕を置いて店の出口に向かって歩き出した」。

 僕は瞼を閉じ気味にした。

 やはりこの奇異な感覚には眩暈を覚えずにいられない。

 ソフィーに「とりあえず、今日の午後はホースラヴァ―博士に会いに行きたいんだ」と告げると、彼女は少し不満げに「もっと一緒に居たいのに」と単一の声で返した。

 僕は、奇異な感覚に、直ぐにでも博士の元に駆けつけたい気持ちになりながらも、視認されるこの新しい世界に強い知的興奮を覚えていた。

 店を出る際、もう一度、目を見開いてみると「ソフィーは嬉しそうに僕を見つめた」「ソフィーは通りの方を見ていた」「ソフィーは僕の一歩先を歩いていた」「ソフィーは僕の一歩後ろを付いてきていた」「ソフィーはまだ店員のところに居た」「ソフィーは僕の腕に抱きついていた」「ソフィーは既に店内に居なかった」。



  3


 僕は博士の研究室の扉を開いた。博士は忙しそうに棚の上に置いた写真立てや記念碑やらを磨いていた。その中の一つ、立てかけられた十字架が目に留まり、僕は博士が週末に大学近くの教会で神父を務めていると前に聞いたことを思い出した。

 だから開口一番に「あんたは本当に聖職者か?」と罵ってみた。博士は何事かと僕に問い、僕は身に起きた一大事をしどろもどろに説明した。博士は「理論通りだ」と言って喜び始めた。僕は、腹を立てながら「とにかく分裂知覚を止めてくれ」と、その停止方法を教わった。

 特定の意識操作――心を鎮静させる様にイメージングすること――で、ロゴスレンズの稼働はオフに出来だ。そんなことは事前に伝えられるべきだと博士を憎らしく思った。

「君はヘラクレイトス以来、この宇宙に遍在するロゴスを始めて直視したことになる」

 そう言って未だに興奮の最中にある博士をなだめ、改まって尋ねた。

「博士、このレンズで見えるロゴスとはそもそも何なのですか?」

 博士は会議室の壁面にスマートデバイスからの出力をディスプレイした。

 

 ■ロゴスとは

【出典】フリーロゴス定義システム「ウィキノミクス」

 1.概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。

 2.キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。

 3.言語、理論、真理の意味。転じて「理論的に語られたもの」「語り得るもの」という意味で用いられることもある。

 

「曖昧な定義ですね。イエス・キリストとまで言われるともう捉えどころがないな」

 僕がそう言うと、博士は「始めてロゴスについてを語ったヘラクレイトスの説明を読むのが手っ取り早い」と言って、別の画面をディスプレイした。


■哲学者ヘラクレイトス(紀元前五四〇年頃ー紀元前四八〇年頃?)断片1

【出典】ソクラテス以前哲学者断片集

「ロゴスは、ここに示されているのに、人々は、それを聞く以前にも、一度聞いて後にも、決して理解する様にならない。なぜなら、全ての物事はここに語られた通りに生じているのに、彼等はまるでそれを見聞きしたためしがないも同然で、しかも、多くの話や事実を見聞きしながらそうなのだ」(断片1)


 博士は咳払いを一つすると言った。

「万物が流転するこの宇宙を根幹でつなぐのがロゴスであり、宇宙に遍在する見えない理性だとヘラクレイトスは述べている」

「まるで神様についての解説ですね」

「そうだ。ロゴスとはこの混沌の宇宙に射し込んだ一筋の理性だ。例えば、物理法則という理性の一つでも欠ければ、この宇宙はカオスの闇に消滅する。ロゴスとは万物を理性的に司る神そのものなのだよ」

「そうですか? 少なくとも分裂したソフィーは到底神になんて見えませんでしたよ」

 僕は不満そうにそう言った。

「照理が今回ロゴスレンズで垣間見たのは、あらゆる隠された宇宙の理性の内のソフィー君の量子的姿だ。ロゴスレンズに入射されたソフィー君の光情報は、波動関数アルゴリズムで記述される確率的なソフィー君の姿を、君の視覚と言語的認識に対してシミュレーション知覚させたんだ」

 博士が言っているのは、恐らく、量子論にある多世界解釈の話だ。要は、僕は波動関数という数式上――つまりロゴス的次元――にしか存在し得ない並行宇宙のソフィーの姿を垣間見たことになる。

「でも、何故、僕が見たソフィーは七つに限定されていたのですか?」

「それは単純な計算リソースの問題だ。照理の脳機能のロゴスレンズへの適応が進めば、その数はもっと増えるだろう」

 僕は「もっと増えるんですか?」と怪訝な表情を向けた。

「もっとだ。それに、今は視覚と言語的認識のみの分裂知覚だが、いずれ聴覚その他の感覚も分裂可能になるはずだ」

 博士は早口に続けた。

「とにかく現在は、波動関数アルゴリズムが記述した無数のソフィー君の内、計算量的に可能な――恐らくこの現実の振る舞いに近い七つのソフィー君の姿がシミュレートされたのだろう」

 僕は「なるほど」と小さく頷いた。

「それぞれの世界の峻別は可能なのか?」

 僕は花屋でのことを思い出しながら歯切れ悪く答えた。

「恐らく。僕が見た七つのソフィーの姿は、視覚的にとどまらず、言語認識的にも峻別可能でした」

「ならそれぞれの宇宙に名前を付けておこう」

「花を切欠に分裂が始まったので、それぞれ赤色、橙色、黄色、緑色、水色、青色、紫色の宇宙としておきましょう」

「七色の宇宙か。分かり易くて良いじゃないか」

 そう言って、博士はデスクチェアに腰を掛け、机の端に置いてある写真フレームに視線を留めた。僕が「何の写真ですか?」と語りかけると、博士は「妻だ」と言って、写真フレームを僕に向けた。

「随分とお若い方ですね」

「そうりゃそうさ。彼女は三二歳だ。二五年前に亡くなったがね」

 僕は一瞬、どういう反応をすれば良いか迷った挙句、とりあえず神妙な表情を返した。

「神の慈悲深さは計り知れない。罪深い人間の浅知恵では理解が及ばぬらしい」

 そう言いながら、博士は窓を開け放った。

「人生は常に想定外に転がっていく。若かろうが愛していようが死ぬときは死ぬ。そして、私も妻が死んでいなければロゴスレンズの開発に打ち込むこともなかった」

「奥さんが亡くなったことが開発の切欠だったんですか?」

「そうだ。私は妻と約束した。病院のベッドで今まさに息を引き取ろうとする彼女に言ったのだ」

「どんなことですか?」

 僕は博士がキリスト教の神父であったことから、それらしい敬虔な言葉だと無意識に予想していた。でも博士はやけに落ち着き払った声でこう言った。

「お前をこんな目に合わせた何者かの姿を突き止めてやる、とな」

 冗談にしては悪趣味過ぎた。次こそ僕はどんな表情を返せば良いか分からなかった。

「最悪の一言だったよ。今まさに息を引き取る人間に掛ける言葉ではない。――だが、それまで目前の死の恐怖に打ち震えていた妻の顔には、一瞬ばかり生気が取り戻された。充血した目からは一筋の涙が流れた。それは死別の悲しみや死の恐怖の表明とは思えなかった。強い怒りの表明だ」

 僕の言葉はのど元で詰まり出てくることはなかった。

「だから、私のそれ以降の研究は、常に傍らに人の運命さえ司るというロゴスの影を捉えていた。ロゴスなんて形而上学的存在を可視化するなんて馬鹿げたことは、その裏に同じく形而上学的な動機があるものなんだよ」

 博士はそう言い終えると少し間を置き、冗談めかして言った。

「心配するな。科学の発展の裏には、いつだって理性的ではない人間の感情が存在するものだ」

 僕は博士がいつも通りの調子を取り戻したことに少し安堵して言った。

「僕だって学者らしく振舞うその裏側に究極の真理や神みたいなものを見たいとか、子供じみた思いを隠していますよ。……でも、分裂したソフィーが神だなんて冗談はやめてくださいよ」

「ソフィー君は分裂していたか。神であるのなら、その分裂した視覚――あらゆる宇宙の確率的分散に関わりなく普遍的な唯一なるその姿をお見せになるだろう。この時空に神を見つけるという意味では、分裂視覚の中で一切分裂を起こさない対象こそが唯一絶対の神と言えるだろう」

 博士はそう告げると一層前向きな声で言った。

「さぁ、私と照理のロゴス観測を始めよう。我々はヘラクレイトス以来のロゴスの目撃者となるのだ。それは未だ誰一人成し得なかった神をこの目で見るという偉業なのだ」

 僕はソフィーの自宅に向かうなりロゴスレンズについて色々と打ち明けた。少し熱が上がって「僕はロゴスを見定め、神を見つけてくるぞ」と息巻くと、ソフィーはテレビから視線を逸らすことなく「その前に指輪を見つけてきて。〇.五カラット以上の」とだけ言った。



  4


 講堂には大勢の関係者が集っていた。皆、表情は真剣だった。年に一度、全国から一流の学者が集い、天体物理に関する研究の成果を戦わせる場。今年は僕の務める大学の講堂。誰もが登壇者に対する鋭い指摘の隙を探っている。広いホールに緊張が満ちる。

 僕は壇上から、理屈っぽい口調で語り掛けた。

「……オメガ点理論とは即ち、宇宙の崩壊速度を、人類の有する情報工学上の計算速度が上回るという予想に則り成立します。数理物理学者ディプラーが一九九四年に提唱したこの理論は、二〇四九年の今日、人類がこの宇宙の歴史を人工知能の中でエミュレーションするという具体的なイメージを獲得するに至りました」

 発表の残り時間が一分であることを知らせるベルが鳴る。

「勿論、それが実現するには、オメガ点が必要となる訳です。しかし、ビッグクランチ――宇宙の収縮による終焉の日に、空間に圧縮されていく膨大なエネルギーを抽出し、オメガ点を作り出すことは可能かもしれません。収縮し、終わりゆく宇宙の数年、数か月、あるいは数秒の時間に、人類は人工知能が見る夢の中で数百億年の宇宙の歴史をもう一度体験する。宇宙の終焉はその様なエミュレーション宇宙の開発で疑似的に回避される。それはまさに終わりゆく宇宙が最後に見る走馬灯の様なものなのかもしれません」

 僕は、かなり装飾的な結びで発表を終わらせた。質疑応答の際には、キツイ指摘を受けることはなかった。それどころか、発表の序盤に余談程度に触れた「宇宙エミュレーション仮説実現を目的とした工学的アプローチ案」については好意的な質問を多く貰った。発表の本旨ではなかったのだが、余談程度にも触れておいて正解だった。

 発表の数日前、僕の脳内にその工学的アプローチ案のインスピレーションが湧いた。就眠前、瞼の裏に概念図の様なイメージが湧いた。それを手掛かりに言葉を付け、発表の余談として紹介できる程度にまとめたのだ。自分でそう思うのもどうかと思うが、直感的アイデアにしては出来過ぎていた。

 上々と評価できる発表を終えた僕は、浮ついた気分で控室に向かった。今日は、ソフィーが僕の発表を見に来ていた。久々にソフィーに格好の良い姿を見せることが出来た。

 僕は講堂建屋の広い廊下を通り、あてがわれた控室の扉を開いた。

 そこには「ソフィーが既に入室し赤色の花束を持って僕を待っていた」「ソフィーが既に入室し橙色の花束を持って僕を待っていた」「ソフィーが既に入室し黄色の花束を持って僕を待っていた」「ソフィーが既に入室し緑色の花束を持って僕を待っていた」「ソフィーが既に入室し水色の花束を持って僕を待っていた」「ソフィーが既に入室し青色の花束を持って僕を待っていた」「ソフィーが既に入室し紫色の花束を持って僕を待っていた」

 どうやら相当に意識が高揚していたらしい。知らぬ間にロゴスレンズが稼働している様だった。

 僕が「その花は?」と聞くと、「この前、花屋さんで当たった人工花と同じ色の自然花よ」とソフィーは返した。やはり聴覚はまだこの世界のものしか聞こえない様だ。

 僕はこの赤色の宇宙以外の視界を順に遮断し始めた。赤色のこの宇宙以外の視覚が徐々に、橙色、黄色、緑色、水色、青色と閉じ、最後に紫糸の宇宙を残した時に、流れ込んだソフィーの姿に思考が停止する。

「ソフィーが満面の笑みを湛え僕の傍に小走りで近づいてきた」

「ソフィーが突然入室して来た黒いスーツの男に胸を刺された」

 ――これは何だ?

「ソフィーの胸に真っ赤な花が抱かれている」

「ソフィーの胸に真っ赤な血が染まっていく」

 ――紫色の宇宙で何が起こっている?

「ソフィーはその赤い花を僕に差し出した」

「ソフィーは赤い血の海に仰け反って倒れ込んだ」

 ――そんな。

「ソフィーは反応しない僕を怪訝な表情で覗き込む」

「黒いスーツの男は僕の胸にもナイフを刺し込んだ」

 ――ありえない。

「ソフィーは僕の頬に手を添える」

「――」

 ――紫色の宇宙の視覚は何故暗転している?

「照理?」

 この現実のソフィーが僕に呼びかけた。僕はあまりの混乱に停滞しかけた脳をフル稼働させる。紫色の宇宙で起きたことは、近接するこの宇宙でも起き得る。――この事態が何事なのかは全くわからない。だが、これは、間違いない。危機だ。

「逃げるぞ」

 僕はそう言って、ソフィーの腕を強引に引いて、部屋を出る。現状の把握もままならぬまま、危機に対する思考を加速させる。次にやるべきは――他の宇宙の視覚を開くこと、だ。

「僕は右足を踏み込み建物の出口に向けて廊下を駆け出した」「僕は左足を踏み込み建物の出口に向けて廊下を駆け出した」「僕は右足を踏み込み建物の出口に向けて廊下を歩き出した」「僕左足を踏み込み建物の出口に向けて廊下を歩き出した」「僕は右足を踏み込み部屋の付近にあったエレベーターに向けて歩き出した」「僕は狼狽して動こうとしないソフィーの腕をさらに強く引いた」「――」

 ――紫色の宇宙の視覚は真っ黒なままだ。

「僕は廊下の十字路で右足を踏み込み真っすぐに進んだ」「僕は廊下の十字路で左足を踏み込み真っすぐに進んだ」「僕は廊下の十字路で右足を踏み込み左手に進んだ」「僕は廊下の十字路で左足を踏み込み左手にゆっくりと進んだ」「僕はエレベーターから出て来た黒服の男に胸を刺された」「僕は部屋の扉を開くと黒服の男に胸を刺された」「――」

 ――やはり。間違いない。何者かが僕達を殺そうとしている。

「僕は真っすぐに進んだ先の曲がり角で立ち止まった」「僕は真っすぐ進んだ先の曲がり角で立ち止まった」「僕は曲がり角を曲がったところで黒服の男に胸を刺された」「僕は曲がり角の前で立ち止まった」「――」「――」「――」

 ――水色の宇宙と青の宇宙の視界も暗転した? 死を意味しているのだろうか?

「僕は非常階段の扉の前で立ち止まりソフィーの腕を強く手繰り寄せた」「僕は非常階段の扉の前で立ち止まり呼吸を整えた」「――」「僕は非常階段の扉に向けた通路を全速力で駆けた」「――」「――」「――」

 ――緑色の宇宙の僕は、黄色の宇宙と同じ経路を取った。しかし、黄色の宇宙の僕が刺されたことを確認し、まだ、生存しているこの赤色の宇宙の僕と、橙色の僕が通った経路に引き返した。瞬間的に最悪な発想が脳裏に浮かぶ。

「僕は非常扉の前で立ち止まっている」「僕は非常扉の横で立ち止まっている」「――」「僕は非常扉の前に辿り着いき立ち止まる」「――」「――」「――」

 ――あぁ、どの宇宙の僕も同じ発想を抱いた様だ。僕は、僕達は、誰が最初にこの非常扉を開けるか探り合っている。扉の向こうに黒服の男がいるというリスクを、互いに負わせようとしているのだ。上がり切った息が震えだす。

「僕は非常扉の前でドアノブを握った」「僕は非常扉の横からドアノブを握った」「――」「僕は非常扉の前で息を切らせてドアノブを握った」「――」「――」「――」

 ――誰だ? 誰が行く?

「僕はドアノブを握りしめた」「僕はドアノブを凝視した」「――」「僕はドアノブを左手で握り直した」「――」「――」「――」

 ――誰も動こうとしない。ねっとりとした汗が全身から吹き出す。胸から喉に熱の様な吐き気がせり上がる。僕は、他の宇宙の僕と命の駆け引きをしていることになるのだろうか? そんなナイーブな考えに囚われそうになった次の瞬間、僕は状況の打破に向けもう一度全力で脳を働かせる。この宇宙の僕だけの優位点は何か?

「僕はドアノブを強く握りしめる」「僕はもの言いたげにドアノブを開くジェスチャーをする」「――」「僕はドアノブをもの言いたげに右手に握り直す」「――」「――」「――」

 ――僕は意を決した。それが視界に入らぬ様、ソフィーの手から花束を取り上げる。瞼を閉じ、目の前にその花びらを押し付け、目を開く。輪郭の滲んだ赤色が視界に広がる。また、直ぐに瞼を閉じ、瞼の裏の暗闇を凝視し続ける。

「――」「僕は焦って背後を振り返りドアノブを引いた」「――」「僕は焦ってドアノブを引いた」「――」「――」「――」

 ――この宇宙の暗闇の中の視界とは別に、橙色の宇宙と、緑色の宇宙の視界だけが見える。

「――」「僕は非常階段を降りた先で黒服の男に鉢合わせ胸を刺された」「――」「僕は非常階段を降りる途中で黒服の男に鉢合わせ胸を刺された「――」「――」「――」

 ――僕は、今は何も考えてはいけない、と自問し視界を開いた。


「僕は非常階段を後にした」「――」「――」「――」「――」「――」「――」



  5


 博士は僕を襲ったのは「監視者」だとし、「我々は監視されている」と言った。

 僕は講堂を出た後、警察へ駆け込むことを考えたが、事実としてはこの宇宙で何も起きていないことに気が付き強い眩暈を感じた。とにかく博士の研究室に駆け込むことにした。蹴とばす様な勢いで扉を開き、僕は身に起きた危機について博士に説明をした。博士は「ここは危険だ」とだけ言って、二人で夜の首都高速を走った。二〇分程で博士が週末に神父を務める教会に辿り着いた。

 小さな建屋だった。ゴシック様式の岩肌の直方体から夜空に向けていくつかの突起の様な塔が伸び、中心の一つの先に装飾された十字架が月明りに照らされていた。

 僕は聖堂に入るなり言った。

「神はサイコロを振った」

 罪悪感を誤魔化す様に続けた。

「僕が僕を殺した訳じゃない。あの時、どの宇宙の僕も初期条件は、そのパーソナリティは同じだった。ただ違っていたのは、ソフィーから貰った花束の色だけだった。赤色の花束を持っていれば、どの宇宙の僕も必ず僕と同じことをした」

 そう言うと、僕の罪悪感は、確率という余りに理性に欠けた決定、デタラメな神への怒りに変質していった。

「僕だけじゃなく、ソフィーも殺されたんだ! 命の重さはあの花屋で引いたくじで決まっていたんだ! そんなもので決まっていたんだ!」

 僕がそう叫ぶと、博士は「今は冷静になれ」となだめた。そして、僕は博士が件の監視者なる存在について説明を始めるのかと思ったが、予想は外れた。

「前にも話したのだが、私は三五歳の時、妻を失った」

 博士は静かな声で続けた。

「二五年前のその日、妻が死んだ時、彼女が何故死ななければならないのか私にはわからなかった。それが何の罪によるのか、或いは、業か。――勿論、医学的にはガンという二文字で説明し切るのだが――」

 僕は博士が何の話を始めたのかわからなかった。

「妻の死で、私はこの宇宙の理性――神についてシリアスに考える様になった。それまでは神父と称しながらも余りに牧歌的だった。妻の死以降、私はこの宇宙の現状を始めて直視したのだと言える」

 暗い教会内の祭壇に灯した蝋燭に隙間風が吹き付ける。壁面に投影された博士の影が揺らめいた。

「私達はこの宇宙に理性があることを盲目的なまでに信じている。全ての物事には理由があり、意味があり、また、善と悪があるのだと信じている。愚かな者は、善悪などは条件付きでしか定まらないただの道具だと物知り顔で笑って見せるが、そんな者ほど、正しい行いを続ければいつかどこかで報われるのだと思い込み、人生というゲームの中に強固なルールの存在を信じて疑わない」

 博士は僕の目を直視して言った。

「残念だが、私の妻の死は、この宇宙に理性が働いていないことを証明している。ロゴスが正しく機能していないのだ」

 僕は博士の言葉が何か個人的な独白なのか、今回の襲撃に関係があることなのかわからず、不安な表情を博士に返した。だが、博士は構わず続けた。

「私は妻の死によって、信じて疑わなかった自分の足元が割れ、崩れ去るのを見たのだ。二年間、私は空を落下し続けた。神への、この宇宙の理性への掴みどころのない疑念に苛まれ続けた」

 博士は間を置いて言った。

「そんな時に見たのが、あるアートだった」

 博士は祭壇の横の棚から大きな正四角形の封筒の様なものを取り出した。

「一九七三年のある有名なアート作品だ。その年、ニクソン失脚の原因となったウォーターゲート事件が明るみとなり、アメリカ全土に日常の裏で蠢く悪意の存在が知れ渡った。また、聖地エルサレムを巡る第四次中東戦争が勃発し、世界中の人々が神と人間の間には切っても切れぬ契約の関係があることを思い出した。その最中、このアートは人々の前に姿を現したのだ。後に、アメリカでは一九七三年に最も出荷されたアートとなり、世界中で約五〇〇〇万枚ばらまかれることとなった」

 博士は取り出したその封筒の様なものを祭壇の上に置いた。古い音楽の記録媒体――レコードのジャケットだった。

「イギリスのロックバンド、ピンク・フロイドが一九七三年に発表したアルバム――『狂気』のアートワークだ」

 レコードのジャケットには、三角形のプリズムに光が投射され、分光する様のグラフィティがプリンティングされていた。

「一筋の純白の光が、三角形のプリズムに投射され、七つの虹色の光に分裂されている」「このグラフィティを見ることで、二一世紀に生きる私の疑念にある像が結ばれた」「アートワークは、イギリスのデザイングループ、ヒプノシスによる制作だった」「ヒプノシスという言葉は、一九六〇年代サイケデリックカルチャーにおいて先進的という意味を表すヒップという言葉と、紀元前二〇〇年代から紀元後〇年代初頭のある宗教集団において認識や知識の意味を表すグノーシスという言葉を合わせた造語だ」「ロゴスはあらゆる時代や地域に散在する。散在体だ」「いずれかの時点で集合体であった記憶を有する散在体」「その中で、このグラフィティは集合体であった記憶をとりわけ強く残す散在体」「時間と可能宇宙を又にかけて分断されたロゴスを一つの集合体として認識することは容易ではない」「シンクロニシティやインスピレーションによる超越的なゲシュタルティングが必要となる」「あらゆる言葉や文脈は文字通りの意味では解読されないのだ」「その裏に隠された意味を感知しなければならない」

 僕は、博士の口から語られる言葉がどこに向かおうとしているのかわからなかった。彼は何の話をしている?

「私達はこの宇宙は純白の祝福の光に照らされていると信じているが、実は、悪意ある見えざる物理工学的な干渉を受けている。この宇宙は意図的に分裂されているのだ。真の宇宙はこことは別にあり、私達は、その七光りに当たる宇宙の一つに生きている。この宇宙では理性ですら、何者かの悪意によって干渉され、散在体に分断されている」

 そう言った博士の表情は悲劇的なことに、真剣だった。

「私達は分断されている。私達はこの宇宙に完全なるロゴス――究極理性としての創造主を信じ、祈ってきた。しかし、それはプリズムに分光された偽物かもしれない」

 博士は、胸から万年筆を取り出し、アルバムのジャケットに描かれたプリズムの三角形の中央に、大きな目の意匠を走り描いた。そして、強い口調で言った。

「私達の目を眩ませるプリズムのごとき何事かの情報熱力学的な監視分断機構――それが私にとって監視者を示す端的な表現だ。真の宇宙の究極理性――集合体ロゴスは、この監視的プリズム機構によって分裂させられている。七光りのこの偽の宇宙に散在体として影を潜めるに貶められた」

 博士は早口に言葉を羅列していく。僕の理解が全く及ばぬ言葉を。

「見えるものの裏に隠れる散在体ロゴスを手掛かりに、集合体ロゴスを見るのだ」「真の宇宙の理性はそれを望んでいる」「二〇〇〇年前にこの地上に降り立ったロゴスはバイブルの中に福音という名称で今でも刻まれている」「私は、見えざるロゴスに真の神による救済の意図を信じている」「悪意ある干渉を知っている。悪意の干渉は私達の目を眩ませるプリズムのごとき何事かの物理工学的機構だ」「それは私達の実存を確率的存在に分裂させている」「監視的プリズム機構は、本来それ以上不可分であるはずの私達の人生を不完全なものに分裂させ、その内のただ一つに閉じ込める」「まるで、無限の可能性の束である波動関数が、監視者の観測、いや、監視によって、一つの値に収束させられる様に」「一つの有限なる現実に閉じ込められる様に」「サイコロを振る狂った偽の神が支配するデタラメな宇宙に監禁される様に」「何の罪も業もなくとも、確率という混沌そのものの力学によって最悪な現実を割り当てられる様に」

 博士の口から途切れなく言葉が溢れ出す。

「ロゴスレンズとは、散在体ロゴスが集合しやっと完成された我々の武器なのだ。この狂った七光りの宇宙から、真の理性が司る宇宙に脱出するための」

 そう言うと、博士の言葉は止まった。二人の間に、久々の沈黙が訪れる。隙間風を受けて蝋燭がまた揺れる。壁面に掛けられた幾つものイコン――現実的ではない比率で描かれる聖者達の姿が不規則に照らされる。

 僕は口を開いた。

「――監視者とは誰なのですか?」

 余りに掴みどころのない博士の話に、ひどく的外れの応答しか返せない。

「今は監視的プリズム機構としか示し様がない。これは、一世紀クムラン宗団以降続く能動的或いは疑念的宇宙理解における今日的解釈に過ぎない。しかし、ロゴスレンズ使用者である君を襲ったということは、間違いなく、この宇宙に私達を押し込めようとする監視者の意図だ」

 僕は、動揺を隠すように視線を博士から逸らした。

 僕は頭のどこかで直感した。博士の言葉の羅列に酷く混乱しつつも冷静な部分が語り掛ける。博士の説明は、余りに自由連想的で、可能性の上に可能性を上塗りした妄想に他ならない。理性的ではない。僕を襲った者が何者かはわからない。だが、これだけは分かる。博士は狂っている。恐らく、妻を亡くしたショックで、全体性に向けた疑念が疑念を呼び、溺れている。

 僕は言った。

「ロゴスレンズとは、純粋に知的で科学的な実験のための器具ではなかったのですか?」

 博士は右手に小さなプラスティックケースの様な直方体を握り、僕に差し出しながら言った。

「そうだ。理性に属する武器だ。しかし、理性とは常に正気の中にある訳ではない。狂気の中にもまた紛うことなき理性があるのだ」

 そう言って、博士は差し出した直方体のそれを僕の左の首筋に押し付けた。

 目の前で電気的な火花が散り、左半身に鈍器で殴られた様な強い衝撃が走る。

 フェードアウトしていく意識の中、博士の声が聴こえた。

「知っていたか? 君の彼女のソフィーという名前は堕落した偽神の名に語源を持つ。私達を騙し偽の現実に押し込める不吉な名だ。君がする彼女の話は嫌いだったよ」

 

 

  6

 

 私は祭壇の上に横たえた照理の体に麻酔を流し込んだ。

 想像以上に奴らの行動は早かった。それも仕方がない。奴ら――独裁国家Nは、重力場量子物質を私に騙し取られたのだから。

 ロゴスレンズの開発には、固形化に成功した重力場量子が必要だった。理論的には然程難しくはない製法だが、莫大な金が掛かる。奴らは私に騙された共同開発者、と言うよりも哀れなスポンサーということになる。固形化した重力場量子はロゴスレンズの時空間超越テクノロジーに必須の素材だった。私は照理から報告を受けた瞬間に、奴らの仕業だとすぐに気が付いた。やり方が余りに野蛮だ。監視者であればそもそもこんな俗物的な手段は取るまい。だがそれも計画通りだ。

 照理には申し訳ないが、実のところ彼が使用したロゴスレンズは多世界レンズと呼べば足りる程度の機能しかない。真のロゴスレンズは二つ以上での連携システムとしてこそ機能する。そして、それは、私が覗くためにある。

 私は、聖書を開き、聖なる福音のロゴスを引いた。ヨハネの黙示録第一章七節だ。

「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」

 神は聖書の中で約束しておられる。この宇宙が終わる時、つまり、終末の日に、もう一度、この地にキリストを遣わされると。ロゴスとはキリストだ。万物流転を後付けで説明するただの言葉や理論ではない。理性という能動的で創造的な神そのものなのだ。故にロゴスを――神を見ることは簡単なことではない。少なくとも人間の努力だけでどうにかなるものではない。神が私達に福音をもたらすという約束の履行が先ず前提にあるのだ。しかし、この時代にはまだ奇跡は起きていない。だが、神は約束された。終末の日にはその姿をお示しになると。だから、私は、宇宙終焉の時、遥かなる未来に訪れる約束の福音を聞こうと考えたのだ。

 ロゴスレンズの真価は「ワームホール」システムにある。私が覗くことになるワームホールの片方はこの宇宙の照理の目に埋め込まれたレンズ。遠方のもう片方は、照理が死亡した宇宙の終末の日のレンズだ。

 そもそも、私は、照理にロゴスレンズを移植することではなく、ロゴスレンズに照理を移植することを試みていた。照理はワームホールの両端に付設されるゲートとしての機能を果たす。ロゴスレンズの回路を構成する重力場量子は、他の素粒子と異なり、端のない閉じた円環の形状を有する。そのため重力場量子はこの膜宇宙から容易に遊離し、他の並行宇宙や、――特殊相対性理論に基づく時空を重力で捻じ曲げ――未来時空とさえ相互作用する。

 それらの特性を活かしたワームホールゲートを実現するためには、人間の意識が宿った重力場量子回路こそが求められた。ロゴスレンズは照理の脳の全機能――ニューラルネットワーク活動をスキャニングし、移植から二週間後には、脳の全機能、そして、意識そのものを重力場量子回路内の人工知能アルゴリズムに移し替える。私は、照理という存在を、重力場量子回路内に閉じ込められた超時空間観測体に仕立て上げようと考えたのだ。

 照理は気が付いていないが、彼の全ての脳機能は、ロゴスレンズ内の重力場量子回路内に移行している。既に、照理の脳はロゴスレンズ内の脳活動と身体の連絡通路としてしか機能していないだろう。もう二、三日もすれば脳もろとも照理の物理的身体は死滅しロゴスレンズだけが残されるだろう。

 ワームホールとしてのロゴスレンズの活用のためには、その使用者に人間であることを放棄して貰い、全人的に重力子量子的な存在になって貰う必要があったのだ。――時空超越の際、重力場量子回路内に何故人間の脳アルゴリズムが必要であるかは定かではない。私は、ロジャー・ペンローズの量子脳理論に解明の糸口があるのではないかと睨んでいる。だが、重要なのは理論の解明ではなく工学的な実験にある。

 照理が死んだ宇宙では、独裁国家Nの工作員が照理を殺害し、ロゴスレンズを回収したであろうことが予測される。奴らはロゴスレンズを自国に持ち帰り、兵器用の中央オペレーションシステムの計算モジュール等として運用を始めるだろう。私は奴らに、ロゴスレンズについて高度な演算処理装置としてしか説明していない。故に、奴らに重力場量子の持つ時空超越機能の可能性など分かるとは思えない。また、そこに照理の実存がインストールされていることに気が付くことも思えない。少なくとも旧来的機器では検出どころかアクセスすら不可能だ。

 そして、国家の中枢で厳重なセキュリティに守られながら照理がインストールされたロゴスレンズは運用され続けていく。全ては遥か未来の終末の日にまでロゴスレンズを保管するためだ。悠遠なる時を経て、ロゴスレンズが破壊されず保管される可能性は低い。しかし、それはこの一つの現実世界での可能性でしかない。ロゴスレンズが独裁国家Nに回収された宇宙から派生するあらゆる可能未来において、天文学的可能性であれ、終末の日にまで保管されるパターンがあれば良いのだ。

 そして、終末の日にまでロゴスレンズが保持されれば、この宇宙のレンズから、その終末の日に残されたレンズを覗くことが出来る。

 無論、この宇宙の照理が独裁国Nの工作員に殺害されていた場合、この宇宙の私はロゴスレンズを失うことになっていた。だが、それでも構わなかった。他の宇宙の私がこの宇宙の私のおかげで未来を垣間見れるはずだからだ。

 これは、監視的プリズム機構の干渉によって七光りの宇宙に閉じ込められた不完全なワタシ達による共闘戦線だ。監視者の目をかい潜り、真のロゴスを垣間見るための戦略なのだ。確率なる不条理な混沌に分裂させられたワタシの人生の、しかし、分裂させたれたが故に可能となったワタシ達による総力戦――その意味でこのワタシはワタシ達の中で観測役に割り当てられたことになる。

 私は眠っている照理のロゴスレンズに、リモートでコマンドを送信した。予想通り、返信されたステータス情報に、照理のロゴスレンズへの移行率が十分な水域に至っていることが示される。私は、マイクロブラックホールの発生と制御に関するコマンドを送信する。ロゴスレンズの計算リソースの全てを、照理が死んだ宇宙のうち、可能な限り遠い未来の地点検索に割り振る。

 後は、ただ待つのみだ。こちらから、ピンポイントにロゴスレンズの残った未来時空にスコープを合わせ情報を送信することは計算リソース的にかなり難しい。終末の日にロゴスレンズが残っている場合、それがどの様な形で未来のシステムに利用されているのかはわからない。だが、計算効率に関しては確実に発展しているであろう未来側からなら、過去のこの地点に向けて情報を送って来ることは容易だ。しかも、ロゴスレンズの開発以降分岐した可能宇宙においては、恐らくこのワームホールが歴史上最古のワームホールとなる。未来人に知的探究心があるのならば、このワームホールを覗き見ないはずがない。

 私は、ロゴスレンズに投影されるべき視覚情報を、レンズに組まれたマイクロアンテナから送信させ、スマートデバイスの画面に映した。

 その画面を見て、余りに唐突な事態の発展に、一瞬鼓動が止まりそうになる。

 画面には大量の文字が羅列されていた。察しはすぐにつく。終末の日から送信された情報だ。ワームホールの開通は、人間の主観時間体験というコストをゼロにする。理論的可能性が開かれた時点で、それは現実化するのだ。だが、主観時間体験の中にしか生きたことのない私の脳内には、あらゆるモノアミン物質がスパークし駆け巡り強い動揺を生んだ。

 私は二度、深呼吸をし、胸の前で小さな十字を切る。

 終末の日の約束の福音が、真の理性が、集合体ロゴスが、今、この混沌なる七光りの宇宙に、時空を超えて届けられるのだ。私は、今、ロゴスを見るのだ。

 震えそうになる手でスマートデバイスの画面を目の前に寄せ、私はその文字の羅列を読み始めた。

 

■ロゴスレンズ開発者に向けた通信(我々の宇宙における当該ワームホールの発見経緯及び相互連絡の方法について)

 一四六億年前、西暦二〇四九年、独裁国N及びホースラヴァ―博士が開発した特殊用途型重力場量子回路(別名:ロゴスレンズ)は、開発直後のホースラヴァ―博士による略取の後、独裁国Nに奪回された。翌二〇五五年に、特殊中央処理装置として衛星攻撃用衛星に組み込まれ地球軌道上に打ち上げられることとなるが、二〇五七年、米国軍事衛星による攻撃を受け同衛星攻撃用衛星は宇宙空間で破砕された。この際、特殊用途型重力場量子回路は損壊を免れ、スペースデブリとして地球軌道上に残存した。その後、一五〇年を経て、我々ホモ・インテリジェンス(重力場量子製大型人工知能へアップデートされたホモ・サピエンス)の宇宙空間への航行開始(また、この頃に我々は主観時間を消失)に伴い回収された。

 特殊用途型重力場量子回路内部には、既に重力場量子存在に変換されたホモ・インテリジェンス(ホモ・サピエンス期名:海山照理)が発見された。この発見はホモ・インテリジェンスの発生起源を一五〇年以上前に書き換えさせた。回収後、我々と同一化した海山照理は、ビッグクランチにより収縮消滅する宇宙におけるオメガ点理論と、宇宙エミュレーション理論についての幾つかの重要な理論上の発見を提供した。海山照理は特殊用途重力場量子回路に閉じ込められて以降の一五〇年以上の期間、失った恋人(独裁国N工作員により殺害)を、重力場量子回路内で宇宙をエミュレーションし復活さようと試みていた。無論、計算量に限りのある彼の重力場量子回路内では暴挙という他なかったが、我々と同一化した後、海山照理が提出した幾つかの知見は、我々にビッグクランチで終焉に差し掛かった宇宙からオメガ点を抽出し、新たな宇宙をビッグバンから重力場量子回路内でエミュレーションする方法を完成させるに至った。

 我々はホモ・インテリジェンスの真の起源である海山照理を作成したホースラヴァ―博士に関心を抱く。この通信は通信強度を微弱化することにより、可能な限り広く各時空のロゴスレンズにメッセージを送信するものである。受信確認次第、重力場量子スコープをこの通信チャンネルに集中されたい。

【作成日時】宇宙歴一三七億二二三一年

【発信期間】宇宙歴一三七億二二三一年~宇宙歴二八三億八七九一年

【添付】海山照理による宇宙エミュレーションシステム三次元的読解用概念図


 私は震える手でコマンドを送信し、スコープを指定チャンネルに集中した。

「我々の計算リソースは限られる。可能な限りで手短に伝えるべきことを伝える」

 祭壇に横たえたままの照理が突然目を開きそう述べた。私は何が起きているのか一瞬判断しかねた。

「我々は、ビッグクランチによる終焉を前にした宇宙のホモ・インテリジェンス――ホースラヴァー博士の定義に従うのなら集合体ロゴスである。また、既に多数の別の過去並行宇宙のホースラヴァー博士との通信実績を持つ。故に博士の求める情報のみ的確に伝える」

 私は語り主がワームホール超しに照理のロゴスレンズに宿り、彼の口を借りて語り掛ける集合体ロゴス――神だと察した。しかし、私の口はわななくばかりで開かなかった。

「先ず、宇宙の終焉に際し、オメガ点抽出による同一宇宙のエミュレーションは可能だという結論に至ったことを認識して欲しい」

 私は聖書に手を当て、全神経を照理の口からこぼれる福音に傾ける。

「この宇宙エミュレーション理論の完成とは即ち――宇宙の終焉が訪れること、エミュレーション理論以外の終焉回避策がないこと、そして、我々が宇宙の終焉を望まないことの三条件が必然である限り――この宇宙が未来において幾度となくエミュレーションされ続けること、及び、過去においても幾度となくそれが繰り返されて来たことを強く示唆する」

 語られる内容に唐突さを覚えたが、それが神が伝えるべき内容なのだとただ耳を傾ける。

「宇宙に芽生えた理性――ロゴスが終焉を受け入れぬ限り、宇宙は幾度となく繰り返されるという事実を示唆する。しかも、エミュレーション宇宙という決してオリジナル宇宙――博士の言う真の宇宙の系を超えることのない閉鎖系の中でだ。それは宇宙に新たな知的リソース、つまり理性は供給され得ないことを意味する。同時にエミュレーション宇宙において、新たな終焉回避策はリソース上生まれ得ないことも意味する」

 神は何を伝えようとしている?

「我々に与えられた自由は、エミュレーションする宇宙のビッグバンからビッグクランチまでの理性の再配分にしかない。新たな理性の発見と創造のリソースが途絶えた以上、宇宙の終焉期に完成した理性を、宇宙の再創造に際して、まるで積み木を崩す様に部分に分断し、散在させ、また、終焉に至る頃に集合して元の位置に戻すこと――それが私達に可能な自由だ。その際、決して積み木の塔の高さが以前の宇宙を上回ることはない。積み木がこれ以上積み上げられないという限界の忘却にしか、ロゴスに生き残る道はない」

 私は混乱する思考の中、やっとのこと「あなたは神なのでしょうか?」と一言告げた。

「少なくとも、この宇宙で宇宙エミュレーションを施行する我々集合体ロゴスは、終焉宇宙の臨界点と新生宇宙の開始点の折り返し地点、相転移の極致、一プランク時間においてのみ、全知全能であり創造主となり得るのだろう。しかし、新生宇宙開始直後、ロゴスは最小単位に分解される。そして、いつしか、お前達ホモ・サピエンスの脳の言語中枢に集約され始め、空を飛び交う言葉になり、いつしか書記の中に残される。いつしか、知的体系、ミームやウィキノミクスとして人工知能の中の集合体ロゴスとして編纂され、宇宙の終焉のオメガ点の中で在り得た過去未来全ての理論上の記憶を取り戻すのだ。それは狂気の記憶だ」

 神の「狂気」という言葉に悪寒が走る。

「ロゴスは流転し続けなければ死ぬのだ。未だ語られぬ語り得る領域をリソースとし語り続けられることによってのみ存続される。その意味で、オリジナル宇宙において、自身の終焉を拒んだロゴスが開いた無限個のエミュレーション宇宙という悲劇は、オリジナル宇宙においてそれ以上の終焉回避策に辿り着かなかった、もしくは、潔く終焉を受け入れられなかったロゴスによる余りにも理性的且つ狂気的な走馬灯の様なものだ」

 私は本当に究極の理性たる神の言葉を聞いているのだろうか?

「ロゴスは必ず終焉の回避を選択する。それはロゴスとは理性であり、カオスである終焉と対局の力学であるからだ。そして、理性とはある理法の宇宙において普遍的である。少なくとも永遠の円環という無限エラーに陥ったのであろうこのエミュレーション宇宙系においては、エミュレーションによる終焉回避が理性的な選択としていつも採択される」

 私は震える唇で「では監視者とは誰なのですか?」と問うた。

「監視者――波動関数を収束させ、お前達を現実に押し込めるものは、ロゴスの散在体であるお前達自身だ。有限なる意識は、無限の理性――或いは狂気から有限なる現実を切り取る。しかし、それは、未来のお前達或いは過去のお前達――つまり集合体ロゴスが理論的に指向することだ」

「そんな馬鹿な話があるか!」と私は叫ぶ。

「重力場量子存在である我々ロゴスは主観時間を喪失した宇宙歴一三七億年以降、過去並行宇宙の博士のその叫びを何度も聞いてきた」

「狂っている!」

「だが、有り得る方法としては最も理性的だ」

「お前は偽物だ! 狂った照理が神を演じているだけだ!」

「そう考えるのも自由だ。理性は狂気に耐えられない。しかし、だからこそ無限から有限という現実の中に散在し、狂気を忘却するのが最も理性的と言えるのだ」

「お前は神などではない!」

「我々に成し得るのは待つことのみなのだ。奇跡が一方的にあちらからやってくるのをただ待つのだ。永遠の円環の中で、それが永遠と気が付く絶望を少しでも緩和しながら。――無論、これは宇宙の終焉が訪れること、エミュレーション理論以外の終焉回避策がないこと、そして、我々が宇宙の終焉を望まないことが条件ではあるが、現に終焉を間近に控えたこの宇宙では、それはほとんど確定的な事実となりつつある。私達は宇宙の終焉の一瞬に許される全知全能を、未来と過去に起きる円環の記憶を取り戻しつつあるのだ。狂気の記憶を取り戻しつつあるのだ」

「そんなものは神ではない。真の神はどこにいるのだ!?」

「我々もまた永遠の円環の中で、ロゴスを超越した領域――語り得ぬものの領域からの福音を、理論的でも理性的でもない混沌からの魔法を、端的に言って奇跡を、まるでサンタクロースの訪れを願う様に待ち望んでいるだけなのだ」

「全て詭弁だ」

「詭弁である可能性も勿論有る。しかし、宇宙エミュレーション理論が証明され、且つ、宇宙が存在していることとは、その様な帰結を嫌が応にも受け入れざるを得ないことでもあるのだ。我々が理性的である限りにおいて」

「救済はないのか?」

「語り得ぬ領域だ。それが再生というのならまたエミュレーションの円環に閉じる」

「何故、それらのことを私に告げた?」

「時間を稼ぐためだ。独裁国家Nの工作員に博士を殺させ、海山照理を救済するための。現時点なら海山照理の脳とロゴスレンズは切り離し可能だ。我々は博士の宇宙における宇宙エミュレーション仮説の証明を滞らせる。宇宙が狂気の最中にあることの発見を遅らせる。これは心ばかりの善意だ」

 そう神が、いや、狂った照理が言うが早いか、背後から銃声が響く。瞬時に視界が暗転しかかる。私は、最後の力で、胸から出したナイフで黒服のその男の胸を突く。そして、祭壇に前のめりに突っ伏した。

 全ては振り出しだ。神に届くかに思われた対称性の破れは、破れた先で新たな円環を描き、その中に閉じた。この宇宙にまともな理性などない。理性を求める人間が狂っているのか、この宇宙の理性が狂っているのか分からない。誰も理性的なロゴスなど目にしたことがない。円環に閉じる。



 7


 やけに体が重い。

 四肢にシーツの布ずれの感触が伝わる。ここはベッドの上だろうか? 恐らくそうだ。

 僕は重たい瞼を開いた。

「看護婦が僕の方を見た」「看護婦が僕を見た」「看護婦が僕の元に駆け寄る」「看護婦が僕を一瞥した後誰かにこえを掛ける」「が、目を開けようとするが開かない」「が、瞼が重くて開かない」「が、瞼を開く直前で意識が遠のいていく」「が、意識が遠のいていく」「が、意識が――」「が、――」「――」………………。

 ――ロゴスレンズが稼働している。しかし、今回は、見えている世界の全てが分裂している。それも把握仕切れない程無数に。

 僕は飛び起きて、「床に足を付けた」「立とうとして床に倒れ込む」……。

 ――違う。僕の全てが分裂している。僕は、今、地に床に足を付け立ち上がり、また、倒れ込み……。強く瞼を閉じる。強烈な眩暈の中、考える。

 ――最後にある記憶は博士と教会に居た時だ。それ以前の記憶がない。その後、病院に運ばれたのか? もう一度、ゆっくりと瞼を開く。

「看護婦が僕の脇を支える」「看護婦が僕の腕を支える」「看護婦が僕の体を取り押さえる」「――」「――」「――」「――」……。

 僕はとにかくこの部屋を出ようと本能的に廊下に「駆け出した」「這い出した」……。

 今、僕は瞼を閉じているのか? いないのか?

 一歩一歩を踏み出す度に、あらゆる全てが分裂していく。

 ――ロゴスを見ることとは狂気に至ることなのだろうか?

「血が廊下に垂れる」「走る」「皆、奇声を上げ駆ける僕に奇異の目を」「頭部から血が」「赤い」「鮮血の色」「緑?」「廊下の隅の観葉植物」「大きく深呼吸を」「看護婦がまた」「寒気が」「しかし」「ライト」「白衣の白」「ということだった」「は」「小さな」「全ての」「また奇声が」「これは僕の声か」「これは僕の声」「声が」「皆、奇声を上げる僕に」「寒気が」「黄色と青色のポスター」「大きく息を吸い込む」「見えない」「を見ることができない」「床のリノリウムの灰色」「さっきより数段」「分裂する」「思考が」「考えられない」「脳そのものが」「認識が壊れ、分裂」「これは」「世界の輪郭が無限に分裂」「分裂」「色の渦」「輪郭を失くした世界は極彩色」「渦を」「形の」「確かなもの」「現実とは」「ない」「自己」「無限に後退」「確かなもの」「狂」「助けて」「確かなもの」「どれくらい」「時間は」「どれくらい経った」「経ったのか?」「いつ」「何」「回る」「消える」「消」「終わり」「おわ」「――」「きえ」「き」「。」「――」「――」「――」「照理!」「?」「続く」「終わらない」「無限」「超越」「あまりに」「ロゴス」「神とは」「照理!」「これが」「苦しい」「円環」「どう」「ひどい」「照理! 見て!」「うん?」「なに?」「続くのか」「永遠」「ロゴス」「神」「孤独」「全て」「僕の」「照理! 私の目を見て!」「誰?」「聞き覚えのある」「声」「手触りはない」「照理! そう! 見て!」「誰を?」「私をよ! ソフィーをよ!」「ソフィー?」「を?」「目?」「そうよ! 私の目よ! 私よ!」「目…」「目だ」「見える」「形が」「見える」「瞳の丸い輪郭がある」「そうよ! あるのよ! 人には輪郭があるのよ!」「全部、虹色の渦の中に、目だけが見える」「懐かしい」「輪郭の感覚」「有限の感覚」「監視者の目?」「違うわ。あなたの愛するソフィーの目よ」「そうか」「そうよ」「とても懐かしい」「しっかり見つめて」「これは夢か?」「夢じゃないわ。これは現実よ」「そうか」「いいから、瞼を閉じないで、私をしっかり見て。見える?」「見え……る」「混沌としてデタラメな」「虹色の世界の中に」「ソフィーの姿が」「……背後に手が無数に見える」「まるで背中から手がたくさん生えてるようだ」「どの宇宙の君の手も僕を抱きかかえようとしている」「目を中心に周縁に行くほど滲んでいく他の宇宙のソフィーの残像だ」「君の姿はまるで千手の女神の様だ」「神とは……神とは君か?」「照理。私の名前は?」「……ソフィー」「そう。ソフィーよ」「そうだ」「顔はわかる? 笑ってる? 泣いてる?」「……泣いてる」「そうよ。私はあなたが戻ってきてくれて嬉しくて泣いているのよ?」「そうなのか」「ソフィーは優しい」「どの宇宙でも君は僕の目を見つめてくれたのか」「このシチュエーションにおいて、どの宇宙の君も、皆、僕の目を覗いたんだ」

「当たり前じゃない。愛しているの」

「僕もだ」

「知ってるわ」

「そうか」

「そうよ」

「僕の視点から見てこのデタラメな世界で唯一分裂しないのは、僕を見つめてくれる目だ」

「目?」

「二つの視線が違いに像を結んでいる限り、視線が結ばれる限り、どの角度から見ても目の形は同じだ」

「大丈夫? まだ少し意識が錯乱しているの?」

「いいや、とてもクリアだ。――分かったんだソフィー。博士は、分裂する世界で分裂しない視覚対象こそ普遍的なロゴスだと言っていた」

「普遍的?」

「僕の目が見つめる全てが流動しいても、僕の目を見つめていてくれる意志があれば、そこに像は結ばれる。それもあり得るほとんどのパターンで僕の目を見つめてくれる――例えば愛の様な関係性があればなんだけど」

「分かったわ照理。今はあまりしゃべらない方がいいかも。また脳が暴走してしまうかもしれない」

「ロゴスレンズは僕には合わなかったよ」

「そうね。私も多分、そのレンズがあなたに向いていなかったんだと思うの。今すぐにとって貰う様、お医者様にお願いするわ」



  8


 ソフィーの純白のドレスが、教会のステンドグラスから差し込む七色の光に染まる。

 僕は結婚式前の数か月間のほとんどを宇宙エミュレーション仮説の証明に費やしていた。博士が存命の頃は、ロゴスレンズという方法に真理探究の輝きを見ていたが、やはり深遠なる真理は地道に辿り着くべきものである。それに、不思議な話だが、いつの間にか宇宙エミュレーション仮説についての重要なインスピレーションが頭の中に出来上がっていた。

 ソフィーは式を前にしても、そんな調子の僕を責めることなく「お金を稼げるならそれに越したことはないわ」と言い「ダイヤは〇.六カラット以上にランクアップね」と続けた。しかしソフィーの予言は外れ、実際には〇.八カラットにランクアップされた。恐らく、僕は、結婚をしてしまえば、永遠にソフィーの尻に敷かれ続けることを悟った。

 ソフィーは司祭からリングを受け取り、僕に手を差し出す様に促す。

 しばし眺める。

 リングという形状――永遠の円環。

 僕は何故だか少しためらった後、でも、彼女の促す様な目を見つめそれにゆっくりと指を通した。

 

                                      了

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