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「シェーラ嬢、きみは笑わない令嬢と呼ばれているんだってね。どうして笑わないの?」
ダイニングで昼食を頂きながらユリウスさまにふんわり微笑みかけられても、私はとても居たたまれなかった。ユリウスさまのお気遣いはありがたいけれど、王族専用の席に呼ばれ、食事を共にしているのは他に、ユリウスさまの親友の公爵令息フリードさまと、その婚約者でミラーナさまと親しいセイラさま。お二人とも、ユリウスさまが私をここに呼ばれたのが明らかに気に入らない、と顔に書いてある。婚約者がいる殿方は皆、フリードさまを見習うべきだと思う。
その上、ダイニングの至る所から、なんと図々しい、と語りかけてくるような冷たい視線が矢のように降り注いで来る。いくら陰口を気にするのは馬鹿馬鹿しいとは思っていても、これで平然と振る舞えるのは、鋼鉄の精神でもない限り無理だろう。私は人よりは図太い方だとは思っているけれど、それでも謂れのないあからさまな悪意を近くから遠くから浴びせられて、全く平気でいられる程強くはない。
人をふんわりした気持ちにさせるというユリウスさまの笑顔を間近で見ても……ふんわりした気持ちになんてなれる筈がない。今の状況のせいだけではなく、身分違いな恋をして破れたのだと、古傷を抉られるように胸が痛むから。どうしてユリウスさまは私を放っておいて下さらないのだろう。覚えていて下さった、それだけで良かったのに。同じ学院に通えたからって、私とユリウスさまが親しく出来る筈もないし、仮にそう出来たとしたって、ユリウスさまはミラーナさまと結婚なさるのに。
私が答えを探していると、横からセイラさまが、
「ユリウスさま、シェーラ嬢はあがっていらっしゃるのではないでしょうか。これまで貴族が大勢集まる場になんて殆ど出た経験もおありでないのでしょう。全く異なる環境に放り出されては、緊張して笑う事も出来ないでしょう」
と口を挟まれた。明らかに田舎者と見下している響きは含まれているものの、流石はミラーナさまに次ぐ学院の令嬢第二席とあって、言葉自体は柔らかく、悪意は包み隠されているように感じる。
「そんなに居心地が悪いのかい?」
セイラさまの言葉に、ユリウスさまは驚いたように軽く目を瞠られる。私はいいえと言うべきと思いつつも、言えなかった。
……ああ、この方は本当にお育ちが良すぎて、人の悪意なんて解らないんだなあと私は思う。この国の王族で、しかもふんわり王子さまなんて呼ばれて皆から好かれて……ふんわりした世界しかご存知ないのね。ちょっと頼りない気もするけれど、私が恋した子どもの頃のままなのね。
なんて一瞬思ったのだけれど、そうでもなかった。
「フリード、セイラ。僕はきみたちに頼んだよね。シェーラ嬢の立場を考えれば、皆から歓迎を受けない事くらいは僕だって想像出来る。だけど僕が傍について護ってあげる訳にもいかないから、ふたりが皆に言い聞かせて守ってあげて欲しいと」
相変わらずふんわりした声音だけれど、その中には、今までと違う感情が混ざっている。よく聞いていなければ判らないくらいのものだけれど、これは、怒り?
何年もユリウスさまに恋してきた私に判ったように、何年もユリウスさまのお傍にいたお二人にも判ったようだった。セイラさまは困った顔で口元を押えて、フリードさまも一瞬驚いたようだったけれど、でもすぐに気を取り直されたようで、こう仰った。
「僕は、セイラと共に、殿下のご意向に沿えるよう努力します、とお返事しました。しかし、第三者が努力致したところでどうしようもない事もあります」
「どうしようもない事、とは?」
「シェーラ嬢ご本人が、令嬢たちに打ち解けようとなさらず、挙句、少しばかり見目が良くて男性から優しくされたからといい気になって、身分も弁えず彼女たちの婚約者を次々と侍らせる……このような状況で、いくら我々が庇い立てをした所でどうしようもない……という事です」
ひどい。
聞こえよがしに陰口を言われるのと、ユリウスさまの前で面と向かって言われるのは、随分と傷つき方が違うんだな、と余りの悲しさに、他人事のように考えてしまう。思わず涙が滲む。いくら悪口を言われたって、それがユリウスさまにまで届く事は――いちいち私ごときの噂なんか、誰もお耳には入れないだろう、と思う事にしていたのに。
「フリード!!」
ユリウスさまは涙ぐんだ私に同情なさったのか、険しい顔つきで声を上げられた。ダイニングのざわめきがぴたりと止む。誰も、ユリウスさまが……ふんわり王子さまが怒る所なんて見た事がなかったのだ、とは後から聞いた話。
「証拠もなしにか弱い女性を辱める言葉を口にするとは何事だ! 見損なったぞ!」
「ユリウスさま、僕はユリウスさまに知って頂きたいだけです。こんな女性を学院に推薦したと国中に知れ渡ればユリウスさまの汚点になります。話が学院内にとどまっている今のうちに……!」
「だから、僕の古い友人を貶める気ならば、証拠を見せろと言っている!」
「証拠なら、あります!」
証拠……? 確かに私の周りには婚約者のいる殿方が集まって来られてはいるけれど、それは全く私の望みとは違うのに、その状況を証拠だと仰る気だろうか?!
違うと叫びかけた私を制し、フリードさまは私に近付いて来られる。公爵令息のフリードさまを押しのける訳にもいかない。
……もう、いい、と私は思う。身の程知らずに学院に入った私が馬鹿だったのだ。諦める、祝福すると思いながらも、心のどこかで、ユリウスさまの計らいに何かを期待していたのだ。子どもの頃の思い出以上のなにかを。でもそんなあり得ない夢を見たから、罰が下るのだ。悪女と呼ばれて学院から追放されれば、もう私を娶ろうなんて奇特な殿方はいないだろう。
でも、もう、いい。親の望みがどうであれ、私はユリウスさま以外の殿方なんて嫌なんだから、もう、いい……。
唇を噛んだ私は、蒼ざめていたと思う。そんな私の前に立ったフリードさまは……いきなり、私の前に、どうしてだか、跪かれた。
「フリード、何をしているの?!」
とセシルさまの声。けれどフリードさまは、相思相愛理想の相手である筈のセシルさまの方へ振り向く事もなさらずに、私に向かってこう言われた。
「シェーラ嬢。初めてお会いした瞬間から、僕は貴女の虜です。貴女は魔女だ……でなければ、僕が、セシルだけを愛していた僕が、こんな苦しい思いに囚われる訳がない」
は? 聞き間違いかと思ってまじまじとフリードさまを見つめてしまったけれど、フリードさまは熱っぽい視線を私に送ってくる。田舎では見た事もないような洗練された高位貴族の整った貌が、私だけに向けられている状況に理解が追い付かず、私は茫然としてしまう。
フリードさまは立ち上がり、びっくり顔のユリウスさまに向かって仰った。
「殿下、これが証拠です。シェーラ嬢は、セイラ一筋だった僕の心を一瞬で奪ってしまった。魔性の女性と呼ばずしてなんと? ああ殿下、僕はこんな事が殿下に起きては一大事と思い、お諫めしているのですよ」
その後の事は、よく覚えていない。セイラさまの叫び声が私の緊張の糸を切り、私は遂に気を失ってしまったのだ。フリードさまを見習うべき、なんて間違いだった、とだけはしっかり感じた。ユリウスさまが案じる声が聞こえた気もしたけれど、空耳かも知れない、と思った。