最初の商品 2
内田は直帰すると会社に連絡をいれ、戻って来て報告しろと電話越しにがなる日高をやり過ごし、指示通りの電車の車両に乗り込んだ。しかし乗ったはいいものの、いつも通りの満員電車で窮屈な思いをするだけで、気分は最悪だった。
二つ先の駅で周囲の乗客は入れ替わり、代わりに比較的綺麗で若い女性に囲まれるような状況になった。それだけでもラッキーと言える状況だったが、電車が動き出すと、後ろに立っている女性の豊満な胸部が背中に押し付けられ、その柔らかな感触に神経を集中をさせた。しかし、次の駅での乗降の慌しさの中でその感触は離れていった。
そして、降車するよう指示があった駅が次に迫り、ホーム手前で電車が急停車した。そのブレーキの反動で乗客は一方向にグッと押され、内田は吊革を支点に体を支えるが少しだけ体の向きが進行方向を向く。横に立っていた女性はバランスを崩し、内田に正面から抱きつくような形になってしまった。またしても訪れた不意の幸運に内田はテンションが上がるが、もう一方の横に立っていた女性は咄嗟に内田のスーツを掴んだようで、スーツが強く引っ張られる感覚と共に、背中部分から小さいが確かにビリッと嫌な音を聞いた。
しかし、この場でスーツを脱いで確かめることは難しかった。内田は今現在起きている小さな幸運と不幸、どちらを享受したいか天秤に掛け、勿論前者を選ぶ。
女性は体勢を戻そうとするが、ギュウギュウの車内では満足に動けないようで、諦めて現在の状況を受け入れることにしたようだった。女性の髪からはフワッっといい匂いがし、「すいません」と、はにかみながら見上げてくる女性の顔は内田の心臓の鼓動を速めた。
車内に急な信号トラブルで停車したことを謝罪するアナウンスが流れ、数分後には動き出し、ホームに到着した。抱きついた女性は降りる予定はないらしく、体勢を立て直し、吊革を掴み、何事もなかったかのような表情に戻っていった。内田はどこか名残惜しいという気持ちを感じつつ、指示に従い、降車する人の流れに乗り、電車から降りた。
電車から降り、人の流れの邪魔にならないように壁際まで移動すると鞄を下ろし、スーツの上着を脱いで、身に降りかかった不幸の状況を確認する。見事に背中部分が縫い目に沿うように破れていた。そんなに高いスーツでないにしろ、精神的にも金銭的にもダメージは小さくなく、破れた箇所を見ながら、うなだれるように大きく息を吐いた。
「あの……すいません……」
ショックを受け、を丸くしていた内田の背中に女性が声を掛けてきた。
「はい、なんでしょう?」
内田は努めて平静を装いながら、顔を上げる。そこには、いかにも会社帰りというのがしっくりくるような、少し皴の目立つシャツを着た真面目そうな女性が立っていた。顔は眼鏡をかけ、化粧は濃くなく――なんというか清楚で少し地味だが隠れ美人という言葉のよく似合っていた。
「申し訳ありません」
目が合うと、そう言いながら女性は深々と頭を下げた。
「えっと……」
内田は突然謝られ、呆気にとられる。
「あの、その、いきなりすいません。実は、その……」
女性は恐る恐るというように破れたスーツを指差す。「ああ……」と、内田は思わず納得の声を漏らす。
「まあ、あの状況なら仕方ないですし、気になさらないでください」
内田はできるだけ柔らかい言葉遣いで答える。
「いやいや、それでは申し訳ないです。せめて、弁償なり何かお詫びさせてもらわないと……」
「本当に結構ですって。それにこのスーツ、そんなにいいものではないですし、長く使ったものですから」
内田はかしこまられ過ぎたり、過度に責任を感じられても困ってしまうの質なので、何とかやり過ごそうとするも、女性はなかなか折れてはくれなかった。
「それじゃあ、せめて、今度お食事を奢るなりさせてもらえませんか?」
「わかりました。あなたがそれで満足するなら、食事でもなんでも付き合いますよ」
内田は内心ではラッキーだと感じていた。社会人になってから、これといって女性との出会いもなかった。出会い方はともかくお近づきになれそうな女性と出会えたという事実がただ嬉しかった。
内田は逸る心を抑えながら、大人な対応を心がけつつ、女性と名刺と携帯電話の連絡先を交換した。
「それでは内田さん。近いうちに連絡させてもらいます。今日は本当に申し訳ありませんでした」
「分かりました。えっと……芳野さん。繰り返しますが、スーツのことは事故みたいなものなので気になさらないでください」
内田は受け取った名刺をチラッと見ながら名前を確認しつつ、芳野に答える。
「それでは私はこれで」
内田がスーツと鞄を手に歩き出す。途中、なんとなく気になって振り返ると、芳野は視線に気付き柔らかい笑顔を返しながら小さく頭を下げていた。内田は頭を掻きながら、この幸運のような出会いをそのまま享受していいのだろうかと頭を悩ませつつ、指示に従うために遠回りしたので、正しい家路に向かう電車を乗り換えるため、ホーム内の人の流れに身を投じた。