01話 胡蝶の夢
ニクスは俺がドアを開けて日富野家に通すと、真っ先に玄関の隅っこを見て、
「なんで盛り塩してないの? ダメじゃない」
と言い放った。
盛り塩。確か魔除けの何ちゃらだ。ばあちゃん家で見た事ある。よーわからんがしなきゃならん物では無い事はわかる。
「いや普通しないだろ」
「あれ知らない? 普通はね、盛り塩して悪いモノが家に入って来ないようにするの。これ常識。覚えとかないと恥かいちゃうよ」
ニクスは手を腰に当て、反対の手で人差し指を立てて訳知り顔で講義して下さった。
その言いくるめは効かないぞ。何が常識だよ、どーせいつものニクスの病気だ。
「ヒプノスの普通が世の中の普通だと思わない方が良いよ。自覚あるでしょ」
「……確かに!」
すぐに盛り塩した。
今日は一度は行っておきたいから、と言うのでニクスを日富野家に招待した。アリスは何やら商談があるらしく来ていない。商談が無くてもこんな中流階級の一軒家にわざわざ来ないと思うが。
リアルでは散々学校休んで勉強も疎かになったのになんとか長宗我部と揃って進級でき、最近調子が良い。
夢世界でも調子が良い。今まで出来なかった人工物の創造ができるようになったのだ。
アサンの偉業に心打たれたその日にできるようになったから、恐らく人間や人工物を蔑む精神的な楔が緩んだ事が原因と考えられる。
複雑な心境だ。まさか俺が人間に一目置く日が来るとは。しかもそれで強くなってしまったのだから、今までのお前は未熟だったのだと自分自身に突きつけられたようで気に入らない。
お邪魔します、と言って玄関で靴を脱ぐニクスは買い物袋を持っていた。中には肉やら野菜やらがゴロゴロ入っている。
「わざわざ持って来たのか? 料理するなら食材ぐらいこっちで用意するのに」
「いいよこれぐらい。ヒプノスにはもう色々用意して貰ったし」
「そうか? あー、スリッパはそれ使ってくれ。台所はこっちだ」
台所に案内すると、ニクスは窓際の花瓶や冷蔵庫にマグネットで留められたゴミ出し日程表、テレビ横のプルタブ集め用の缶を見て不思議そうに首を傾げた。
「なんかドラゴンっぽく無いね?」
「親父にそういうの禁止されてんだよ。小一の時に初めてドラゴンの夢見てな、その時興奮して家中ドラゴンの落書きだらけにしてクソほど怒られて……まあ、それで俺の部屋以外禁止になった」
理不尽な話だ。人間の写真を飾ったりつまらん花柄の壁紙を張るより遥かに有意義な模様替えだったのだが。
「あ、じゃあやっぱりヒプノスの部屋はドラゴンしかない! って感じなんだ?」
「叔父さんの海外土産とかパソコンとか長宗我部が置きっぱにしてった資格本以外はそうだな」
「見てみたい。いい?」
興味を示したニクスを二階の俺の部屋に連れていったが、カーテンが黒くないだの、魔法の杖が置いてないだの、魔力を感じないだの、窓のドラゴンステッカーの貼り方が風水的に最悪だの、内装に片っ端からダメ出しをしてきたので追い出した。
俺に言わせればニクスの黒魔術部屋も大概だぞ。黒猫のぬいぐるみや牛の頭蓋骨が置いてあるのは評価するがそれ以外はセンスを疑う。
ニクスが今日わざわざこんな時間に日富野家を見たみたいと言い出したのは明日の下見のためだ。ざっと家の中を案内して下見を済ませたニクスは御機嫌で魔女帽を被りエプロン代わりのかぼちゃ柄ローブに着替えて台所に立った。
本気で料理をするつもりらしい。
ニクスは料理が上手い。
……と聞いている。
幼い頃から有栖川屋敷で大金持ち専属の一流料理人に手ほどきを受けているのだから下手な訳が無い。だが実際に料理をしているところを見た事はない。
俺もどちらかというと料理より狩猟が得意なタイプの男子だから料理について講釈垂れたりはできないが料理のさしすせそぐらいは理解している。サカナ、シカ、スズメ、セイウチ、ソデイカだ。
果たしてニクスにさしすせそが分かるだろうか。
「先生、今日は何を作るんですか」
「今日はですね、ヒプノスの好きな竜田揚げをメインに四品ほどを考えています」
「出来上がったものがこちらに」
「無いよ! 危ないからちょろちょろしないで。包丁使うんだから。座ってて」
俺の家の台所なのに追い出されてしまった。大人しくソファに座ってお料理ニクスを眺める。
台所の暴君は言うだけあって手際が良かった。肉を切り鍋の下割りを作る動きが淀みなく、すぐに美味そうな匂いが漂い始める。
ううっ、餌付けされてしまいそうだ。
人間はいつもそうだ。すぐそういう事をする。安易に美味しい食べ物をばら撒くから山や森から迷い出た動物さん達が食べて味を占めて街中に出没するようになり衝突するのだ。
悔しい。どうあがいても生肉より焼肉の方が美味いんだよな。
「美味しくなーれ♡ ひひっ」
ニクスが懐から出した小瓶の鮮血のような液体を一滴鍋に垂らすと紫色の煙が上がった。
随分黒魔術的な隠し味だなおい。
「何入れた?」
「……愛情? いやごめん今の無し忘れて」
ニクスは自分で言って自分で赤面していた。
キレそうだ。人間なのにこんなに可愛いのは世界のバグだ。いや人間で良かったと考えるべきか。ニクスがイリオモテヤマネコあたりとして正常に生まれていたら可愛いに可愛いが重なり相乗効果で破滅的可愛いが可愛いだっただろう。可愛い。
「ねえヒプノス、片栗粉どこ?」
「あ、ああ」
ニクスは食器棚の下の物入れを開けて首を傾げている。俺は首を振って無意識にニクスを追っていた目線を引き剥がした。
少し分かりにくい場所にしまってあるので出してやろうと近づく。
すると俺が食器棚を開けると同時にニクスが急に立ち上がり、ぶつかって転んだ。
「げぶぁ!?」
「ひゃっ!?」
俺達はよりにもよって折り重なるように倒れ込んだ。
俺が上になり、ニクスに覆いかぶさるような形だ。
「…………」
「…………」
すぐに退かなければいけないのに、俺は動けなかった。ニクスの綺麗な瞳が俺を魔術的に捉え離さなかった。顔が近い。
ニクスは退いて、とも、重いよ、とも言わなかった。
ただ、頬をほんのり赤くして、じっと俺を見つめていた。
この家には俺達以外誰もいない。その事を俺は急に意識した。
顔を近づけると、ニクスは一瞬びくっとして、しかし微笑んで片手を俺の頬に添えてきた。
俺達の顔はゆっくり近づいて――――
そこで目覚まし時計が鳴り、目が覚めた。
夢 オ チ




